
楽曲の概要
「Wretched」は、Bartees Strangeが2022年に発表したセカンド・アルバム『Farm to Table』の3曲目に収録された楽曲である。アルバム発売直前の6月13日に先行公開され、同作は6月17日に4ADからデジタル発売された。作詞・作曲はBartees StrangeことBartees Cox Jr.で、プロデュースには本人のほかChris Connors、Dave Cerminaraが参加している。約3分49秒の中で、エレクトロニックなビート、広がりのあるギター、シンセサイザー、ロック的な高揚を一つにつないだ曲である。
Strange自身によれば、「Wretched」は、自分がひどい状態だったときにもそばにいてくれた人々へ向けた曲だという。自分以外の何者かになろうとしていた時期にも、本当の自分を見て支えてくれた過去と未来の人々への感謝が出発点になっている。そのためタイトルには「惨めな」「ひどい」という暗い言葉が使われているが、曲そのものは自己嫌悪へ沈み込むのではなく、誰かに救われた経験を大きなエネルギーへ変えていく。
歌詞の概要
歌詞の語り手は、ある大切な人物が自分の生活からいなくなった状態を振り返っている。日が昇ることさえ遅く感じられ、相手が戻ってくることを願い続けるほど、その不在は生活全体へ影響している。過去の自分はテレビなどで見た別の誰かのようになろうとし、自分自身を否定する方向へ進んでいた。しかしその時にも相手だけは見捨てず、何度も助けてくれたという認識が曲の中心にある。
タイトルの「wretched」は、単純に悲惨な生活状況を指しているのではない。Strange本人の説明を踏まえると、自分ではない存在になろうとしていた時期の自己認識を含んでいる。成功するにはこの人物のようになるべきだ、このジャンルに合わせるべきだ、この場所ではこう振る舞うべきだ、といった圧力の中で自分を見失った状態として読むことができる。その一方で、周囲の大切な人々は表面的な役割ではなく、その内側にいる本人を見続けていた。
後半では孤独、放棄されることへの恐れ、生きることそのものへの疲労まで言葉が広がる。ただし曲はそこで終わらない。苦しい瞬間があることを認めながら、それでも自分を支えてくれた人々が存在することへの感謝へ戻る。この「苦しかったから感謝できる」という単純な教訓ではなく、苦しさと感謝が同じ時間の中に存在している感覚が、「Wretched」の大きな特徴である。
制作背景・時代背景
『Farm to Table』は、2020年のデビュー・アルバム『Live Forever』で大きな注目を集めた後に制作された作品で、Strangeにとって4AD移籍後初のアルバムだった。『Live Forever』では、オクラホマ、ワシントンD.C.、ブリュッセルなど、彼自身を形作った場所や経験が重要な題材だった。それに対して『Farm to Table』では、家族や友人をはじめ、自分の人生を支えてきた人々へ焦点が移っている。
Strangeは『Live Forever』発売直前から次の作品の録音を始めていた。当初はEPになる予定だったが、4ADとの契約やツアー生活を経て10曲のアルバムへ発展し、2021年11月にはロンドンで制作の仕上げが行われた。「Wretched」について彼は、以前から長く手を加えていた曲がロンドンでようやく一つにまとまり、その瞬間に完成形が見えたと振り返っている。複雑に作り込むより、曲自体の力を邪魔せずに鳴らすことが重要だったという。
この時期のStrangeは、インディーロック、フォーク、R&B、ヒップホップ、エレクトロニック・ミュージックなどを分けて考えない姿勢を明確にしていた。『Live Forever』で示したジャンル横断を続けながら、『Farm to Table』ではより大きな会場にも届くメロディや音の広がりが増えている。「Wretched」はその変化をよく示す曲であり、内面的な歌詞を、静かなシンガーソングライター的表現ではなく、大きく開けたポップ/ロックの高揚へ変換している。
歌詞の抜粋と和訳
この曲で重要なのは、自分が「wretched」な状態だったとき、ある人物が繰り返し自分を救ってくれたという認識である。ここでの「救う」は劇的な一度きりの行為ではなく、自分を見失っていた人物を何度も現実へ引き戻すような支えとして描かれている。
同時に、歌詞には「自分ではない何者かになろうとしていた」という感覚がある。外部のイメージを真似ることと、自分を理解してくれる人に見てもらうことが対照になっている。そのため「Wretched」は感謝の歌であると同時に、自分自身へ戻っていく歌としても読むことができる。
サウンドと歌詞の考察
「Wretched」の冒頭でまず耳を引くのは、ロック曲らしいギターの強さより、細かく刻まれる電子的なリズムと音の空間である。ビートは一定の速度で脈打ち、シンセや加工された音がその周囲を埋めていく。最初から巨大な音を出すのではなく、声とリズムを中心に少しずつ層を増やすため、曲は内省から高揚へ向かって進んでいくように聞こえる。孤独を語る前半と、この段階的なアレンジがよく対応している。
