
1. 歌詞の概要
「Track X」は、Black Country, New Roadのデビュー・アルバム『For the first time』(2021年)に収録された楽曲であり、彼らの楽曲群の中でも特に内省的で繊細な一曲である。ポストパンク、ポストロック、クラシックなどの要素を奔放に行き来する同アルバムの中で、この曲は異彩を放つ。荒々しさを帯びた他の楽曲とは異なり、「Track X」は極めて静謐で穏やかな音像を持ち、エモーショナルな語りと抑制されたアレンジが、ある種の“心の余白”を生み出している。
歌詞の中では、過去の恋愛に対する思い出と未練、そしてそれを乗り越えようとする語り手の心理が描かれる。ノスタルジアと儚さが交錯し、曖昧で解釈の余地を残すフレーズの数々は、まるで夢の中の断片を紡いでいるかのようだ。曲名の「Track X」が持つ無名性や匿名性も、その曖昧さとよく呼応しており、まさに“名前のない感情”を表現するような楽曲となっている。
2. 歌詞のバックグラウンド
Black Country, New Roadは、ロンドンを拠点とする6人組(当時)によるバンドで、ジャズやポストロックの素養を背景に、独特の語りと不安定なエネルギーを特徴としている。「Track X」はバンドにとっても重要な転換点となった曲であり、当初はライヴで演奏されることのなかった“未完成のまま放置されていた”作品だった。
この曲が完成に至ったのは、ヴォーカルのアイザック・ウッドが他のメンバーと共に、より感情を露わにするアプローチを模索し始めたタイミングであった。過去の恋人や関係性の崩壊を描いたこの曲は、ウッド自身の内面と深く結びついており、それが音楽と歌詞の双方に濃厚なパーソナル性をもたらしている。
また、楽曲に施されたストリングスや控えめなホーンの使い方からは、バンドが持つクラシックへの敬意と、抑制された美の追求が見て取れる。この曲における音と詩の繊細なバランスは、アルバム全体のハイライトとして高く評価される所以となった。
3. 歌詞の抜粋と和訳
英語原文:
“You loved me like a stranger
But I guess that’s all you could do”
日本語訳:
「君はまるで他人みたいに僕を愛していた
でもきっと、それが君にできるすべてだったんだよね」
引用元:Genius – Track X Lyrics
このフレーズは、関係性における距離感、あるいは愛し方のすれ違いを非常に静かに、しかし鋭く描き出している。語り手は相手の態度に戸惑いながらも、どこか諦念のような受容の感情を滲ませている。それは怒りや悲しみではなく、時間が流れたあとにだけ訪れる静かな理解のように響く。
4. 歌詞の考察
「Track X」は、過去の恋愛をめぐる記憶とその残響に満ちた作品である。歌詞の中には、「彼女と彼女の信仰」「見上げる空」「一緒にいた映画館」といった、具体的かつ印象的なイメージが点在しているが、それらはあくまで断片的に提示されるだけで、全体像は語られない。むしろ、その断片性が記憶の曖昧さと、語り手の内的混乱を象徴しているようにも思える。
愛した人がなぜ去っていったのか、その答えを求めながらも、語り手は徐々に理解し始める。「それは君の限界であって、僕のせいではなかったのだ」と。自己責任や罪悪感に苛まれるのではなく、愛の不完全さや限界を受け入れる過程が、この曲には織り込まれているようだ。
また、語り手が彼女の行動や感情を解釈しようとする姿勢には、皮肉や冷笑はなく、むしろ優しさと赦しが感じられる。彼女が語り手を「他人のように」しか愛せなかったことを責めるのではなく、それを理解しようと努める。その繊細で静謐な語り口は、まるで日記をめくるような親密さをもって聴き手に迫る。
音楽的にも、柔らかいギターのアルペジオ、静かなストリングス、そして語り手の囁くようなヴォーカルが重なり合い、聴く者に「感情の余韻」を残す構成となっている。この曲が聴き手に与える感覚は、単に物語を追うのではなく、その空白を埋める想像力を共有する体験そのものなのだ。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- “No Name #5” by Elliott Smith
壊れかけた関係を静かに見つめるまなざしと、繊細なメロディラインが「Track X」と重なる。 - “Lua” by Bright Eyes
孤独や依存、繊細な感情の揺らぎを静かに語るこの曲も、感情の輪郭を柔らかく描く点で近しい。 - “Jesus etc.” by Wilco
シンプルな構成と切ない歌詞の美しさが共通しており、日常に潜む感情のディテールを巧みに捉えている。 - “Motion Picture Soundtrack” by Radiohead
アルバムの終末に現れるメランコリックな名曲であり、浮遊感と諦観を併せ持つ空気が「Track X」と響き合う。
6. 無題の詩、あるいは記憶の断片としての「X」
「Track X」という無機質なタイトルは、この曲が語る物語に明確な名前を与えることを拒むようにも思える。名前を付けることは所有を意味するが、この曲はむしろ、“もう手放された感情”のための歌なのだ。だからこそ、「X(未知数、変数、過去)」という記号がふさわしいのだろう。
また、この曲はBlack Country, New Roadというバンドが持つ多層的な魅力——激情と静寂、理性と感情の交差点——を最も優しく示している作品でもある。激しいエネルギーで知られる彼らが、こうした内省的で繊細な楽曲を提示することにより、その表現の幅は一層際立ったものとなった。
最終的に「Track X」は、恋愛の終わりに訪れる静かな理解と、過去を慈しむようなまなざしを湛えた、極めて美しい“感情の記録”である。音の間(ま)に宿るその余韻こそが、記憶と向き合うことの優しさを、リスナーにそっと伝えてくるのだ。
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