
発売日:2023年10月13日
ジャンル:インディー・ロック/インディー・フォーク/オルタナティヴ・ロック/シンガーソングライター/ドリーム・ポップ
概要
boygeniusのthe restは、2023年に発表されたフル・アルバムthe recordの余韻を引き継ぐEPであり、Julien Baker、Phoebe Bridgers、Lucy Dacusという現代インディー・ロック/シンガーソングライター・シーンを代表する3人の作家性が、より小さく、静かで、内省的な形で凝縮された作品である。全4曲という短い構成ながら、boygeniusというプロジェクトの本質である友情、相互理解、信仰と疑念、自己嫌悪、他者への献身、そして傷ついた者同士の連帯が、非常に密度の高い形で表れている。
boygeniusは、2018年のセルフタイトルEPで登場した時点から、単なるスーパーグループではなかった。3人はいずれもソロで高い評価を得ていたが、boygeniusではそれぞれの個性を競わせるのではなく、互いの声や言葉を補い合う形で音楽を作った。Julien Bakerの信仰と罪悪感をめぐる切実な歌、Phoebe Bridgersの死や喪失を乾いたユーモアと透明なメロディで描く感覚、Lucy Dacusの物語性と人間関係への鋭い観察眼が、boygeniusでは一つの共同体的な声へと変わる。
2023年のthe recordは、その共同体性が大きく開花したアルバムだった。インディー・フォークの静けさ、90年代オルタナティヴ・ロック的なギター、パンク的な爆発、アカペラの親密さ、そして3人のハーモニーが、愛と友情と自己破壊の物語を作り上げた。the restは、その続編というより、the recordの周辺に残された影や小さな手紙のような作品である。タイトルも示唆的である。「the rest」は「残り」「休息」「その他」を意味する。つまり、本作は本編のあとに残されたもの、語りきれなかったもの、そして休むための場所でもある。
音楽的には、the restはthe recordよりも控えめで、内側へ沈む。大きなロック・アンセムはなく、むしろギター、ピアノ、薄い電子音、柔らかなハーモニー、余白の多いアレンジによって、言葉と声の関係が前面に出る。4曲はいずれも短いが、それぞれに異なる感情の中心がある。「Black Hole」では宇宙的な比喩を通じて存在の不安と引力が描かれ、「Afraid of Heights」では恐怖と無謀さ、勇気と自己保存の違いが問われる。「Voyager」では他者との関係の中で失われる自己が静かに歌われ、「Powers」では自分がどのように今の自分になったのかという問いが、神話的かつ個人的な言葉で描かれる。
boygeniusの音楽の重要な点は、傷つきやすさを単なる弱さとして扱わないことである。彼女たちの歌には、うつ、依存、宗教的葛藤、家族、死、クィアな愛、友情の複雑さ、自己犠牲の危うさが繰り返し現れる。しかしそれらは、悲劇的に消費されるのではなく、互いに見つめ合い、言葉にし、歌い合うことで共有される。the restもまた、静かな作品でありながら、その根底には強い相互扶助の感覚がある。
日本のリスナーにとって、the restは短い作品であるため入りやすい一方、歌詞の細部を読み込むほど深みが増すEPである。メロディは控えめで美しいが、そこに込められたテーマは軽くない。宇宙、落下、高さ、旅、力という大きなイメージが、非常に個人的な痛みや人間関係の不安へ結びつく。boygeniusの魅力は、この大きな比喩と小さな傷の距離の近さにある。
全曲レビュー
1. Black Hole
「Black Hole」は、EPの冒頭を飾る楽曲であり、タイトル通り宇宙的なイメージを持つ。ブラックホールは、強い重力によって光すら逃れられない天体であり、消滅、吸引、不可視の力を象徴する。boygeniusの文脈では、このブラックホールは、感情や関係性の比喩として響く。誰かに引き寄せられること、自己の輪郭が消えていくこと、または説明できない不安に飲み込まれることが、この曲の中心にある。
音楽的には、静かなギターと柔らかな声の重なりが印象的である。大きなドラマを作るのではなく、淡い光のような音の中で進む。boygeniusのハーモニーはここでも重要で、ひとりの感情が3人の声によって拡張される。孤独な歌でありながら、完全な孤独にはならない。
歌詞のテーマは、存在の不安と引力である。ブラックホールという言葉は、恋愛の比喩としても、精神状態の比喩としても機能する。人は時に、近づいてはいけないものに近づいてしまう。あるいは、自分の中にある暗い穴へ落ちていくように感じる。そこには恐怖があるが、同時に奇妙な美しさもある。
「Black Hole」は、the restの入口として非常に効果的である。EPは明るい再出発ではなく、静かな深淵を見つめるところから始まる。しかし、その深淵はただの絶望ではない。3人の声が重なることで、暗い場所にも誰かがいるという感覚が生まれる。boygeniusらしい、孤独と連帯が同時に存在する楽曲である。
