
1. 歌詞の概要
Oh Yeahは、ドイツのバンドCanが1971年に発表した楽曲である。
同年にリリースされた2作目のスタジオ・アルバムTago Magoに収録されている。Tago Magoはもともと2枚組LPとして発表され、Canというバンドの実験性、即興性、編集感覚、リズムへの執着を決定づけた作品として語られてきた。Oh Yeahはそのアルバムの3曲目に置かれ、Paperhouse、Mushroomに続いて、リスナーを一気に深い渦の中へ連れていく曲である。
この曲を一言で説明するのは難しい。
ロックである。
しかし、普通のロックではない。
サイケデリックでもあり、ファンクでもあり、実験音楽でもあり、ジャズの即興性もあり、後のポストパンクやエレクトロニック・ミュージックにもつながる感覚がある。
いわゆるクラウトロックという言葉で語られることが多いが、Oh Yeahを聴くと、その言葉だけでは足りないことがすぐにわかる。これはジャンルというより、ひとつの状態である。
意識が少しずつほどけていく状態。
身体だけがグルーヴに反応し、頭は奇妙な夢の中へ落ちていく状態。
Oh Yeahには歌詞がある。
しかし、それは一般的な意味での歌詞とは少し違う。Damo Suzukiの声は、物語を説明するためにあるのではない。言葉は意味を持ちながらも、同時に音の粒になり、リズムの一部になり、空間を漂うノイズになる。
しかも、この曲の冒頭では、Damo Suzukiのボーカルが逆再生されていることで知られている。The FallのI Am Damo Suzukiに関する資料でも、CanのOh Yeahにおける逆再生ボーカルがDamo Suzukiの歌唱スタイルの特徴として言及されている。ウィキペディア
この逆再生の声が、曲の入口を異様なものにしている。
まるで、テープが時間を逆向きに巻き戻しているようだ。人間の声なのに、人間の言葉としてはすぐに理解できない。声は液体のようにうねり、こちらの耳を現実から少しずつ引き離していく。
その後、Jaki Liebezeitのドラムが前へ出る。
ここからがすごい。
ドラムは派手に暴れない。むしろ、非常に正確で、冷静で、機械のようでもある。だが、機械的なのに冷たくない。人間の身体が極限まで反復に集中した結果、機械のような精度にたどり着いた感じがある。
このビートの上で、ベース、ギター、キーボード、声が少しずつ絡み合う。
曲は大きなサビへ向かっていくわけではない。物語の起承転結もない。だが、聴いているうちに、音の内部で景色が変わっていく。ひとつのリズムが続いているのに、空気の色が変わる。
Oh Yeahというタイトルは、軽い相づちのようにも聞こえる。
だが、Canの手にかかると、その言葉は歓喜でも、皮肉でも、陶酔でも、呪文でもある。意味は単純なのに、響きは深い。
この曲は、言葉で考えるより先に身体が理解する。
そして身体が理解したあとで、頭が遅れて奇妙な迷路へ入っていく。
2. 歌詞のバックグラウンド
Oh Yeahが収録されたTago Magoは、Canのキャリアの中でも特に重要な作品である。
Canは1968年に西ドイツで結成された。メンバーには、Irmin Schmidt、Holger Czukay、Michael Karoli、Jaki Liebezeitらがいた。初期ボーカリストのMalcolm Mooneyが離れたあと、日本出身のDamo Suzukiが加わり、Canの音楽はより自由で、より混沌とした方向へ広がっていく。
Damo Suzukiは、伝統的なロック・ボーカリストというより、音そのものを身体から放つ存在だった。
英語、ドイツ語、日本語、意味を持たない発声。そうしたものを自在に混ぜ、歌詞というよりも声の流れを作る。Oh Yeahにおける彼のボーカルも、まさにその典型である。
