
1. 歌詞の概要
Canの「Halleluwah」は、1971年発表のアルバム『Tago Mago』に収録された楽曲である。アルバム・バージョンは18分を超える長尺曲で、もともとはアナログ盤の片面をまるごと占めるような存在だった。シングルでは大幅に短縮され、1971年に「Turtles Have Short Legs」のB面としてリリースされている。(en.wikipedia.org)
この曲は、Canの音楽を象徴する一曲である。
ただし、歌詞の物語を追って楽しむタイプの曲ではない。
むしろ、言葉、声、リズム、反復が一体化して、意識そのものを動かしていく曲である。
タイトルの「Halleluwah」は、「Hallelujah」を連想させる。
宗教的な歓喜、賛美、叫び。
しかしCanは、それをそのまま神聖な言葉として扱わない。
「Hallelujah」ではなく「Halleluwah」。
最後が少しずれる。
神への賛美の言葉が、ファンクのうねりとサイケデリックな反復の中で、奇妙な呪文に変わる。
この「ずれ」こそ、Canらしさである。
歌詞には、断片的なイメージが並ぶ。
風の中に立つスノーマン。
壊れたギター。
眠そうな目。
過去の『Tago Mago』前半曲を思わせる言葉の断片。
「mushroom head」「oh yeah」「paper house」といったフレーズも出てくる。
つまり「Halleluwah」は、アルバム前半のイメージをまとめて飲み込みながら、さらに巨大なグルーヴへ発展させる曲でもある。
英語版Wikipediaでも、この曲の歌詞の中でDamo Suzukiが『Tago Mago』第1面の曲名を思わせる「mushroom head, oh yeah, paper house」というフレーズを歌っていることが紹介されている。(en.wikipedia.org)
だが、ここで重要なのは、その言葉が整理されたメッセージとして届くわけではないことだ。
Damo Suzukiの声は、意味をはっきり説明するというより、リズムの上で発生する音として存在する。
言葉は、ときに英語として聞き取れる。
ときに音節の連なりになる。
ときに叫び、囁き、呪文になる。
その背後では、Jaki Liebezeitのドラムがほとんど途切れずに反復し続ける。
このドラムが、曲の心臓である。
Pitchforkは『Tago Mago』40周年記念盤のレビューで、アルバム前半の曲ではJaki Liebezeitがバンドの主役であり、彼のリズム・パターンがマントラのように繰り返されると評している。さらに「Halleluwah」について、意識の奥で鳴る行進曲のようなビートが曲の背骨であり、18分の曲でありながら倍の長さでも短すぎるほどだとまで書いている。(pitchfork.com)
「Halleluwah」は、まさにそのような曲である。
長い。
しかし、ただ長いのではない。
同じグルーヴが続くことで、聴き手の時間感覚が少しずつ変わっていく。
最初は曲を聴いている。
やがてリズムに乗る。
さらに進むと、曲の中にいるような感覚になる。
歌詞は、その中で道しるべのように現れる。
意味を説明する標識ではなく、トランス状態の中で一瞬光る言葉の破片である。
2. 歌詞のバックグラウンド
『Tago Mago』は、Canの作品の中でも特別な位置にあるアルバムである。
1971年に発表されたこのダブル・アルバムは、Damo Suzukiが本格的に参加した最初のスタジオ・アルバムであり、Canの実験性と肉体的なグルーヴが極限まで拡張された作品として知られる。英語版Wikipediaでは、『Tago Mago』は1971年8月にUnited Artistsから発表された7曲入り、73分を超えるダブルLPとして説明されている。(en.wikipedia.org)
Canのメンバーは、次のような布陣だった。
- Damo Suzuki:ヴォーカル
- Holger Czukay:ベース、録音、編集
- Michael Karoli:ギター、ヴァイオリン
- Jaki Liebezeit:ドラム