ギターも単なるコード伴奏ではない。高音域で広がる音が、Coldplayの2000年代半ばの作品を連想させるような大きな空間を作り、曲が進むにつれて視界が開けていく。The Line of Best Fitが指摘したように、「Wretched」では楽器の種類や配置が絶えず変化しながらも、最終的には非常に大きなポップ・フックへ収束する。Strangeが得意とするジャンル横断はここでも聞けるが、それを「今はロック、次はR&B」と目立たせるのではなく、一曲の中へ自然に溶かしている。
Bartees Strangeのボーカルは、その変化をつなぐ中心である。ヴァースでは言葉を細かく区切り、独り言に近い距離感で歌う部分がある一方、曲が開けると声量も音域も大きくなる。彼はロック・シンガーのように強く張る声と、R&Bに近い滑らかなフレージングを自由に行き来するため、ジャンルが変化しても歌だけが浮かない。声の使い分けそのものが「一つの型に自分を合わせなくていい」という歌詞の内容とも重なって聞こえる。
サビへ向かう高揚には、単純な幸福感だけではないところも重要だ。歌詞には、自分の人生が正しく感じられないことや、孤独に取り残される感覚、場合によっては朝を迎えたくないほどの疲弊まで含まれている。にもかかわらずサウンドは上昇していく。悲しい言葉に悲しいコードだけを当てるのではなく、苦しい状態から誰かとの結びつきによって力を得る過程を、音量と音の広がりによって表している。
リズムもこの感覚に大きく関係する。電子的なビートは細かく動きながら一定の推進力を保ち、曲が感傷へ沈みすぎることを防ぐ。心情としては立ち止まっているのに、音楽は身体を前へ運び続ける。この対照によって、語り手が完全に立ち直ったわけではなくても、支えてくれる人との関係が前進する力になっていることが伝わる。
Strange自身が「曲の邪魔をせず、そのまま鳴らす」ことが完成への鍵だったと語っているのも興味深い。彼の音楽は多くのジャンルや細かなプロダクションを含むため、複雑さ自体が魅力になりやすい。しかし「Wretched」では、最終的に残るのは非常に単純な感情である。自分が最悪の状態だったときも、誰かがそこにいた。その感謝を大きなメロディへ乗せることで、細かな音楽的参照を知らなくても感情が伝わる構造になっている。
そしてこの曲は、『Farm to Table』というアルバム全体の考え方ともよく結びつく。前作の成功によってStrangeはインディーロックの中心へ急速に近づいたが、新たな評価は同時に「これから何者になるのか」という不安も生んだ。そんな時期に、自分を成功へ導いた新しい人脈だけではなく、成功以前から自分を知っていた人々へ視線を戻す。「Wretched」の巨大なサウンドが自己肯定の勝利宣言ではなく、他者への感謝を表していることに、この曲の個性がある。
この曲が好きな人におすすめの曲 5曲
「Heavy Heart」 by Bartees Strange
同じ『Farm to Table』の冒頭曲。成功、家族、罪悪感を扱いながら、鋭いギターと大きなサビによって複雑な感情を前向きな推進力へ変える。「Wretched」のロック寄りの高揚が好きなら自然につながる。
「Mulholland Dr.」 by Bartees Strange
「Wretched」の直前に置かれた曲で、より滑らかなリズムと広がりのあるポップ感覚が強い。ジャンルを目立つ形で切り替えず、R&Bとインディーロックを一つの曲へ溶かすStrangeの手法を比較しやすい。
「Hennessy」 by Bartees Strange
『Farm to Table』の最後を飾る楽曲。大きく高揚する「Wretched」に対し、こちらはよりソウルフルで共同体的な温かさを持つ。自分を支えてきた人々への感謝というアルバムの中心テーマを別の角度から聞ける。
「Every Teardrop Is a Waterfall」 by Coldplay
反復するギターと電子的なリズムを組み合わせ、内面的な感情を大きな空間へ解放する曲。「Wretched」のギターが作る開放感や、悲しみを上向きのサウンドへ変える方法と比較しやすい。
「Kyoto」 by Phoebe Bridgers
音楽性は異なるが、複雑な家族感情や罪悪感を、沈んだバラードではなく明るく推進力のあるインディーロックへ乗せている。「Wretched」と同様、サウンドの高揚と歌詞の痛みが単純には一致しない曲である。
まとめ
「Wretched」は、自分が最も自分らしくなかった時期にも、変わらず見てくれていた人々への感謝を歌った曲である。孤独や自己否定を扱いながら、Bartees Strangeはそれを静かな悲しみに閉じ込めず、電子的なビート、空間的なギター、伸びやかなボーカルによって大きな高揚へ変えている。重要なのは、そこで勝利を宣言するのではなく、自分一人では現在の場所まで来られなかったと認めていることだ。『Farm to Table』が成功後の自分を見つめながら、家族や友人、過去から続く関係へ戻っていく作品であることを、最も開放的なサウンドで示した一曲である。
参照元
- 4AD
- Bartees Strange公式Bandcamp
- Pitchfork
- The Line of Best Fit
- Uproxx
- Qobuz

コメント