Tago Magoは、1971年に発表されたCanの2作目のアルバムであり、Damo Suzukiが本格的に参加した最初のスタジオ・アルバムとしても重要である。アルバムはAugust 1971にUnited Artists Recordsからリリースされたとされている。ウィキペディア
この作品は、ロックのアルバムでありながら、従来のロックのフォーマットから大きくはみ出している。
Paperhouseのような比較的ロック的な曲もあれば、Halleluhwahのような18分を超える長尺グルーヴもある。AumgnやPeking Oでは、ロックというより実験音楽、電子音楽、ノイズ、儀式音楽の領域へ踏み込んでいく。
その中でOh Yeahは、Tago Magoの入口と深部をつなぐような位置にある。
まだビートは明確だ。
まだ身体で踊れる。
しかし、そのビートの中に奇妙な闇がある。
この曲は、Canのポップ性と実験性が最も自然に混ざった楽曲のひとつだと言える。
Canの音楽作りにおいて重要だったのは、即興と編集である。
彼らはスタジオで長時間の演奏を録音し、その素材をHolger Czukayらが編集によって構築していった。つまり、曲は最初から譜面通りに完成していたわけではない。演奏の瞬間に生まれたものを、あとから切り貼りし、配置し、別の時間感覚を作り出していた。
Oh Yeahにも、その編集感覚が強く出ている。
逆再生された声。
突然の音の切り替わり。
グルーヴの持続。
音像の遠近。
この曲はライブ演奏のように聴こえるが、同時にスタジオで組み立てられた夢のようでもある。
ここがCanの特異なところだ。
彼らの音楽は、即興的でありながら、ただのジャムではない。
編集されているのに、生命感を失わない。
人間的であり、機械的であり、原始的であり、未来的である。
Oh Yeahは、その矛盾を非常に美しく鳴らしている。
また、Tago MagoについてHolger Czukayは、光から闇へ、そして再び戻ってくる神秘的な音楽世界を目指したという趣旨で語ったと紹介されることがある。dervswerve
その言葉は、Oh Yeahにもよく当てはまる。
この曲は、ただ暗いわけではない。
冒頭には不穏な逆再生の声があり、グルーヴはどこか呪術的で、音像は煙っている。しかし、曲全体には奇妙な高揚感がある。闇の中で踊っているような感じだ。
怖い。
でも気持ちいい。
わからない。
でも離れられない。
Canの音楽は、この矛盾を平然と抱え込む。
3. 歌詞の抜粋と和訳
歌詞は著作権で保護されているため、ここでは短い範囲のみ引用する。
Oh yeah
和訳:
ああ、そうだ
この短いフレーズが、曲のタイトルであり、中心的な響きでもある。
普通なら、Oh yeahという言葉はとても軽い。相づち、同意、軽い興奮、ロックンロール的な掛け声。その程度の意味で使われることも多い。
しかしCanのOh Yeahでは、この言葉が単なる掛け声ではなくなる。
反復されることで、意味が薄れ、音だけが残る。
音だけが残ると、それは呪文になる。
もうひとつ、Spotify上の歌詞断片として確認できる短いラインを引用する。Spotify
I see your own cheeks
和訳:
君自身の頬が見える
この一節は、通常のポップソングのような明確な物語を作らない。
むしろ、断片的なイメージとして浮かび上がる。頬、髪、時間、しるし。そのような言葉が、Damo Suzukiの声を通して、意味よりも先に質感として聴こえる。
Oh Yeahの歌詞は、論理で読むより、夢の断片として受け取ったほうが自然である。
起きたあと、夢の内容をうまく説明できないことがある。
誰かの顔があった。
知らない場所にいた。
言葉は聞こえたが、意味ははっきりしない。
それでも、夢の温度だけは残っている。
Oh Yeahの歌詞も、そのように機能する。