- Irmin Schmidt:キーボード、電子音
この5人が、ドイツ・ケルン近郊のSchloss Nörvenichで録音した音楽を、Holger Czukayの編集感覚によってアルバムとして構築した。
Canの音楽を語る時、即興と編集は切り離せない。
彼らは長いジャムを録音し、その中から必要な瞬間を切り出し、つなぎ、曲として形にしていった。
「Halleluwah」も、そのようなCanの制作方法が非常によく表れた曲である。
演奏そのものは、長い反復の中で少しずつ変化していく。
だが、単なる垂れ流しのジャムではない。
音の出入り、声の配置、ピアノの断片、ギターやキーボードの揺れ。
それらが、巨大なグルーヴの中で編集された映画のように配置されている。
Pitchforkの『Anthology』レビューでは、「Halleluwah」の軍隊的なドラム・パターンとスタッカート気味のベースラインが、リマスターによってハンマーのように響くと評されている。また、Canが大規模なジャム・セッションを編集してアルバムを組み立てたやり方は、同時期のMiles DavisとTeo Maceroによる『Bitches Brew』や『On the Corner』の制作手法にも比較されている。(pitchfork.com)
この比較は非常に面白い。
Miles Davisがジャズを電化し、長いセッションを編集で新しい音楽へ変えていた時期に、Canもまたロック・バンドの形で同じようなことをしていた。
つまり「Halleluwah」は、ロックの曲であると同時に、スタジオ編集によって作られた反復音楽でもある。
そして、その中心にあるのがJaki Liebezeitのドラムである。
彼は派手なフィルで目立つドラマーではない。
むしろ、ひとつのパターンを異常な精度で持続させる。
しかし、完全な機械ではない。
微細な揺れ、強弱、ハイハットの表情があり、聴いているとその小さな変化がどんどん大きく感じられてくる。
「Halleluwah」は、このドラムの上にバンド全員が乗っていく曲である。
ベースは硬く、短く、低いところで脈打つ。
ギターは細い線で切り込み、時にノイズのように広がる。
キーボードは怪しい色を加え、ピアノの断片が突然現れる。
Damo Suzukiの声は、時に歌、時に叫び、時に意味不明の祈りになる。
Canは、ロックの「曲」を作っているのではなく、「状態」を作っている。
「Halleluwah」とは、18分以上にわたって保たれる、異常に強い状態なのだ。
3. 歌詞の抜粋と和訳
歌詞の権利に配慮し、ここでは短い範囲のみを引用する。歌詞確認用リンクとして、Spotifyの楽曲ページを参照する。Spotifyでは「Halleluwah」の冒頭歌詞が確認できる。(open.spotify.com)
歌詞確認用リンク:Spotify「Halleluwah」
Did anybody see this snowman
和訳:
誰か、このスノーマンを見たか
冒頭から、奇妙である。
スノーマン。
雪だるま。
あるいは、雪の男。
ロックやファンクの曲で突然出てくる言葉としては、かなり異様だ。
しかも彼は風の中に立っている。
このイメージは、冷たく、孤独で、どこか滑稽でもある。
Canの歌詞では、こうしたイメージが説明なしに置かれる。
それが何の比喩なのか、はっきりしない。
しかし、曲の反復の中で、そのイメージは少しずつ不気味な存在感を持つ。
続いて、印象的な物のイメージを短く引用する。
Broken guitar in his hand
和訳:
壊れたギターを手にして
壊れたギター。
これは音楽の象徴が壊れている、というようにも読める。
ロック・バンドが歌うには、かなり意味深なイメージだ。
しかし、Canはそこを感傷的には扱わない。
壊れたギターを持つスノーマンという奇妙な像が、ただ置かれる。
この不条理なイメージが、曲の呪術的な雰囲気を作っている。
もうひとつ、『Tago Mago』前半への自己言及的な部分を短く挙げる。
Mushroom head, oh yeah, paper house
和訳:
