※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。
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1991年のmy bloody valentine『Loveless』は、しばしば「轟音」という言葉で説明される。何層にも重なったギター、輪郭の溶けたヴォーカル、揺れ続けるピッチ、巨大なのに位置を特定しにくいリズム。ところが実際にアルバムを聴くと、圧倒されるだけではなく、妙に近い。Kevin ShieldsとBilinda Butcherの声は耳元で囁いているように聞こえ、「Sometimes」や「Blown a Wish」には、巨大な音の壁とは矛盾するほど私的な感触がある。『Loveless』の不思議さは、音量と親密さ、人工性と身体感覚、曖昧さと感情の強さが対立せず、むしろ互いを増幅していることにある。今回はNaomi、Alex、Sophieの3人が、ギターの揺れ、ヴォーカルの位置、リズム、録音、メロディ、そして「何を歌っているのか分からないのになぜ感情が伝わるのか」という点から、この作品の逆説を掘り下げる。
- 『Loveless』の轟音は「大きい音」ではなく「境界がない音」
- 声が小さいからこそ、耳を近づけたくなる
- 「Only Shallow」はなぜ爆発と囁きが同じ曲に存在できるのか
- 「When You Sleep」のメロディは轟音の中でなぜ消えないのか
- 『Loveless』のギターはなぜ「演奏している人」を感じさせないのか
- 「Sometimes」はなぜ最も静かな曲ではないのに最も内向的なのか
- 「To Here Knows When」では音楽が触覚に近づく
- リズムはなぜ曖昧なのに、曲が崩れないのか
- 『Loveless』のメロディはなぜ「懐かしい」のに過去の音楽に聞こえないのか
- 制作の執念はなぜ「冷たい完璧さ」にならなかったのか
- 「Soon」が示す、轟音とダンスの意外な近さ
- 最高傑作としての『Loveless』、そして1曲だけ選ぶなら
- 過小評価された曲に見える『Loveless』の別の親密さ
- 対談を終えて
- 関連レビュー
『Loveless』の轟音は「大きい音」ではなく「境界がない音」
『Loveless』を轟音アルバムと呼ぶのは間違いではないけれど、私は単純な音圧の大きさより「境界の消え方」が重要だと思います。普通のロック録音なら、ギターは左、スネアは中央、声は前というように、それぞれの音がある程度位置を持つ。でも『Loveless』では、ギターのピッチが揺れ、残響や重なりによって輪郭が溶けて、どこからどこまでが一つの楽器なのか分からなくなる。大きいというより、音が部屋いっぱいに広がって逃げ場がなくなる。それが轟音として感じられるんです。
そこはギターの使い方が決定的ですよね。Kevin Shieldsのいわゆる“glide guitar”は、トレモロ・アームをコードを弾きながら細かく操作することで、音程そのものをわずかに揺らす。だから普通の歪んだギターみたいに「このコードがここで鳴った」と固定されない。コードは聞こえているのに、輪郭だけが呼吸しているように動く。その結果、ギターが壁になるというより、液体みたいなものになる。
しかもその「液体」という感覚が、攻撃性ではなく親密さにつながっていると思います。ハードロックの巨大なギターは、演奏者がこちらへ向かって音を投げつける感じがある。でも『Loveless』のギターは、聴き手と演奏者の間に壁を作るのではなく、聴き手自身を包み込む。だから音量は大きくても、距離は遠くならないんですよね。
そう。音響的な巨大さと心理的な距離は別なんです。『Loveless』は前者を最大化しながら、後者を縮めている。特にヴォーカルが前へ突き出ず、ギターの内部に埋め込まれているから、スターが客席へ向かって歌っている感じが弱い。その代わり、音全体が耳のすぐ近くで発生しているように感じる。