2. Afraid of Heights
「Afraid of Heights」は、「高所恐怖」を意味するタイトルを持つ楽曲である。高さは、危険、自由、冒険、成功、落下の可能性を象徴する。高い場所へ行くことは勇気の証のように見えるが、そこには落ちる恐怖も伴う。この曲では、恐怖を感じることと、無謀であることの違いが静かに問われている。
音楽的には、アコースティックな響きと落ち着いたメロディが中心で、非常に語りに近い印象を持つ。Lucy Dacus的な物語性が強く感じられる曲であり、言葉の流れが曲全体を導いている。派手な展開はないが、歌詞の一行ごとに重みがある。
歌詞のテーマは、勇気と自己保存の境界である。誰かが危険を恐れずに飛び込むことを、社会はしばしば勇敢だと呼ぶ。しかし、本当に勇気があることと、自分を大切にしないことは違う。高い場所を怖がることは、弱さではなく、生き延びようとする感覚でもある。この曲は、その価値観を丁寧に描く。
boygeniusの作品において、自己破壊はしばしば重要なテーマである。自分を傷つけること、無理をすること、限界を超えることは、ロマンティックに見える場合がある。しかし「Afraid of Heights」は、そのロマン化に疑問を投げかける。恐れることは恥ではない。落ちたくないと思うことは、生きたいと思うことでもある。この曲は、静かな自己肯定の歌として機能している。
3. Voyager
「Voyager」は、旅人、探査機、遠くへ向かう存在を意味するタイトルを持つ楽曲である。NASAの探査機Voyagerを連想させる言葉でもあり、地球を離れて深宇宙へ向かうイメージがある。しかしboygeniusの手にかかると、その宇宙的な言葉は、非常に個人的な関係の歌へ変わる。遠くへ行くこと、相手と共にいるうちに自分が変わっていくこと、そして気づかないうちに自分の軌道を失うことが描かれる。
音楽的には、非常に静かで、余白が多い。Phoebe Bridgers的な冷たい美しさがあり、声は近いが、どこか遠くから届くようにも聞こえる。ギターやピアノの響きは控えめで、歌詞の孤独を支える。音の少なさが、宇宙の広さや関係の距離を感じさせる。
歌詞のテーマは、愛の中で自分を見失うことだといえる。旅は本来、発見のためのものだが、この曲では、旅を続けるうちに自分がどこにいるのか分からなくなるような感覚がある。相手と一緒にいることで世界が広がる一方、自分の中心がずれていく。愛は方向を与えることもあれば、軌道を狂わせることもある。
「Voyager」は、the restの中でも特に美しく、痛みの深い楽曲である。大げさな別れの歌ではなく、関係の中で少しずつ自己が薄れていく感覚を描いている。誰かと深く結びつくことは、必ずしも自分を豊かにするだけではない。時に、自分の形を相手に合わせすぎてしまう。この曲は、その静かな喪失を宇宙的な比喩で表現している。
4. Powers
「Powers」は、EPの最後を飾る楽曲であり、自分自身の起源をめぐる問いを含んだ重要曲である。タイトルの「Powers」は、力、能力、権能、あるいは超自然的な力を意味する。ここでは、自分が持っている性質や傷、感受性、才能がどこから来たのかを問う歌として響く。
音楽的には、静かな導入から徐々に広がりを持つ。Julien Baker的な精神性、信仰への問い、自己分析の切実さが強く感じられる。声は抑制されているが、曲全体には内側から光が滲むような力がある。boygeniusの3人のハーモニーは、ここで祈りのような質感を持つ。
歌詞のテーマは、自己の由来である。なぜ自分はこう感じるのか。なぜ人より強く傷つくのか。なぜこのような力を持っているのか。そこには、事故、神、遺伝、運命、偶然、物語といった複数の可能性が浮かぶ。自分を説明するために、人は神話を必要とすることがある。この曲は、その神話を作ろうとしながら、同時にそれを疑っている。
「Powers」は、the restの終曲として非常にふさわしい。EPの前半で描かれた暗闇、恐怖、旅、自己喪失は、最後に「自分はどこから来たのか」という問いへ収束する。答えは明確に示されない。しかし、その問いを3人の声で歌うこと自体が、boygeniusにとっての救いになっている。孤独な自己分析が、共同のハーモニーによって共有される。そこに本作の核心がある。
総評
the restは、全4曲という短い作品ながら、boygeniusの2023年の活動における重要な補章である。the recordが大きなアルバムとして、友情、愛、自己破壊、信頼、怒り、祈りを広いレンジで描いた作品だったのに対し、the restはより小さく、静かで、余白の多い作品である。しかし、その小ささは弱さではない。むしろ、語り残された感情や、アルバム本編では大きく展開されなかった問いを、短い形式の中で深く掘り下げている。