きのこの頭、オー・イェー、紙の家
ここでは、「Mushroom」「Oh Yeah」「Paperhouse」という『Tago Mago』前半の曲を思わせる言葉が並ぶ。
これはアルバム内の記憶が、曲の中で再び浮上してくるような瞬間である。
「Halleluwah」は、前半の曲をまとめる大きな渦のような位置にある。
それまで出てきた言葉や感覚が、この曲の反復の中に吸い込まれていく。
引用した歌詞の著作権は各権利者に帰属する。ここでの引用は批評・解説目的の短い範囲に限定している。
4. 歌詞の考察
「Halleluwah」の歌詞は、普通の意味での物語ではない。
スノーマンがいて、壊れたギターがあり、眠そうな目があり、過去の曲名のような言葉が現れる。
だが、それらが線としてつながるわけではない。
むしろ、断片が反復グルーヴの上で浮かび上がっては沈む。
この曲において、歌詞は「意味を伝えるもの」というより、「意識の中に現れる像」に近い。
夢の中では、物語がはっきりしないことがある。
雪だるまが立っている。
彼は壊れたギターを持っている。
突然、紙の家やきのこの頭が出てくる。
なぜなのかはわからない。
でも、その場面だけは妙にリアルだ。
「Halleluwah」の歌詞は、そういう夢の論理で動いている。
Damo Suzukiの歌い方も、それを強めている。
彼は、歌詞を丁寧に聴かせようとしていない。
むしろ、言葉をリズムの中で変形させる。
英語の意味は保たれているようで、ときどき溶ける。
発音、音節、声の質感が、言葉の意味と同じくらい重要になる。
GuardianのDamo Suzuki追悼記事でも、彼のヴォーカルは従来の言語の壁を越える即興的なスタイルとして紹介されており、Can在籍期の彼の歌が後のポストパンクや実験音楽に大きな影響を与えたことが述べられている。(theguardian.com)
「Halleluwah」では、その声が非常に自由に動く。
しかし、自由に動いているのは声だけである。
土台のリズムは、異常なほど安定している。
ここがこの曲の最大のポイントだ。
声は漂う。
ギターは揺れる。
キーボードは奇妙な音を差し込む。
だが、ドラムとベースは止まらない。
この安定と不安定の対比が、曲を強くしている。
歌詞のイメージは崩れている。
だが、グルーヴは崩れない。
だから聴き手は、意味の不安の中にいながら、身体はしっかりリズムへつながれる。
これは、Canの音楽の核心である。
ロックの多くは、歌詞やメロディで感情を導く。
しかしCanは、リズムで身体を固定し、その上で意識を自由に漂わせる。
「Halleluwah」は、その極端な例である。
タイトルの宗教的な響きについても考えたい。
「Halleluwah」は「Hallelujah」に似ている。
ハレルヤは神を讃える言葉であり、歓喜や祈りの表現である。
しかしCanの「Halleluwah」は、教会的な清らかさではない。
もっと土っぽく、もっと肉体的で、もっと奇妙だ。
もし「Hallelujah」が神への賛美なら、「Halleluwah」はグルーヴへの賛美である。
神ではなく、ドラムを讃える。
祈りではなく、反復に身を捧げる。
教会ではなく、スタジオの床で起きる儀式。
そういう曲に聴こえる。
そして、この儀式はとても身体的だ。
18分以上、同じリズムが続く。
それは退屈にもなりうる。
だがCanの場合、退屈を通り越すと、別の集中が生まれる。
最初は長いと思う。
次に、リズムの細部を聴くようになる。
そのうち、時間の長さが気にならなくなる。
やがて、曲が続いていること自体が自然になる。
この変化が、「Halleluwah」の体験である。
歌詞はその中で、意識を完全に沈ませないための小さな刺激になる。
スノーマン。
壊れたギター。
きのこの頭。
紙の家。
それらの言葉が、長いリズムの海に浮かぶ漂流物のように現れる。
5. この曲が好きな人におすすめの曲 5曲
- Mother Sky by Can
1970年のアルバム『Soundtracks』収録曲で、Damo Suzuki加入直後のCanの疾走感を示す長尺曲である。