だから僕は、このアルバムを「音の壁」と呼ぶより「音の皮膚」に近いものとして聴きます。壁ならこちらと向こうを分ける。でも皮膚は触れている境界でしょう。ギターの歪みがそんな役割をしている。外から圧迫されるというより、自分の感覚の表面そのものが揺れているみたいなんです。
声が小さいからこそ、耳を近づけたくなる
親密さという意味では、BilindaとKevinのヴォーカルが本当に重要ですね。普通なら巨大なギターに負けないよう、歌も強く前へ出すはずです。でも『Loveless』では逆で、声が音の中へ沈んでいる。歌詞を一語ずつ明瞭に伝えるより、声の息遣いや母音の響きが残る。そのため聴き手の側が能動的に近づかないといけない。
ミックス上も、声を「情報の中心」にしていないんですよね。歌詞を理解させるために高域を明瞭にして前へ出すという、ポップの一般的な処理とは違う。声もギターやシンセのような一つのテクスチャーとして扱われる。でも完全に匿名化されるわけではなく、人間の息や柔らかさは残っている。ここが非常に繊細です。
特にBilindaの声は、ロックの轟音に対抗しようとしない。それがすごくいい。「Only Shallow」なんてイントロはかなり暴力的でしょう。あのギターの切れ目のないうねりの後に声が入ると、急に部屋の温度が変わる。でも声量が大きくなったわけじゃない。むしろ小さいから、ギターの攻撃性が別の意味に変わるんです。
そこにはジェンダー的な面白さもあると思います。ロックの強さを「大声」「支配的な身体」「前へ出る人物」と結びつける伝統に対して、『Loveless』はかなり違う。声は支配せず、ギターも英雄的なソロへ向かわない。それでも作品全体の存在感は圧倒的です。強さが前景化ではなく、浸透する力として表現されている。
そして、歌詞が聞き取りにくいこと自体も親密さを増していると思います。完全に意味が見えないからこそ、聴き手は自分の感情を投影する余地がある。誰かの具体的な物語を聞かされるというより、自分の記憶の中にある曖昧な感情と音が結びつく。声が意味より質感として働くことで、個人的な聴取体験が生まれるんです。
「Only Shallow」はなぜ爆発と囁きが同じ曲に存在できるのか
『Loveless』の入口として「Only Shallow」はほとんど完璧ですよね。冒頭のドラムから入って、すぐにあの巨大なギターが来る。普通ならそこで「このアルバムは暴力的なノイズ作品です」と宣言するところなのに、ヴォーカルが入った瞬間に全然違う景色になる。僕はあの落差が『Loveless』の基本文法だと思います。
しかもギターの轟音部分は、単に歪ませたコードを重ねているだけではないんです。ピッチがわずかに動き続けるから、音の塊が固定されない。そこにサンプリング的な処理や反復感も加わって、ギターが「演奏された音」より「加工された現象」に近づく。だからヴォーカルと対立しないんですよ。両方とも現実の楽器や声でありながら、少し現実離れしている。
私は「Only Shallow」を聴くと、親密さって必ずしも静けさではないんだと思います。感情が強いとき、人間の内側はむしろかなりうるさいでしょう。でも外に出す言葉は小さい。その内部と外部の差が、この曲では巨大なギターと囁く声として分かれているように聞こえる。
その解釈はすごく分かります。ギターが感情の背景ではなく、声の内部状態みたいなんですよね。普通のロックなら歌手が叫ぶことで感情を表す。でもここでは歌手は静かなまま、周囲のギターが代わりに叫んでいる。だから声自体は壊れずにいられる。
しかもドラムがかなり重要です。『Loveless』はギターばかり語られるけれど、リズムが完全に消えているわけではない。「Only Shallow」ではドラムが周期をはっきり示しているので、ギターがどれだけ揺れても曲全体は崩れない。聴き手はビートという足場を持ったまま、音響だけが溶けていく。この安定と不安定の同居も大きいですね。
つまり聴き手を完全に迷わせないんです。歌詞は曖昧、ギターの輪郭も曖昧、でもリズムとメロディには明確な反復がある。だから難解になりすぎない。『Loveless』は音響的には極端なのに、感情的な入口は意外に広いんです。