Damo Suzukiのボーカルは、言語を完全に捨てているわけではない。だが、言語を意味の檻に閉じ込めない。英語らしき言葉が出てきても、それはすぐに音へ溶けていく。
歌詞の全文は、Spotifyなどの歌詞表示機能や各種歌詞掲載サービスで確認できる。引用部分の著作権はCanおよび各権利者に帰属する。
この曲における和訳は、非常に難しい。
なぜなら、言葉の意味だけを訳しても、曲の本質はほとんど伝わらないからだ。
むしろ訳すべきなのは、声の状態である。
逆再生の声が作る異物感。
Oh Yeahという反復が作る陶酔。
断片的な英語が漂う夢の感覚。
それらを含めて、歌詞なのである。
4. 歌詞の考察
Oh Yeahの歌詞を考えるとき、まず前提として置きたいのは、この曲が言葉の意味を中心にしていないということだ。
これは、歌詞が重要ではないという意味ではない。
むしろ逆である。
言葉が意味から解放され、音楽の一部として機能しているからこそ、非常に重要なのだ。
Damo Suzukiの声は、ロックにおけるボーカルの役割を大きくずらしている。
通常、ボーカルは曲の前面に立つ。物語を語り、感情を伝え、メロディを運ぶ。聴き手は歌詞を追い、歌手の感情に共感する。
しかしOh Yeahでは、声は前面に立つと同時に、音の渦の中へ溶け込む。
Damoは主人公ではない。
むしろ、儀式の媒介者である。
声は人間のものでありながら、どこか非人間的だ。逆再生によって、声は時間の流れに逆らう存在になる。言葉は後ろ向きに流れ、聴き手は意味をつかめない。その瞬間、耳は別の聴き方を始める。
意味ではなく、音の形を聴く。
文ではなく、声の動きを聴く。
歌ではなく、呼吸と摩擦を聴く。
これがOh Yeahの入口である。
そのあとに始まるグルーヴは、まさにCanの真骨頂だ。
Jaki Liebezeitのドラムは、しばしばモーターリックと呼ばれるような持続的なリズム感覚を持つ。だが彼のドラムは、単に機械的な反復ではない。細かなズレ、強弱、ハイハットの刻み、スネアの位置が、反復の中に微細な生命感を生む。
同じことを繰り返しているようで、少しずつ違う。
この少しずつ違うという感覚が、トランスを生む。
ロックのドラムは、しばしば曲を盛り上げるためにフィルを入れる。サビの前に大きく叩き、展開を作る。だがJakiのドラムは、むしろ展開を拒むように同じ場所へ戻り続ける。
その反復が、逆に前へ進む力になる。
Oh Yeahを聴いていると、曲がどこかへ向かっているのか、それとも同じ場所で回り続けているのかわからなくなる。
この感覚が非常に重要だ。
Canの音楽には、直線的な時間ではなく、円環的な時間がある。始まりから終わりへ向かう物語ではなく、同じリズムの中で意識の状態が変わっていく音楽である。
Oh Yeahは、その円環の中に聴き手を入れる。
歌詞の断片も、その円環の中で意味を変える。
Oh yeah。
最初は掛け声に聞こえる。
次第に呪文に聞こえる。
さらに聴き込むと、もはや言葉ではなく、グルーヴの呼吸になる。
この変化が面白い。
サウンド面では、Michael Karoliのギターも大きな役割を果たしている。
ギターは、ロック的なリフを太く押し出すというより、音の膜を作る。鋭いフレーズもあるが、ブルースロック的な自己主張とは違う。ギターはグルーヴの中に入り込み、時に光の線のように走り、時に煙のように広がる。
Holger Czukayのベースは、必要以上に動きすぎない。
しかし、低音の位置取りが絶妙である。ドラムと一緒に曲の床を作り、聴き手の身体をその上に立たせる。どれだけ声やギターが奇妙な方向へ行っても、ベースとドラムがあるから曲は崩れない。
Irmin Schmidtのキーボードは、曲全体に不穏な色を与える。
明るく美しい鍵盤ではない。むしろ、空間の奥に漂う影のようだ。音が鳴っているのか、空気が揺れているのか、その境目が曖昧になる。
この全体の音像が、Oh Yeahを単なるロックソングではなくしている。
