※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。
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1990年代の電子音楽を「未来の音」と呼ぶとき、その未来は一つではなかった。Aphex TwinことRichard D. Jamesは、アシッド、アンビエント、ブレイクビーツ、ドラムンベース、異常なリズム編集を横断しながら、電子音楽を人間の演奏能力から解放していった。一方、スコットランドの兄弟Michael SandisonとMarcus EoinによるBoards of Canadaは、古びたシンセ、教育映画を思わせる声、歪んだテープ感覚によって、未来のテクノロジーをむしろ「失われた過去の記憶」として鳴らした。
1992年の『Selected Ambient Works 85-92』から1999年の『Windowlicker』へ向かったAphex Twinと、1998年の『Music Has the Right to Children』で独自の世界を決定づけたBoards of Canada。両者はWarp Recordsという接点を持ちながら、電子音楽にほとんど逆の可能性を示した。今回はNaomi、Alex、Sophieの3人が、リズム、音色、匿名性、記憶、自然、機械という観点から「90年代電子音楽の二つの未来」を考える。
※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。
- 一方は機械を加速させ、もう一方は機械を老化させた
- 『Selected Ambient Works 85-92』は本当に「アンビエント」なのか
- Aphex Twinの不気味さは、速さより「人間の時間が壊れること」にある
- Boards of Canadaは、なぜ電子音楽を「子どもの頃」に聞こえさせたのか
- 『Music Has the Right to Children』はなぜ「怖い」のに安心できるのか
- Aphex Twinは匿名的だったのか、それとも自分の顔を使いすぎたのか
- Boards of Canadaには「ロボット」ではなく「風景」がいた
- 『Richard D. James Album』はドラムンベースを「壊した」のか
- 二組とも「子ども」を使うが、その意味は真逆だった
- 『Windowlicker』は電子音楽をポップのグロテスクな鏡にした
- Boards of Canadaは「ビート」を背景へ下げたのか
- 『Geogaddi』で懐かしさは恐怖へ変わった
- Aphex Twinの未来には「進歩」という物語がなかった
- Boards of Canadaの未来には「新しさ」が必要なかった
- 二つの未来は、2000年代以降どこへ分岐したのか
- 最高傑作を一枚選ぶなら
- 初心者向けならどこから入るべきか
- 1曲だけなら──「Xtal」「Windowlicker」「Roygbiv」
- 過小評価された作品を挙げるなら
- 未来は高速化するものなのか、それとも記憶になるものなのか
- 対談を終えて
- 関連レビュー
一方は機械を加速させ、もう一方は機械を老化させた
この二組を並べると、最初に思うのは「テクノロジーに対する時間感覚が逆」ということです。
Aphex Twinは機械を未来へ押す。
Boards of Canadaは機械を過去へ戻す。
いきなり綺麗に分けたね。
もちろん実際はもっと複雑です(笑)。
でも90年代後半の代表的な音を比べると、その差はかなり明確です。
Aphex Twinの「Come to Daddy」や「Windowlicker」では、コンピューターによって音の時間をどこまで細かく切れるか、リズムをどこまで人間離れさせられるかという方向へ行く。
Boards of Canadaの『Music Has the Right to Children』では逆に、音を劣化させる。
ピッチを少し不安定にする。
テープが伸びたような感覚を作る。
古い映像の記憶みたいな声を入れる。
だからBoards of Canadaって電子音楽なのに、「最新機材」というイメージがほとんどないんですよね。
そこが重要です。
電子音楽には長いあいだ「未来」というイメージが付きまとってきた。
Kraftwerk以降もそうですし、テクノもサイエンスフィクション的な想像力と強く結びついている。
Boards of Canadaは、その未来像を反転させた。
電子機器を使って、懐かしさを作る。
一方Aphex Twinは、本当に機械が人間を追い越していく感じがある。
そう。
でも面白いのは、彼の音楽も決して冷たいだけではないんです。
『Selected Ambient Works 85-92』にはものすごく柔らかい曲がある。
だから二組とも「機械対人間」という単純な図式ではない。
Aphex Twinは機械の中に奇妙な生命を見つけ、Boards of Canadaは機械の中に失われた記憶を見つけた。
『Selected Ambient Works 85-92』は本当に「アンビエント」なのか
Aphex Twinから始めるなら、1992年の『Selected Ambient Works 85-92』。
タイトルにはAmbient Worksとあるけれど、Brian Eno的な意味でのアンビエントだけを想像するとかなり違います。
ビートが普通にある。
かなりあります。
「Xtal」「Tha」「Pulsewidth」。
四つ打ちに近いものもあるし、リズムが曲の骨格になっている。
でもクラブで機能することだけを目的にしていない。
家で聴く電子音楽という感覚?