「When You Sleep」のメロディは轟音の中でなぜ消えないのか
「When You Sleep」は、Kevin Shieldsのメロディ感覚を考えるうえですごく重要だと思います。あれだけギターを重ねても、中心のメロディがはっきり残る。コード進行も曲の流れもかなりポップなんですよ。もしアコースティック・ギターだけで演奏しても、曲として成立する。それが『Loveless』の強さです。
そうですね。音響が特殊だから曲が成立しているのではなく、曲の骨格自体がかなり強い。その上で、通常ならコードの機能を明確にするギターが、ここでは音色の雲になる。メロディはその雲の中を進む線として残る。だから聴き手は「何が鳴っているか分からない」のに「どこへ向かっているか」は分かるんです。
それが親密さにもつながっていますね。メロディには幼い記憶みたいな単純さがあるのに、音響は巨大で複雑。その組み合わせによって、個人的な思い出が頭の中で過剰に膨らんでいるように聞こえる。実際の出来事は小さいのに、思い出したときには世界全体を覆う。その感覚に近い。
あと「When You Sleep」の声も面白いです。Kevinだけの単純なリード・ヴォーカルとして聞こえるというより、複数の声が混ざって人格が少し曖昧になる。誰が歌っているかを前面に出すより、一つの感情の塊として処理している。それがギターの多重性とも合っているんですよ。
『Loveless』では「一つの音源、一つの人物」という対応がどんどん崩れるんです。ギターが何本あるか分からない、声がどこまで重なっているか分からない、リズムも生演奏と処理の境界が曖昧になる。でも感情は薄くならない。むしろ主体が曖昧だから、誰の感情なのかを限定せずに聴ける。
そこはかなり重要です。恋愛の歌だとしても、「これはKevin Shieldsという人物の具体的な恋愛です」とは聞こえない。人格が溶けているから、聴き手自身の感情として受け取れる。親密なのに私小説的ではないんです。
『Loveless』のギターはなぜ「演奏している人」を感じさせないのか
ギタリストの立場から言うと、『Loveless』はものすごくギター中心なのに、ギター・ヒーローの存在感がほとんどないのが面白いです。Kevin Shieldsは実際にはものすごく細かく音を作っている。でも聴いていて「このフレーズを弾いているKevinを見てくれ」とはならない。演奏者より音の現象が前に出る。
それは録音と編集の発想が大きいと思います。楽器をそのまま記録するより、「録音された音をどう変形させるか」が重要になる。だからギターは身体の延長でありながら、同時に素材でもある。演奏した瞬間が完成ではなく、その後の重ね方や加工で最終的な存在が決まる。
その結果、ロックにありがちな男性的な自己顕示からかなり離れるんですよね。ギターが巨大でも、支配的な人格は感じない。だから聴き手は「強い演奏者を見上げる」姿勢を要求されない。巨大な音の中に自分自身が入っていく感じになる。
僕はここが、同時代のハードロックやグランジとの大きな違いだと思います。同じように歪んだギターを使っても、NirvanaならKurtの腕の動きやピックのアタックがかなり想像できる。My Bloody Valentineでは、その身体の痕跡が意図的に薄い。ピックで弾いた瞬間より、その後に音がどう揺れ続けるかが重要なんです。
しかも、完全に機械的でもない。ピッチの揺れ方には人間の手の微妙な不規則さがある。もしLFOで完全に一定の揺れを作れば、もっと冷たい音になるでしょう。でもトレモロ・アームを手で操作することで、揺れに均一ではない動きが生まれる。身体は見えないけれど、身体の不完全さだけが残っているんです。
それはすごく『Loveless』らしいですね。ギタリストの顔は消えるのに、指や手首の微細な動きは音の中に残る。人格を消して身体感覚だけを残す。その結果、派手なソロよりずっと触覚的なギターになるんです。