この曲には、ロックの快楽がある。
だが、同時にロックを分解する力もある。
ヴァースとサビの構造は曖昧で、歌詞の意味も曖昧で、楽器の役割も固定されない。すべてがグルーヴの中で流動化している。
だからこそ、後の音楽への影響も大きい。
ポストパンク、ニューウェイヴ、インダストリアル、エレクトロニカ、オルタナティブ・ロック、ダンス・ミュージック。Canの反復と編集感覚は、さまざまな音楽の中に流れ込んでいった。
The FallのI Am Damo Suzukiは、Damo Suzukiへのトリビュートとして知られ、Oh Yeahの影響も指摘されている。特にDamoの歌唱スタイルや逆再生ボーカルへの言及は、Canが後のポストパンクに与えた影響をよく示している。ウィキペディア
Oh Yeahのすごさは、1971年の曲でありながら、今聴いても古びたロックに聞こえにくいことだ。
もちろん、録音には時代の質感がある。
だが、曲の発想は今でも鋭い。
反復するビート。
編集された音像。
言語を解体するボーカル。
ジャンルを横断するグルーヴ。
これらは、現代の音楽にもそのまま通じる。
むしろ、現代の耳のほうが、この曲を自然に受け取れる部分もあるかもしれない。
ループ音楽に慣れた耳。
サンプリングや編集に慣れた耳。
言語より音色を重視するボーカルに慣れた耳。
そういう耳で聴くと、Oh Yeahは驚くほど現在的である。
しかし、同時にこの曲には今の音楽にはなかなかない肉体性がある。
人間が実際に演奏している。
リズムが身体から出ている。
テープ編集の手触りがある。
機械的な反復に近づきながら、完全には機械にならない。
その境界線に、Canの魔力がある。
5. この曲が好きな人におすすめの曲 5曲
- Mushroom by Can
Tago Magoの2曲目に収録された楽曲で、Oh Yeahの直前に置かれている。短めの曲ながら、Canの不穏さとミニマルな反復が濃く出た名曲である。Damo Suzukiの声は呪術的で、リズムは鋭く、全体に冷たい霧のような空気が漂う。
Oh Yeahが深いグルーヴの中へ入っていく曲だとすれば、Mushroomはその前にある暗い入口のような曲である。Tago Magoをアルバムとして聴くと、この2曲の流れが非常に強い。
– Halleluhwah by Can
Tago Magoの中心にある18分超の長尺曲である。Oh Yeahの反復とトランス感に惹かれたなら、Halleluhwahは必ず聴くべき曲だ。Jaki Liebezeitのドラムがひたすら前進し、ベース、ギター、ボーカルがその上で変化し続ける。
これはロックというより、巨大なグルーヴの装置である。長い曲なのに、途中で飽きるどころか、時間の感覚が変わっていく。Oh Yeahで感じたCanのリズム中毒性を、さらに拡大したような一曲である。
– Vitamin C by Can
1972年のアルバムEge Bamyasiに収録された代表曲。Oh Yeahよりもコンパクトで、フックも強く、Canの入り口としても聴きやすい。だが、その中には鋭いリズム、奇妙なボーカル、独特の緊張感が詰まっている。
ドラムの切れ味がとにかく素晴らしい。曲は短いが、反復の強度は非常に高い。Oh Yeahの呪術性を少しポップにしたような曲として楽しめる。
– Mother Sky by Can
1970年のサウンドトラックSoundtracksに収録された長尺曲。Malcolm MooneyからDamo Suzuki期へ移る過渡期のCanの勢いを感じられる重要曲である。ギターの反復、ドラムの持続、全体の疾走感が圧倒的だ。
Oh Yeahが煙の中で踊る曲なら、Mother Skyは高速道路を意識だけで走り抜けるような曲である。Canのロック的な爆発力を知るには最適な一曲だ。
– Future Days by Can