そうですね。
後に“intelligent dance music”、IDMというカテゴリーが広がっていく背景にもつながりますが、この言葉自体はかなり問題がある。
「踊る音楽」と「知的に聴く音楽」を上下に分けてしまうから。
ロックでもありがちなやつだね。
踊れると軽い、難しいと偉い。
そう。
Aphex Twinはむしろ、その区別を崩している。
「Xtal」は美しい。
でもリズムがある。
「Heliosphan」も身体を動かせる。
クラブ的でありながら、部屋でヘッドホンでも成立する。
それは後の電子音楽にかなり大きいですよね。
非常に大きいです。
テクノやハウスの方法論を使いながら、「機能」から自由になる。
踊らせるためだけでなく、夢を見せたり、記憶を作ったりできる。
Aphex Twinの不気味さは、速さより「人間の時間が壊れること」にある
僕はAphex Twinって、速いビートの印象が強かった。
「Come to Daddy」とか。
分かります。
特に『Richard D. James Album』以降の細かなドラム編集は非常に強烈。
でも重要なのは速さそのものではないと思います。
人間が演奏する時間感覚から離れること。
つまりドラマーが叩けないからすごい、ではない?
それだけではありません。
普通のドラム演奏では、一打一打が身体の動きと対応している。
右手、左手、足。
電子編集では、その身体的制約を無視できる。
一つのスネアを数ミリ秒単位で切る。
突然逆回転させる。
音の長さを極端に変える。
同じリズムの中で質感だけを変える。
Marcusがいたら「ドラムを超えたというより、別のリズム文化だ」と言ったでしょうね。
そして視覚的にも不気味になる。
「Come to Daddy」の映像なんて、本人の顔が複製される。
人間が一人ではなくなる。
音楽も同じか。
一つのスネアが何十個にも増殖する。
まさに。
Aphex Twinの未来感って、「新しいシンセの音」だけではない。
一人の身体では作れない時間を作ることなんです。
Boards of Canadaは、なぜ電子音楽を「子どもの頃」に聞こえさせたのか
Boards of Canadaは、その逆方向に時間を操作している。
『Music Has the Right to Children』を聴くと、存在しなかった子ども時代を思い出すような感じがある。
存在しなかった記憶って変だけど、分かる(笑)。
あれは音響心理としてとても面白いです。
シンセのピッチが完全に安定していない。
高域も現代的にクリアではない。
声のサンプルも、古い教育番組や公共映像の断片を思わせる。
それによって「昔どこかで聞いた気がする」という感覚を作る。
しかも具体的な年代を完全には特定できない。
70年代っぽい。
80年代初頭っぽい。
でも実際には90年代の作品。
そう。
だから単純なレトロではない。
過去のスタイルを忠実に再現するのではなく、過去を思い出すときの曖昧さそのものを音にしている。
古いシンセを使えばBoards of Canadaになるわけじゃない。
全然違います。
ピッチ、ノイズ、サンプルの距離、リズムの少し曖昧な感触。
全部を組み合わせて記憶の質感を作る。
そこが後の「hauntology」的な音楽とも共鳴していくんでしょうね。
過去が幽霊のように現在へ戻る。
はい。ただBoards of Canadaをその一語だけで後から整理しすぎるのも注意したい。
彼らにはもっと自然や数学、子ども時代、映像文化が混ざっている。
『Music Has the Right to Children』はなぜ「怖い」のに安心できるのか
Boards of Canadaって、音は柔らかいのに時々怖いんだよね。
分かります。
「Roygbiv」なんてすごく温かいのに、そのアルバム全体の中で聴くと少し不安になる。
その理由の一つは、ピッチが微妙に揺れることだと思います。
人間は完全に安定した音程に慣れている。
ほんの少しずれると、「壊れている」と認識する。
でも壊れ方が激しすぎないから、懐かしさにもなる。
古いVHSやカセットテープと同じ。
画面が少し揺れる。
音が少しくぐもる。
完全に壊れていたら不快だけど、少しだけ劣化していると記憶っぽくなる。
そう。
Boards of Canadaはその境界をすごく上手く使う。
「Aquarius」もそうです。
数字の声や反復。
明るいようで、どこか催眠的。
子ども向け番組を深夜に一人で見ている感じ。
そう、それです。