「Sometimes」はなぜ最も静かな曲ではないのに最も内向的なのか
「Sometimes」はこのアルバムの親密さを考えるなら外せません。音量だけで言えば全然静かではない。ギターはかなり厚い。でも聴いていると、アルバムの中でも特に一人きりの部屋に近い感覚がある。外に向かって鳴っているというより、頭の中で巨大な音が続いているように聞こえるんです。
あの曲はギターの重なり方がすごいですよね。リズムを細かく刻むというより、コードの塊がずっと持続している。しかもドラムの存在感がかなり後ろへ下がっているから、普通のバンド演奏としての時間感覚が弱い。結果として、曲が進んでいるのに同じ瞬間の中に留まり続けている感じがする。
私は「Sometimes」を聴くと、残響というより記憶の持続を感じます。一つのコードが次のコードへ移っても、前の音が完全には消えない。だから時間がきれいに区切られない。現在の音の中に少し前の音が残っていて、過去と現在が重なる。その構造自体が非常に感情的です。
そこにKevinの声が入ると、さらに私的になりますね。歌は声高に何かを訴えないし、言葉も完全には前に出ない。なのにメロディの輪郭だけで切実さがある。私はこれを、誰かに話しかけているというより、自分の頭の中で同じ言葉を何度も反芻している状態として聴きます。
だから轟音が外向的なものではないんですよ。ライブで観客を圧倒するための音ではなく、内面のサイズを実際の音量へ変換したように聞こえる。考えごとが止まらないときって、外は静かでも頭の中はすごくうるさいでしょう。「Sometimes」はそれをギターでやっている。
しかもこの曲では、轟音が情動のピークではなく持続状態なんです。普通のロックなら静かなヴァースから大きなコーラスへ行くことで感情を示す。でも「Sometimes」はずっと厚いまま進む。そのため感情が爆発するのではなく、抜けられない環境として存在する。それが親密で少し苦しい。
「To Here Knows When」では音楽が触覚に近づく
『Loveless』の中で最も音響的に極端なのは「To Here Knows When」だと思います。ギターなのかシンセなのか、何が前で何が後ろなのかという区別がほとんど意味を失う。音程も輪郭も揺れていて、メロディは存在するのに、何か柔らかい膜を通して聞いているような感じがする。
ギター・ロックとして聴くと、かなり異常ですよね。リフやコード・ストロークを追いかけようとしても、手応えがない。普通のギターならピックが弦に当たる瞬間が音の輪郭になるけれど、ここではアタックが溶けている。だから「弾いている」というより「漂っている」。
私はあの曲を聴くと、視覚より触覚に近いと思います。何かをはっきり見るのではなく、目を閉じた状態で温度や圧力だけ感じるような音。歌詞もほとんど聞き取れないから、意味より身体感覚が先に来る。そこまで抽象的なのに、冷たい実験音楽には聞こえない。
その理由の一つは、声の柔らかさでしょうね。Bilindaのヴォーカルは楽器の中へ溶けているけれど、人間の息だけは残る。抽象的な音響の中央に、完全には消えない身体がある。その小さな身体性が、巨大なテクスチャー全体を人間的にしている。
あとKevinの音作りは、ノイズを尖らせるより丸める方向が多いんです。歪みは激しいけれど、高域の痛さだけを強調するわけではない。だから大音量でも音に厚みがあって、布団みたいに包む瞬間がある。轟音なのに安心感が出るのは、その周波数の感触も大きいと思います。
だから「親密」という言葉が合うんでしょうね。親密さは小さな音のことではなく、相手との距離が近いことです。「To Here Knows When」は音の意味を説明しない代わりに、ほとんど皮膚へ直接届く。その近さが、言葉以上に私的な感覚を生む。
リズムはなぜ曖昧なのに、曲が崩れないのか
『Loveless』はギターの揺れが有名だけれど、曲自体はかなりしっかりしたポップ構造を持っています。それを支えているのがリズムです。ところがドラムを前面に出す作品ではない。むしろ場所によってはドラムが遠く、輪郭も処理されている。それでも曲が崩れないのは、ギター自体が強いリズム感を持っているからだと思います。