1973年の同名アルバムFuture Daysのタイトル曲。Oh Yeahの不穏なグルーヴとは違い、こちらはより浮遊感が強く、アンビエントに近い美しさを持つ。Damo Suzukiの声も、攻撃的というより水面に漂うように響く。
Canの音楽が、暗い地下室だけでなく、光の揺れる海辺のような場所にも行けることを示す曲である。Oh YeahでCanに入った人が、次にその広がりを知るために聴きたい一曲だ。
6. 逆再生の声が開く、Canという迷宮
Oh Yeahは、Canというバンドの魅力を非常に濃く示す曲である。
それは、わかりやすい代表曲という意味だけではない。
むしろ、この曲にはCanのわかりにくさそのものが、最高の形で詰まっている。
声は逆再生される。
歌詞は意味からずれていく。
ドラムは反復し続ける。
ギターは煙のように広がる。
ベースは必要な場所だけを支える。
キーボードは空間に影を落とす。
曲は進んでいるようで、同じ場所にいるようでもある。
この曖昧さが、Oh Yeahの核心である。
普通のロックソングは、聴き手を目的地へ連れていく。イントロからヴァースへ、サビへ、ブリッジへ、最後のクライマックスへ。だがOh Yeahは、目的地ではなく状態を作る。
聴き手は曲の中で移動するのではなく、変化する。
最初は奇妙に感じる。
次第にリズムへ入る。
そのうち声の意味を追うことをやめる。
最後には、反復そのものが気持ちよくなる。
この過程が、ほとんど儀式のようだ。
Canの音楽には、ヨーロッパの実験音楽の知性と、ロックの身体性が同居している。Stockhausenの影響、ジャズの即興、テープ編集、ファンク的なグルーヴ、サイケデリックな意識の拡張。それらが机上の理論としてではなく、バンドの音として鳴っている。
Oh Yeahは、その理想的なバランスのひとつである。
頭で聴ける。
身体でも聴ける。
分析できる。
でも、分析しきれない。
この余白があるから、曲は何度聴いても生きている。
Damo Suzukiの存在も、この曲を特別にしている。
彼は歌詞を明確に伝える歌手ではない。むしろ、言葉を溶かし、声を音楽の一部にしてしまう。逆再生された声は、まるで人間の言語が崩れ、別の生き物の鳴き声になったように響く。
だが、そこに冷たさはない。
むしろ、不思議な人間味がある。
意味がわからないのに、感情は伝わる。
言葉が崩れているのに、身体は反応する。
これは、音楽が言語を超える瞬間である。
Oh Yeahというタイトルも、実に絶妙だ。
こんなにも奇妙な曲に、こんなにも軽いタイトルがついている。
しかし、その軽さがいい。
難解な実験音楽として構えるのではなく、Oh Yeahと笑う。わかったような、わからないような相づちを打つ。その軽い言葉の奥で、音楽はとんでもないことをしている。
Canのすごさは、そこにある。
彼らは実験的だが、頭でっかちではない。
難しいことをしているが、グルーヴは圧倒的に身体的だ。
Oh Yeahを聴いていると、音楽は説明ではなく体験なのだとわかる。
1971年のTago Magoは、ロックの可能性を大きく広げた作品だった。Oh Yeahは、その中でも特に鋭く、しなやかで、今なお新しい曲である。
この曲には、完成された美しさよりも、進行中の実験の熱がある。
音楽が目の前で変形している。
声が裏返り、時間がねじれ、リズムが身体を乗っ取り、意識が少しずつずれていく。
それは怖いほど自由である。
Oh Yeahは、Canの迷宮への入口だ。
一度入ると、どこが出口なのかわからなくなる。
だが、その迷宮の中では、ドラムがずっと鳴っている。
そのリズムに身を任せているうちに、迷っていること自体が気持ちよくなる。
Canの音楽とは、そういうものなのだ。

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