昼間なら安全だったものが、時間帯が変わるだけで怖くなる。
つまりBoards of Canadaは、音色そのものではなく「文脈の記憶」を操作している。
Aphex Twinは匿名的だったのか、それとも自分の顔を使いすぎたのか
二組とも、普通のロックスターとは違う見せ方をしました。
でもAphex Twinって、匿名的な電子音楽家のように見えて、実は自分の顔をものすごく使う。
しかも嫌な使い方で(笑)。
『…I Care Because You Do』のジャケットもそうですし、「Windowlicker」でも自分の顔を増殖させる。
電子音楽では、演奏者の身体が見えにくいという問題があります。
ギタリストなら「今この人が弾いている」と見える。
電子音楽家は何をしているのか観客から分かりにくい。
Aphex Twinはその身体の不在を、自分の顔の過剰な複製で埋める。
顔を隠すのではなく、見せすぎて意味を壊す。
Daft Punkと逆だ。
Daft Punkはヘルメットで消える。
Aphexは顔を百個出して消える。
面白い比較ですね。
どちらも「本人の素顔=本当の人格」というポップスター観を壊している。
Boards of Canadaはもっと徹底して距離を取る。
本人たちのイメージを作品の中心に置かない。
その結果、音楽の中の風景や記憶の方が人格になる。
Boards of Canadaには「ロボット」ではなく「風景」がいた
私はBoards of Canadaの最大の特徴の一つが、アーティスト本人の代わりに風景が前へ出てくることだと思っています。
スコットランドの自然っぽい感じ?
そう。ただし風景写真そのものというより、誰もいない野原、山、古い家族写真、教育映画みたいな想像。
Daft Punkならロボット。
Björkなら本人の身体と衣装。
Aphex Twinなら歪んだRichard D. Jamesの顔。
Boards of Canadaには、そういう中心人物がいない。
音楽もそうです。
リードヴォーカルがない。
強烈なソロもない。
だから聴き手が空間の中に入りやすい。
ロック的には「誰が主役?」ってなる。
主役が環境なんです。
シンセが風景。
声のサンプルが遠くの記憶。
ビートは歩く速度。
それが後のアンビエント、チルウェイヴ、ローファイ的な美学にも長く残った気がします。
直接的な影響関係は一つずつ分ける必要がありますが、「音楽家の人格ではなく、世界そのものを作品のブランドにする」というモデルは非常に強かったと思います。
『Richard D. James Album』はドラムンベースを「壊した」のか
1996年の『Richard D. James Album』は、Aphex Twinのリズム革命を考える上で重要です。
「4」とか「Girl/Boy Song」。
そう。
ブレイクビーツをものすごく細かく編集する。
当時のジャングルやドラムンベースとの関係は無視できません。
ただ、Aphex Twinを「ドラムンベースをさらに複雑にした白人天才」みたいに語るのはかなり問題がある。
Marcusがいたらそこは強く言ったと思う。
ジャングルにはその前から独自の革新がある。
その通りです。
ブレイクビーツの高速化、サンプラーを使ったリズム編集、低音文化。
それぞれ巨大な歴史がある。
Aphex Twinの面白さは、それを別の作曲文脈へ持ち込み、メロディや奇妙な室内楽的感覚と組み合わせたこと。
「Girl/Boy Song」はストリングスのような音と高速ビートが一緒。
はい。
しかも不思議と可愛い。
その組み合わせがAphex Twinらしい。
暴力的に細かいリズムと、童謡みたいな旋律。
また子どもっぽさが出てくるんだ。
でもBoards of Canadaの子ども時代とは全然違う。
そうですね。
Aphex Twinの子どもっぽさはいたずら。
Boards of Canadaの子どもっぽさは記憶。
二組とも「子ども」を使うが、その意味は真逆だった
これ、かなり重要じゃないですか。
両者とも子どもっぽい感覚がある。
でもAphex Twinでは悪戯や奇怪さ。
Boards of Canadaでは失われた無垢や不安。
Aphexは玩具を分解して、中のモーターをむき出しにする子ども。
Boards of Canadaは、昔遊んだ玩具を押し入れから見つける大人。
すごく分かりやすい(笑)。
そしてどちらも電子音楽にとって重要です。
テクノロジーを専門家だけの難しい機械として扱わない。
遊ぶものでもある。