そうですね。Kevinのギターはピッチが揺れているけれど、ストロークの周期自体はかなり明確です。だから音程が不安定でも時間は安定する。そこにドラムやサンプル的な処理が補助的に入り、リズムの中心を作る。聴き手はビートを「聴く」というより、全体の脈拍として感じる。
それが親密さにつながるのも面白いですね。強いスネアが前面にあると、どうしても公共的な空間を感じやすい。ライブ会場やクラブみたいな場所です。でも『Loveless』ではリズムが身体の内部に近い。外から叩かれるビートより、自分の心拍に近い感覚がある。
「Soon」なんかは逆にかなりグルーヴがはっきりしていますよね。アルバム最後で、ほとんどダンス・ミュージック的な反復が出てくる。そこでもギターは揺れているけれど、リズムが前へ進ませる。My Bloody Valentineが単に夢の中で漂うバンドではないことが分かる曲です。
「Soon」は重要です。ループ感のあるビートとギターの揺れが共存していて、ロックとダンスの境界が曖昧になる。音響は溶けているのに、身体は動かされる。『Loveless』全体にも、この「意識は漂うけれど身体には脈がある」という二重性があります。
つまり夢見心地という言葉だけでは足りないんですよね。夢というより、半分眠っているのに身体感覚だけは残っている状態に近い。だから浮遊感があるのに完全には消えない。その生理的な感覚がアルバムの親密さを支えていると思います。
『Loveless』のメロディはなぜ「懐かしい」のに過去の音楽に聞こえないのか
『Loveless』には、はっきり説明できない懐かしさがあります。でも60年代や70年代の特定のスタイルを再現しているわけではない。メロディだけ取り出すと、かなり素直で甘いものが多い。それが未来的な音響の中に入るから、昔の記憶をまだ存在しない方法で思い出しているように聞こえるんです。
僕もKevinの曲作りには意外なくらいポップな部分があると思います。「Blown a Wish」なんて、メロディだけならすごく優しい。でも普通ならその甘さをストリングスやクリーン・ギターで包むところを、彼らは揺れる轟音で包む。だからセンチメンタルになりすぎない。
音響的には、テープやピッチの揺れに似た感覚も懐かしさを作っていると思います。完全に固定されたデジタル的な音程より、わずかに不安定な音には古い記録媒体のような感触がある。でも『Loveless』は単純にレトロではなく、その揺れを極端な音響設計へ使っている。だからノスタルジーと未来性が同時に存在する。
記憶って、実際にはそんなに鮮明じゃないでしょう。顔や場所の輪郭がぼやけていて、でも感情だけ妙に強く残ることがある。『Loveless』の音はそれに近い。何が鳴っているかは曖昧なのに、その音に触れたときの感情だけは鮮明です。
だから僕はこの作品を「夢」というより「記憶」のアルバムとして聴くことが多いですね。夢ならもっと脈絡がなくてもいい。でも『Loveless』にはちゃんと曲がある。その曲が分厚い加工を通してぼやける。つまり元の出来事はあるけれど、思い出す過程で輪郭が変形している感じなんです。
それが音響と感情の接点でしょうね。Kevin Shieldsは感情を説明するために音響を使っているのではなく、感情が記憶の中でどう変形するかを音響として作っている。だから特殊なギター・サウンドが単なるエフェクトにならないんです。
制作の執念はなぜ「冷たい完璧さ」にならなかったのか
『Loveless』は制作の長期化や膨大なスタジオ作業について語られがちな作品です。複数のスタジオを移り、音色や録音方法を細かく追求した。その話だけ聞くと、完成品は非常に計算された冷たい作品になりそうですよね。でも実際には逆で、すごく身体的で曖昧です。
そこが面白い。普通、完璧主義って音をクリアにする方向へ行きがちです。ギターのノイズを減らす、ドラムを正確にする、声を前へ出す。でもKevinの完璧主義は、「もっと曖昧にしたい」「もっと揺れを自然にしたい」という方向へ向かっている。明瞭さではなく、特定の感触を再現するための精密さなんです。