「Halleluwah」がファンク的な反復の巨大な渦なら、「Mother Sky」はもっとロック的に前へ走るトランスである。ギターの疾走、Damoの呪文的な声、Jaki Liebezeitの強靭なドラムが、14分半にわたって空へ向かう。
- Mushroom by Can
『Tago Mago』収録曲で、「Halleluwah」の歌詞にもそのタイトルを思わせるフレーズが出てくる。(en.wikipedia.org)
「Halleluwah」の巨大さに対し、「Mushroom」は短く不穏な悪夢である。反復、Damoの声、終末的なイメージが凝縮されており、『Tago Mago』前半の緊張を理解するうえで重要な曲だ。
- Oh Yeah by Can
同じ『Tago Mago』収録曲で、逆回転的なヴォーカル処理や強いグルーヴが印象的な楽曲である。
「Halleluwah」のような長尺ではないが、リズムと声の処理によって、通常のロックとはまったく違う意識状態を作り出す。Damo Suzuki期Canの鋭さがよく出ている。
- Yoo Doo Right by Can
1969年のデビュー・アルバム『Monster Movie』の長尺曲で、Malcolm Mooney期Canの反復ロックを代表する作品である。
「Halleluwah」のような長い持続をもっと荒削りな形で味わいたいなら、この曲が合う。Canが最初からロックの反復を極端なところまで引き伸ばしていたことがわかる。
- On the Corner by Miles Davis
Canとは別の文脈だが、同時期に反復、ファンク、編集、即興を使って音楽を組み替えていた重要作である。PitchforkもCanの編集方法を、Miles DavisとTeo Maceroによる『Bitches Brew』や『On the Corner』の制作と比較している。(pitchfork.com)
「Halleluwah」の反復とファンクの実験性に惹かれるなら、『On the Corner』の都市的でざらついた電化ファンクも強く響くだろう。
6. 18分のグルーヴが短すぎると思わせる、反復の祝祭
「Halleluwah」の特筆すべき点は、18分を超える長尺曲でありながら、その長さが目的ではなく、結果として必要になっていることだ。
長い曲はたくさんある。
しかし、長いだけの曲もある。
「Halleluwah」は違う。
この曲は、18分なければ成立しない。
そして不思議なことに、18分でもまだ足りないように感じる。
それは、曲が展開のために長いのではなく、状態を作るために長いからである。
普通の曲なら、Aメロ、サビ、間奏、展開、終結という流れがある。
しかし「Halleluwah」は、もっと別の時間を持っている。
ひとつのビートが始まる。
そのビートが続く。
その中で声や楽器が変化する。
だが、曲の根本は変わらない。
すると、聴き手のほうが変わる。
最初は外から聴いている。
しばらくすると、リズムの中へ入る。
さらに進むと、反復そのものが自然な呼吸になる。
最後には、曲が終わることのほうが不自然に感じられる。
この体験が、「Halleluwah」の本質である。
Jaki Liebezeitのドラムは、その中心にある。
彼の演奏は、Canの音楽を特別なものにしている最大の要素のひとつだ。
「Halleluwah」では、彼はほとんど同じパターンを叩き続ける。
しかし、そこに飽きはない。
なぜなら、彼のドラムは完全な機械ではなく、微妙に生きているからだ。
強くなったり、少し引いたり、ハイハットの粒が変わったり、スネアの打点が意識の奥に刺さったりする。
その細かさが、長い反復を支える。
Holger Czukayのベースも重要だ。
ベースは曲を下から固定する。
派手に動き回るわけではない。
だが、短いフレーズの反復によって、グルーヴの床を作る。
この床の上で、Damo Suzukiは自由に動く。
Damoの声は、曲の中でひとつの楽器である。
彼はヴォーカリストだが、普通の歌手ではない。
歌詞を伝える人というより、音の状態を変える人である。
彼が叫ぶ。
囁く。