記憶を入れるものでもある。
90年代のコンピューター文化にも通じますね。
テクノロジーが企業や研究施設だけのものではなく、個人の部屋に入ってくる。
そう。
パーソナルな機械になる。
だから電子音楽も「未来都市の音」だけではなく、寝室や子ども時代の記憶まで扱えるようになる。
『Windowlicker』は電子音楽をポップのグロテスクな鏡にした
1999年の「Windowlicker」は、僕でも強烈だった。
音も映像も。
特に映像は当時のR&B/ヒップホップのミュージックビデオ的な記号を、かなりグロテスクに変形している。
ただ、その風刺をどう読むかは慎重であるべきですね。
Marcusがいたら、何を批評し、何を模倣しているのかという人種・ジェンダー表象までかなり議論したと思います。
音楽だけでも非常に特殊です。
R&B的な滑らかさを感じる瞬間がある。
でもすぐ変形する。
声もギター的な音もビートも、全部が液体みたいに変わる。
ギターっぽいソロまであるよね。
あります。
Aphex Twinって、「電子音楽だからロックを否定する」という人ではない。
気に入った音なら使う。
ただ、使った瞬間に形を壊す。
つまりジャンルを引用するというより、ジャンルを素材にする。
そうです。
そこが後のグリッチ、IDM、エレクトロニカだけでなく、ポップの音響編集にも残った。
Boards of Canadaは「ビート」を背景へ下げたのか
Boards of Canadaって、ビートがあるのにリズム音楽という感じがあまり強くない。
その感覚は面白いですね。
ビートはかなり重要なんですが、主役ではない。
Aphex Twinでは、リズムそのものが「何が起きるか」の中心になる瞬間が多い。
Boards of Canadaでは、ビートは風景に時間を与える。
歩く速度みたいな?
そう。
「Roygbiv」も、ビートがなければもっとアンビエントに聞こえる。
でも一定のリズムがあることで、風景の中を移動している感覚になる。
Aphexはドラムに目が行く。
Boards of Canadaはドラムの向こうを見る。
すごくいい表現です。
だから同じ電子音楽でも、リズムの役割が逆なんです。
Aphex Twinはビートを前景化して、機械の可能性を見せる。
Boards of Canadaはビートを背景に置いて、時間そのものを感じさせる。
『Geogaddi』で懐かしさは恐怖へ変わった
2002年なので90年代から少し先ですが、Boards of Canadaの方向性を理解するには『Geogaddi』も触れたい。
『Music Has the Right to Children』の懐かしさが、もっと不穏になる。
そうですね。
数字、逆再生的な感覚、宗教や儀式を思わせる声。
音色もさらに暗い。
同じ「昔の教育番組」なのに、今度は放送事故みたいな怖さがある。
『Music Has the Right to Children』では、子ども時代への帰還にまだ温かさがあった。
『Geogaddi』では、記憶そのものが信用できなくなる。
これは彼らの未来像を考える上で重要です。
Boards of Canadaの音楽では、過去は安全な場所ではない。
懐かしさはいつでも不安へ裏返る。
Marcusがいたら、ノスタルジーが政治的にも危険な感情になり得ることを話したと思います。
「昔はよかった」という単純な回帰ではない。
はい。
むしろ「昔を思い出すとき、人間はどれだけ記憶を作り変えているのか」という音楽に近い。
Aphex Twinの未来には「進歩」という物語がなかった
一方Aphex Twinは未来的だけれど、楽観的な未来ではないですよね。
そうなんです。
テクノロジーの進歩によって社会が良くなる、というタイプの未来主義ではない。
新しい機械ができる。
新しい音が作れる。
でも、それが美しくなることもあれば、気持ち悪くなることもある。
技術そのものに善悪がない。
そう。
「Ventolin」なんて、電子音響の可能性を快楽ではなく不快感へ振る。
高いノイズが非常に強い。
それでも作品として出す。
電子音楽だから「機械は素晴らしい」と言う必要はないんです。
機械は不快なものも作れる。
子どもっぽいメロディも作れる。
ダンスもできる。
悪夢も作れる。
その両義性がAphex Twin。
Boards of Canadaの未来には「新しさ」が必要なかった
Boards of Canadaは、逆に「未来なら新しい音でなきゃいけない」という考えを壊した?