つまり「何が鳴っているかを分かりやすくするため」の技術ではなく、「分からなさを正確に作るため」の技術なんですね。それはかなり逆説的です。聴き手には偶然の霧のように聞こえるけれど、その霧を作るためにものすごく細かい判断がある。
しかも完全な均一化を避けている。もしすべてをデジタル的に揃えたら、音はもっと硬くなるはずです。でも演奏の揺れや声の息、ギターの微妙なピッチ変化を残している。だから制作は精密でも、結果は生命のない表面にならない。
ギターに関しても、歪みをきれいに整えるより、少し崩れたところを残す。ピッチが完全に正しくないこと自体が音の魅力になる。だから「上手く録る」という普通の基準から外れているんですよね。正確なミスみたいなものを作っている。
その矛盾が、親密さにつながっていると思います。完璧な製品を見せられているのではなく、誰かが頭の中にある感覚をどうにか物質化しようとしている。その痕跡が音に残っている。だから制作規模が大きくても、個人的な作品として聞こえるんです。
「Soon」が示す、轟音とダンスの意外な近さ
「Soon」を最後に置いたことで、『Loveless』全体の聞こえ方が変わると思います。ここまでの音響は内向的な夢としても理解できるけれど、「Soon」ではかなり明確な反復ビートが出てくる。すると、ギターの揺れがアンビエント的なものだけではなく、ダンス・ミュージックの反復ともつながって見える。
ギタリストとして聴いても、あの曲はかなり特殊です。ギターがリフを弾いて曲を支配するのではなく、ループの上に巨大な色をつける。ロック・バンドのアンサンブルというより、サンプルやシーケンスと同じ感覚でギターを置いている。後のギター音楽への影響を考えるうえでも大きいと思います。
しかもアルバム最後なのに、壮大な終幕感がないんですよね。むしろまた最初へ戻れそうな循環感がある。『Loveless』全体が明確な物語を持たないから、最後も結論ではなく持続になる。このアルバムの親密さって、告白を聞き終える感覚ではなく、同じ感情の中にしばらく留まることなんでしょうね。
ダンス・ミュージックでは反復が「変化しないこと」ではなく、反復することで聴き手の知覚が変わることに価値がある。「Soon」にもそれがある。ギターとビートは同じように続くけれど、聴いている自分の感覚が少しずつ変わっていく。その意味で『Loveless』の音響思想をかなり分かりやすく示している曲です。
それに轟音って、パンクやメタルでは攻撃として使われることが多い。でも「Soon」では快楽になる。ギターの大きさが身体を押すのではなく、ビートと一緒に身体を浮かせる。My Bloody Valentineは轟音の意味自体を変えたと思います。
だからこの作品の音は、男性的な攻撃性にも、静かな内省にも完全には属さない。大きいのに柔らかく、身体的なのに夢のようで、人工的なのに官能的。その分類しにくさが今も残っているんでしょうね。
最高傑作としての『Loveless』、そして1曲だけ選ぶなら
My Bloody Valentineの最高傑作を一枚選ぶなら、やはり『Loveless』です。『Isn’t Anything』にはもっとバンドとしての荒さが残っていて、それも好きです。でも『Loveless』ではギターという楽器の役割自体が変わった。リフ、コード、ソロというロックの語彙を残しながら、最終的には音色と揺れそのものが曲の感情になる。ギター・アルバムとして考えてもかなり特殊です。
私も『Loveless』ですね。重要なのは、特殊な録音技術の展示になっていないことです。「To Here Knows When」のような極端な音響も、「Sometimes」の持続感も、「Soon」の反復も、全部が違う方法で聴覚の距離感を変える。音響処理が曲の表面ではなく、聴き手の身体感覚そのものへ作用している。
