発売日: 2023年2月10日
ジャンル: オルタナティブ・ロック、ドリーム・ポップ、ノイズ・ロック、インディーロック
概要
『This Stupid World』は、Yo La Tengoが2023年に発表した通算16作目のスタジオ・アルバムであり、40年近いキャリアを誇るバンドが“今、この瞬間の世界”と向き合うために放った、静かな叫びである。
タイトルが示す通り、本作は「この愚かな世界」への観察と反応をテーマにしており、社会の混乱や加速する現実への疲労感を、言葉少なに、だが深い共感をもって音に落とし込んでいる。
前作『There’s a Riot Going On』のアンビエントなアプローチを内包しつつも、本作ではバンドの演奏力と即興性がより前景化しており、まさに“3人だけで録音した”ことの強度と美学が貫かれている。
プロデューサーを入れず、Yo La Tengo自身が録音・ミキシング・プロダクションをすべて手がけることで、生のままのグルーヴと、触れると壊れてしまいそうな静けさが同居したサウンドが生み出された。
全曲レビュー
1. Sinatra Drive Breakdown
冒頭を飾る8分越えの大曲。
ディストーションに包まれたドローン的サウンドの中、アイラ・カプランが呟くように歌う。
川沿いの道を歩きながら、世界の瓦解と再生を見つめるような、不穏と詩情が共存するトラック。
2. Fallout
本作中最も“ロック”な勢いを感じさせる曲。
「もう耐えられない」というフレーズが繰り返される中、リズムとギターが駆け抜ける。
Yo La Tengoにしては異例のストレートなエネルギーが印象的。
3. Tonight’s Episode
ミニマルなシンセと浮遊するギターのレイヤーが織りなす、不穏で甘美なサウンドスケープ。
“今夜の出来事”が具体的に何かは語られず、むしろ“何も起こらないことのざわめき”が強調される。
4. Aselestine
Georgia Hubleyがボーカルを取る、穏やかで内省的なバラード。
ピアノの繊細な響きと、夢のように曖昧なボーカルが重なり、時の止まった空間を生み出している。
5. Until It Happens
ドローン的な反復のなかで、“それが起こるまで”という曖昧な予兆が綴られる。
不確かさの中に漂う希望や諦めのようなものが、淡々と描かれる。
6. Apology Letter
70年代ソウルを思わせるコード進行と優しいギターのバッキング。
Hubleyのささやくような歌が、“謝罪”の言葉を通して、傷ついた関係性の輪郭を描く。
7. Brain Capers
即興性の高いジャムセッションのような構成。
タイトルが示すように、頭の中の思考がそのまま音になったかのような、混沌と反復が展開する。
8. This Stupid World
アルバムのタイトル曲にして、リズムとノイズが絶妙に噛み合ったギター・ドローンの応酬。
「この愚かな世界を止めることはできない」というリフレインが、諦めとも祈りとも取れる響きを持つ。
Yo La Tengoの美学がもっとも明確に凝縮された一曲。
9. Miles Away
ラストはHubleyによる、ゆったりとしたエレクトロ・ドリームポップ。
“遠く離れている”という言葉が、物理的距離だけでなく心の隔たりをも示唆する。
Fade outまでの時間が、余韻とともに“終わりなき現実”を描いている。
総評
『This Stupid World』は、Yo La Tengoが2020年代の不確かな時代に差し出した、“小さな音による誠実な抵抗”である。
世界が混乱と疲労に満ち、あらゆるものが速く、大きく、強くなるなかで、彼らはあえて遅く、柔らかく、曖昧なままに音を鳴らす。
このアルバムにあるのは、明確なメッセージでも、劇的な展開でもない。
だがその代わりに、“何も起こらない日々”のなかにある微かな揺らぎと、かすかな希望の気配を、音の粒で丁寧に描き出している。
それは、Yo La Tengoが40年近く追い求めてきた“音楽の正直さ”の集大成とも言えるだろう。
『This Stupid World』は、叫ばずに怒りを、飾らずに優しさを、急がずに誠実さを伝える、静かな傑作なのである。
おすすめアルバム(5枚)
- There’s a Riot Going On / Yo La Tengo
本作と地続きのアンビエント志向のアルバム。静かなレジスタンスというテーマが共鳴する。 - A Moon Shaped Pool / Radiohead
現代の混乱に内省的に応答する作品。夢のようなサウンドと重厚な静けさが共通。 - Sleep Well Beast / The National
ミドルエイジの憂鬱と世界への懐疑を描いた、抑制されたエモーションが共通する一枚。 - Microcastle / Deerhunter
ノイズとドリームポップ、インディー精神の美学を現代的に統合した秀作。 - Sea Change / Beck
音数の少ない構成と傷ついた心を描いたフォーク・サウンドが、Yo La Tengoの静的表現と通じる。
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