まさにそうだと思います。
未来的な作品を作るために、ピカピカした新音色を使う必要はない。
古い音をどう再配置するかでも、未来は作れる。
それって今の音楽だと当たり前になっていますよね。
ローファイ。
VHS的な質感。
カセット。
古いゲーム機。
過去のメディアのノイズそのものを美学にする。
90年代にももちろん前例はありますが、Boards of Canadaはそれを非常に強い音楽世界にした。
しかも「レトロ趣味」ではない。
劣化そのものが作曲材料。
音程が少し揺れることまで作曲。
はい。
完璧にクリーンなデジタル音が作れる時代に、あえて不完全さを選ぶ。
それが後の音楽制作に非常に大きな意味を持ちます。
二つの未来は、2000年代以降どこへ分岐したのか
後世への影響を考えると、二つの未来像がかなり広がっています。
Aphex Twin側からは、複雑なビート編集、グリッチ、IDM、エレクトロニカ、さらにポップやヒップホップの細かなヴォーカル編集まで。
ただし彼一人を起源にしてはいけません。
同時代にはAutechre、Squarepusher、µ-Ziqなど多くの重要なアーティストがいる。
Boards of Canada側は?
ローファイ・エレクトロニカ、チルウェイヴ、アンビエント、ビートミュージック、ゲーム音楽的なノスタルジーまで、かなり広く共鳴を感じます。
YouTube時代の「失われた映像」みたいな美学ともつながって見える。
そうですね。
古いテレビ映像、VHS、企業ビデオ、教育番組。
そういう「個人的ではないのに懐かしい記憶」を音楽化する感覚。
Marcusがいたら、そこをインターネット時代の集合記憶として読んだと思います。
Aphex Twinが「コンピューターで何ができる?」を残した。
Boards of Canadaが「コンピューターで何を思い出せる?」を残した。
すごくいい対比です。
最高傑作を一枚選ぶなら
Aphex Twinなら『Selected Ambient Works 85-92』。
技術的に最も複雑な作品ではありません。
でも彼の二面性が一番自然に共存している。
機械的なビートと、非常に人間的なメロディ。
その後の極端なリズム編集へ行く前の、開かれた感じも好きです。
僕は『Richard D. James Album』。
短いし、音が猛烈に動く。
「4」「Fingerbib」「Girl/Boy Song」。
変なのにメロディがある。
ギターのノイズが好きな人間でも入りやすいと思う。
私は『Selected Ambient Works Volume II』。
1994年。
ほとんどビートがなくなり、場所の記憶みたいになる。
Aphex Twinを「高速ビートの奇人」とだけ理解しないために重要。
Boards of Canadaは私は『Music Has the Right to Children』。
これは迷いません。
私も。
僕も。
珍しく全員一致ですね。
後の『Geogaddi』の方が深くて怖い部分もある。
でも最初に完成した世界として『Music Has the Right to Children』が強い。
初心者向けならどこから入るべきか
Aphex Twin初心者なら僕は『Selected Ambient Works 85-92』。
同じです。
「Xtal」が入口として非常に強い。
私も。
いきなり「Come to Daddy」から行くと、Aphex Twinが全部怖い人だと思われる(笑)。
それはそれで正しい入口かもしれないけど。
Boards of Canadaは『Music Has the Right to Children』。
これは異論がないでしょう。
「Roygbiv」や「Turquoise Hexagon Sun」から入れる。
アルバム全体を聴けば、明るさと不穏さの両方が分かる。
1曲だけなら──「Xtal」「Windowlicker」「Roygbiv」
Aphex Twinから一曲なら「Xtal」。
1992年。
彼の音楽にある美しさ、反復、電子音の柔らかさを一曲で感じられる。
高速編集のイメージだけを最初に持たないためにも。
僕は「Windowlicker」。
一曲で「何なんだこれは」と思わせる力がある。
滑らかになったと思ったら崩れる。
音がずっと形を変える。
私は「Alberto Balsalm」。
1995年の『…I Care Because You Do』。
派手な曲ではないけれど、メロディと機械的なリズムの間にある妙な哀愁が好きです。
Boards of Canadaなら私は「Roygbiv」。
短いのに世界が全部ある。
ベース、ぼやけたシンセ、ビート。
「懐かしいのに初めて聞く」という感覚が最も分かりやすい。
私も「Roygbiv」。