最高傑作という評価に異論はないですが、初心者向けという意味でも意外に『Loveless』でいいと思います。一見難しそうなのに、「When You Sleep」や「Blown a Wish」のメロディはかなり入りやすい。まず音の感触に惹かれて、その後でギターの構造や声の位置に気づく。分析しなくても成立する作品なんです。
一曲だけなら僕は「Sometimes」を選びます。My Bloody Valentineの轟音がなぜ親密なのか、一番分かりやすい。ギターは巨大なのに、曲の感情はほとんど独り言のように近い。ギター・ロックなのにソロも見せ場もなく、音の塊全体が感情になっている。
私は「To Here Knows When」です。『Loveless』でしか成立しない感覚が一番濃いからです。何の楽器か、どこで鳴っているか、どこまでが声なのかという分類が崩れて、それでも美しい。音の情報を失うほど、触覚的な感情だけが残る。その逆説が作品全体を象徴していると思います。
私は「When You Sleep」を選びます。理由は、実験的な音響とポップなメロディが最も自然に結びついているからです。『Loveless』は難しい音響作品である前に、かなりロマンティックなポップ・アルバムでもある。その二つを分けられないことが重要です。
過小評価された曲に見える『Loveless』の別の親密さ
過小評価された曲なら私は「Blown a Wish」を挙げたいです。Bilindaの声が特に柔らかく、メロディにはほとんど子守歌のような感触がある。でも背後のギターは安定した背景ではなく、ずっと揺れている。安心と不安が同時にあるところが『Loveless』らしい。
私は「What You Want」です。アルバムの中では一見目立たないけれど、音が前後左右から押し寄せるような密度がある。ギターの層が厚いのに、一つ一つを分離して聴く必要がない。むしろ全体を一つの質感として受け取ることで、曲の魅力が出る。『Loveless』の聴き方を教えてくれる曲だと思います。
僕は「Come in Alone」ですね。イントロのギターが巨大なのに、曲全体は妙に穏やかです。普通のロックならあの音色を使えばもっと攻撃的に展開しそうなのに、メロディは柔らかいまま進む。Kevinのギターが「重い音=怒り」という対応関係から完全に自由になっている。
そこは今回のテーマに戻りますね。『Loveless』では音の大きさと感情の大きさが一対一では対応しない。轟音だから怒っているわけでも、囁いているから弱いわけでもない。音量と感情の意味を一度切り離して、別の組み合わせを作っている。
そしてその結果、聴き手の側が感情を決める余地が大きくなる。悲しいとも幸福とも完全には固定されない。だから同じ曲でも、時間や場所によってかなり違って聞こえる。『Loveless』の親密さは、作品が聴き手の内側へ入ってきて完成することから生まれているんだと思います。
対談を終えて
『Loveless』が轟音なのに親密に聴こえるのは、My Bloody Valentineが音量と距離を別々のものとして扱ったからだ。ギターは巨大に広がりながら演奏者の存在を消し、ヴォーカルは小さく埋もれながら聴き手の耳へ近づく。ピッチの揺れ、重なった音、曖昧なアタックは楽器の輪郭を溶かす一方、強いメロディとリズムの反復が曲そのものの足場を残している。だから聴き手は音響の中で迷いながらも、感情からは離れない。
この作品で轟音は攻撃ではなく、内面の大きさを物理的な音へ変換する方法になった。囁く声の周囲でギターが叫び、曖昧な音像の中に人間の手による微細な揺れが残り、人工的な録音処理が記憶や触覚のような感覚を作る。『Loveless』の革新性は、ギターをどれだけ大きく鳴らしたかではない。巨大な音を外へ向けるのではなく、聴き手の内側へ折り返したところにある。そのためこのアルバムは、世界を覆うほど大きく鳴りながら、同時に一人の耳の中だけで起きている出来事のようにも聞こえる。

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