タイトルのthe restは非常に的確である。これは「残り」であり、「休息」でもある。the recordの後に残された曲という意味だけでなく、激しい感情の後に訪れる静かな時間、言葉を発した後の沈黙、走り続けた後の呼吸のような作品である。boygeniusの音楽はしばしば、痛みを共有することによって前へ進むが、本作ではその共有の後に残る静けさが大切にされている。
4曲には、それぞれ大きな比喩が用いられている。「Black Hole」では暗い引力、「Afraid of Heights」では高さと落下、「Voyager」では宇宙への旅、「Powers」では自分の力の起源が描かれる。宇宙、高さ、旅、超自然的な力という大きなイメージが使われているにもかかわらず、曲の感情は非常に個人的で親密である。このスケールの差が、boygeniusの作詞の特徴である。大きな世界を語ることで、小さな心の傷を浮かび上がらせている。
音楽的には、EP全体に抑制がある。the recordにあったロック的な爆発や合唱的な高揚は控えめで、ここでは声、ハーモニー、余白が中心になる。ギターやピアノは最小限に置かれ、3人の声が曲の感情を支配する。boygeniusにおいてハーモニーは、単なる美しい装飾ではない。それは、ひとりでは抱えきれない感情を複数の声で支える方法である。
Julien Baker、Phoebe Bridgers、Lucy Dacusの個性も、それぞれの曲ににじんでいる。「Afraid of Heights」にはLucy Dacus的な物語の明晰さがあり、「Voyager」にはPhoebe Bridgers的な冷たく透明な喪失感がある。「Powers」にはJulien Baker的な宗教性と自己分析の切実さが感じられる。しかし、EP全体としては誰かひとりの作品ではなく、3人の感情が互いに反射し合うboygeniusの作品として成立している。
本作の主題を一言でまとめるなら、「暗闇の中で自分の輪郭を探すこと」である。ブラックホールに吸い込まれそうになり、高さを恐れ、遠くへ旅をしすぎて自分を見失い、自分の力の由来を問う。これらはすべて、自分がどこにいるのか、何者なのかを探す歌である。そしてboygeniusの場合、その問いは完全にひとりで解決されるものではない。誰かと声を重ねることで、ようやく少し見えてくる。
the restは、boygeniusを初めて聴く作品としてはやや控えめかもしれない。まずthe recordや2018年のEPを聴いた方が、3人の関係性や音楽的な広がりはつかみやすい。しかし、boygeniusの核心にある親密さ、傷つきやすさ、ハーモニーの意味を理解するには、本作は非常に重要である。派手ではないが、余白の中に深い感情がある。
日本のリスナーにとっては、歌詞の比喩を追いながら聴くことで、作品の印象が大きく変わるEPである。音楽だけを聴くと静かで美しいインディー・フォーク/ロックとして響くが、言葉を読むと、自己喪失、恐怖、生存本能、関係の中の不均衡、自己の起源への問いが浮かび上がる。短い作品でありながら、聴後には長い余韻が残る。
the restは、boygeniusが大きな成功の後に提示した、小さく、静かで、深い作品である。残されたもの、休むこと、言い切れなかったこと。そうした余白を大切にしながら、3人は再び声を重ねる。暗闇、落下、宇宙、力。そのすべてを通して、本作は傷ついた者同士が互いを見失わないための短い灯りのように響く。
おすすめアルバム
1. boygenius『the record』
2023年発表のフル・アルバム。友情、愛、自己破壊、信仰、怒り、連帯を大きなスケールで描いたboygeniusの代表作である。the restはこの作品の余韻として聴くことで、より深く理解できる。
2. boygenius『boygenius』
2018年発表の初EP。Julien Baker、Phoebe Bridgers、Lucy Dacusの3人が初めてboygeniusとして声を重ねた作品であり、プロジェクトの原点である。3人の作家性がどのように融合したかを知るうえで欠かせない。
3. Julien Baker『Little Oblivions』
2021年発表のアルバム。信仰、依存、自己破壊、回復をフルバンド・サウンドで描いた作品であり、the restの「Powers」に通じる精神的な切実さを理解できる。
4. Phoebe Bridgers『Punisher』
2020年発表の代表作。死、喪失、愛、ユーモアを透明なインディー・フォーク/ロックとして描いたアルバムである。the restの「Voyager」にある冷たい美しさや静かな孤独と強く響き合う。
5. Lucy Dacus『Home Video』
2021年発表のアルバム。幼少期、宗教、家族、クィアな自己認識、記憶を物語的に描いた作品である。the restの「Afraid of Heights」に通じる語りの明晰さと人間関係への観察眼を味わえる。

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