僕は「Turquoise Hexagon Sun」。
もう少し暗い。
夜に聞くと変な場所に連れていかれる感じがある。
過小評価された作品を挙げるなら
Aphex Twinなら『I Care Because You Do』。
『Selected Ambient Works』と『Richard D. James Album』の間で、移行作のように扱われやすい。
でもリズム、アンビエント、不快な音、メロディが全部混在している。
私は『Selected Ambient Works Volume II』。
現在では非常に高く評価されていますが、Aphex Twinの一般的な「超高速ビート」というイメージからはまだ外れやすい。
時間がほとんど止まったような電子音楽を作れる人でもあった。
僕は『Come to Daddy』EP。
タイトル曲のイメージが強すぎるけど、「Flim」みたいな美しい曲が同じ作品に入っている。
あの落差がAphex Twinそのもの。
Boards of Canadaなら『The Campfire Headphase』。
2005年なので90年代からは離れますが、ギター的な音色が増え、「Boards of Canada=古いシンセ」という定義を少し壊している。
私は『Geogaddi』。
過小評価ではないですが、最初の一枚として『Music Has the Right to Children』が強すぎるため、二作目の方が作り込まれた不安の深さは意外と語られにくい。
僕も『The Campfire Headphase』。
ギターが入ると急に自分の耳との接点が増える(笑)。
未来は高速化するものなのか、それとも記憶になるものなのか
最後にタイトルへ戻ると、「二つの未来像」。
Aphex Twinの未来は、機械の処理能力が人間の身体を超えていく未来。
Boards of Canadaの未来は、デジタル技術が過去の記憶を何度でも再生する未来。
かなりそうだと思います。
ただ、Aphex Twinにも懐かしいメロディはあるし、Boards of Canadaにも未来的な編集はある。
だから完全に二分するのではなく、重点が違う。
Aphexは「次に何ができるか」。
Boards of Canadaは「前に何があったような気がするか」。
そして今の時代から見ると、両方が現実になったようにも感じます。
機械はどんどん細かな音を作れる。
同時に、デジタル空間には過去の映像や音楽が無限に残り、私たちは自分が生まれる前の時代にまでノスタルジーを感じる。
そこが二組の音楽が古びない理由かもしれません。
90年代の未来予測ではなく、テクノロジーと人間の関係の二つの根本的な側面を扱っていた。
新しいことができる喜び。
失われたものを保存したい欲望。
Marcusがいたら、そこに誰の記憶が保存され、誰の歴史が見えなくなるのかまで問い直したでしょう。
電子音楽は未来だけを見ていたわけではない。
未来を見るほど、過去について考えるようになった。
そしてAphex TwinとBoards of Canadaは、その両端に立っていたように思います。
一方は機械を人間より速くし、もう一方は機械に人間より長く記憶させた。
対談を終えて
Aphex TwinとBoards of Canadaは、ともに90年代の電子音楽を象徴しながら、「電子音だから未来的」という同じ答えには向かわなかった。Aphex Twinは、サンプラーやシーケンサーによってリズムを身体的制約から切り離し、ビートを細分化し、声やノイズやメロディを自由に変形した。彼の未来では、機械は人間の演奏を模倣する必要すらなくなっていった。
Boards of Canadaは逆に、デジタル制作の時代に音を意図的に老化させた。ピッチの揺れ、くぐもったシンセ、遠くから聞こえる声、教育映像を思わせる断片。それらによって、電子音楽はまだ存在しない未来ではなく、もう戻れない過去を描けるようになった。『Music Has the Right to Children』が作ったのは70年代や80年代の再現ではなく、人間が過去を思い出すときに生じる歪みそのものだった。
後の電子音楽には、その二方向が何度も現れる。より細かく、より速く、より人間離れした音を作る方向。そして、ノイズ、テープ、古い映像、失われたメディアを使って記憶を再構築する方向。だから二組が示した未来は、競合していたわけではない。Aphex Twinが「機械はどこまで先へ行けるか」を問い、Boards of Canadaが「機械はどこまで過去を連れてこられるか」を問うた。その二つの時間感覚の間に、現在の電子音楽の大部分がまだ存在している。

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