言葉を崩す。
すると、同じグルーヴが別の色に変わる。
「Halleluwah」は、Damoの声がリズムの上に乗ることで、宗教的な儀式のような空気を帯びる。
ただし、それは整った宗教ではない。
もっと野生的で、もっと不明瞭で、もっと肉体的な儀式である。
タイトルが「Halleluwah」であることは、やはり象徴的だ。
これは祈りであり、讃歌であり、しかし同時に意味をずらした言葉遊びでもある。
ハレルヤが天へ向かう声だとすれば、ハレルワは地面のグルーヴへ向かう声である。
空ではなく床。
教会ではなく反復。
神聖さではなく、身体の中に生まれるトランス。
Canはこの曲で、ロック・バンドの演奏を儀式へ変えた。
そして、その儀式は驚くほどファンキーでもある。
「Halleluwah」は実験的な曲である。
しかし、頭だけで聴く曲ではない。
身体が反応する曲である。
ドラムとベースの組み合わせは、とても踊れる。
しかも、単純なダンス・ミュージックのように消費されるのではなく、長時間の反復によって身体の奥へ入ってくる。
Pitchforkの『The Singles』レビューでは、3分38秒に短縮された「Halleluwah」について、18分の曲が無理やり切られているにもかかわらず、魔法のようなポリリズムの力が失われていないと評している。(pitchfork.com)
これは、この曲の核がどれほど強いかを示している。
18分でも成立する。
3分台に縮めても、まだ異様な力を持つ。
つまり、グルーヴそのものが強いのだ。
しかし、やはり本来のアルバム・バージョンで聴くと、この曲の本質はより深く伝わる。
短縮版は、スナップショットである。
アルバム版は、旅である。
その旅は、どこかへ到着するための旅ではない。
同じ場所を回り続けながら、意識だけが変化していく旅である。
ここに、Canの反復の思想がある。
同じことを繰り返す。
すると、同じではなくなる。
最初に聴いたドラムと、10分後に聴くドラムは、音としてはほとんど同じかもしれない。
だが、聴き手の耳が変わっている。
身体が変わっている。
時間感覚が変わっている。
「Halleluwah」は、その変化を起こす曲である。
また、この曲は『Tago Mago』全体の構造の中でも重要な位置にある。
アルバム前半は、比較的グルーヴのある曲が並ぶ。
「Paperhouse」「Mushroom」「Oh Yeah」。
そして、その集大成のように「Halleluwah」が来る。
その後、アルバムは「Aumgn」「Peking O」という、より抽象的で解体的な領域へ進む。
つまり「Halleluwah」は、床が抜ける前の最後の巨大な床でもある。
ここでCanは、リズムの快楽を最大限まで押し広げる。
そしてその後、リズムそのものを崩していく。
だから「Halleluwah」は、『Tago Mago』の中で非常に重要な橋のような役割を持つ。
ロックとして踊れるCan。
実験音楽として時間を壊すCan。
その二つの間で、「Halleluwah」は巨大な火柱のように立っている。
この曲を聴くと、Canがなぜ後のポストパンク、ニューウェーブ、ダンス・ロック、ヒップホップ、エレクトロニック・ミュージックにまで影響を与えたのかがわかる。
彼らは、ロックの中心をギター・リフや歌メロから、グルーヴと編集へ移した。
曲を、物語ではなく状態として考えた。
ヴォーカルを、歌詞の伝達ではなく音の発生として扱った。
「Halleluwah」は、その発明の巨大な証拠である。
18分間、何かが続く。
その「続く」ということ自体が、音楽になる。
飽きるか、乗るか。
外にいるか、中に入るか。
Canはその境界を、冷静に、しかし熱く揺さぶる。
そして一度中に入ってしまうと、「Halleluwah」は長い曲ではなくなる。
むしろ、まだ続いていてほしい曲になる。
反復が祝祭になる。
ドラムが祈りになる。
声が呪文になる。
ロックが儀式になる。
それが「Halleluwah」である。

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