
発売日: 2018年10月26日
ジャンル: インディーフォーク、シンガーソングライター、インディーロック
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概要
『boygenius』は、Phoebe Bridgers、Lucy Dacus、Julien Bakerという現代アメリカを代表するシンガーソングライター3人によって結成されたスーパートリオ“boygenius”のデビューEPであり、孤独と連帯、沈黙と語り、傷と美しさが響き合う現代的フォーク・アンサンブルの金字塔である。
わずか6曲・22分という短い作品ながら、その濃密さと完成度の高さから、リリース直後から絶賛され、のちのフルアルバム『the record』への布石としても大きな意味を持つ。
“boygenius”というバンド名は、「若き天才」として過剰に称賛される男性アーティスト像に対する皮肉から取られており、彼女たち3人が音楽業界で経験してきた抑圧や葛藤に対する静かな対抗でもある。
それぞれが卓越したストーリーテラーである彼女たちが、この作品では「一緒にいること」そのものが救いになるという感覚を、複数の視点とハーモニーによって描き出している。
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全曲レビュー
1. Bite the Hand
Lucy Dacusがメインボーカルを務めるオープナー。
「愛されていると感じると、噛みたくなる」というフレーズが示すのは、親密さへの恐れと反発。
ストレートなギターサウンドと、Lucyの温かくも力強い声が曲の骨格を成している。
2. Me & My Dog
Phoebe Bridgers主導の代表曲であり、boygeniusの存在を決定づけた楽曲。
宇宙旅行という比喩で、誰にも干渉されず、ただ犬と二人きりでいたいという逃避願望を語る。
痛々しいまでに繊細なリリックと、壮大な展開が見事に融合した傑作。
3. Souvenir
三人の声が穏やかに交錯するバラード。
過去の恋、友人との思い出、自分の中に残った傷跡——それらを“スーヴェニア(記念品)”として抱える優しさと寂しさ。
ハーモニーの美しさが際立つ一曲。
4. Stay Down
Julien Bakerがメインを取る、最も激情的なトラック。
内的葛藤と宗教的メタファーが複雑に交錯するリリックを、崩れ落ちそうなギターとボーカルで支える。
激しさの中に、どうしようもない弱さがにじむ。
5. Salt in the Wound
三人のうち最もロック色の強い構成で、特に後半のハーモニーとギターの盛り上がりは圧巻。
傷口に塩を塗り込むような関係を続けてしまうことへの自己嫌悪と、そこから抜け出したいという本能的な叫び。
アルバムのクライマックスとも言えるカタルシス。
6. Ketchum, ID
「どこにいても、ここにはいないと感じる」という孤独の普遍性を、最も静かなサウンドで描いたラスト曲。
タイトルはアイダホ州ケッチャムの地名で、誰にも知られないような場所での逃避と沈黙がテーマ。
三人の声が一つになり、地平線のように広がって終わる。
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総評
『boygenius』は、3人の女性ソングライターが“対等に並び、共に沈黙し、共に歌う”ことによって生まれた自己開示のためのコモンルームのような作品である。
このEPが示すのは、「ひとりで語るのではなく、誰かと声を重ねることでしか辿り着けない感情」があるということ。
それは「痛みのシェア」や「孤独の分割」といった受動的な関係ではなく、傷ついたままの自分たちが集まり、そこに新しい美を築くという能動的な創造なのである。
サウンド面では、各人のソロ作品で見られる美学がそのまま持ち寄られており、トラックごとに表情は異なるが、トーンは一貫して静謐かつ親密。
コーラスワークとリリックの繊細さ、コード進行の緩やかな揺れなど、すべてが「感情のための器」として設計されている。
『boygenius』は、「声を合わせる」という最もシンプルな音楽行為が、どれほど深く人を救うかを証明した作品であり、これはEPという形式の限界を超えた“小さな傑作”である。
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おすすめアルバム(5枚)
- Julien Baker『Turn Out the Lights』
信仰、孤独、自己破壊をめぐる静かな痛みの極北。 - Phoebe Bridgers『Stranger in the Alps』
喪失と夢のあいだを漂う、繊細な語りとポップの結晶。 - Lucy Dacus『Home Video』
10代の記憶と自己認識を描いた、個人的で普遍的な語り口。 - Big Thief『U.F.O.F.』
フォークと実験性、個と集団がせめぎあう静かな衝突。 - Iron & Wine『The Creek Drank the Cradle』
ささやくような音楽の中に潜む、魂の振動。
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7. 歌詞の深読みと文化的背景
このEPの歌詞には、個々の視点で語られる個人的体験が多く含まれているが、同時にそこには共通する感情のコード=“傷ついていることを隠さない自由”が通底している。
「Me & My Dog」では、自分すらいなくなるような消失願望が語られるが、それは決して悲劇的に表現されない。
「Bite the Hand」や「Stay Down」では、親密さに対する恐れや自己否定の感情が語られるが、それを“詩”として受け入れる冷静な距離感がある。
また、boygeniusというユニット名自体が、男性中心の音楽史に対するアイロニカルなカウンターとして機能しており、彼女たちの歌は必ずしも“女性の歌”である以前に、「語りえなかった声」を丁寧に紡ぐ試みとして存在している。
『boygenius』は、静かで、力強く、そして何よりも“信頼の音楽”なのだ。
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