
1. 楽曲の概要
「Anti-Curse」は、boygeniusが2023年に発表した初のフルアルバム『the record』の収録曲である。アルバムでは11曲目、つまりラストの「Letter to an Old Poet」の直前に配置されている。リードボーカルはJulien Bakerが担当し、Phoebe BridgersとLucy Dacusがハーモニーや演奏で加わる。
boygeniusはBaker、Bridgers、Dacusという3人のシンガーソングライターによるバンドで、2018年にセルフタイトルEPを発表した。その後それぞれのソロ活動を経て、約5年ぶりの本格的な作品として『the record』を2023年3月31日にInterscopeから発売した。
「Anti-Curse」は、アルバムの中でも特にBakerの作家性が強く表れた曲である。静かなフォークではなく、エレクトリックギターとドラムを使った大きなバンドサウンドを持ち、後半へ向かうにつれて音圧を増していく。その構成には、Bakerのソロアルバム『Little Oblivions』で聴かれたフルバンド志向との連続性がある。
歌詞の出発点になったのは、Bakerが『the record』制作期に経験した実際の出来事である。Malibu滞在中に海で泳いでいた際、強い波に巻き込まれ、危険な状態になった。その経験が、自分の死や人生を意識するきっかけとなり、「Anti-Curse」の歌詞へつながった。
ただし曲は、単なる「溺れかけた体験談」にはなっていない。
水、波、塩といった具体的なイメージから始まり、過去の選択、愛情、自己破壊、そして歌を書くという行為そのものへ視点を広げる。海で死にかけた瞬間を入口に、自分の人生を振り返る曲といえる。
2. 歌詞の概要
「Anti-Curse」の冒頭では、語り手が海の中にいる。
水が深くなり、波が押し寄せ、身体の内部にまで海が入り込むような切迫した状況が描かれる。これは比喩だけではなく、Baker自身が実際に経験した危険な遊泳を背景にしている。
しかし歌詞は、その出来事を実況することには集中しない。
死ぬかもしれないと感じたとき、語り手の思考は過去へ向かう。
自分はこれまで何をしてきたのか。
誰を愛したのか。
どんな失敗をしたのか。
そして、何を言葉として残してきたのか。
そうした問いが、海のイメージと混ざっていく。
Bakerのソロ作品では以前から、罪悪感、依存、信仰、自己破壊、赦しといった主題が繰り返されてきた。「Anti-Curse」にもそれらの要素は残っている。
ただし、以前の楽曲と比べると結論の方向が少し異なる。
自分を罰することだけに向かわない。
人生がうまくいかなかったとしても、それをそのまま引き受け、言葉にする。
その姿勢が「curse=呪い」に対する「anti-curse」という言葉へつながる。
タイトルは一般的な英単語ではない。
「呪いを解くもの」「呪いへの対抗手段」といった造語的な響きを持つ。
歌を書くことが人生を完全に救うわけではない。しかし、経験を言葉へ変えることで、自分を縛っていた記憶の意味を少し変えることはできる。
「Anti-Curse」は、その可能性を扱った曲と考えられる。
3. 制作背景・時代背景
『the record』は、boygeniusにとって2018年のEP以来となる本格的な共同作品である。
最初のEPでは、3人がそれぞれ持ち寄った曲を短期間で録音するという方法が中心だった。それに対し『the record』では、より長い時間をかけて共同制作が行われた。
レコーディングはMalibuのShangri-La Studiosなどで進められ、boygenius自身に加えてCatherine Marksが共同プロデュースを担当した。Sarah Tudzinがエンジニアとして参加し、Carla Azar、Melina Duterteなど外部ミュージシャンも加わっている。
この制作期間中、3人は音楽だけでなく生活そのものをかなり共有した。
『the record』には、その親密さが直接反映されている。
一人の曲を他の二人が支えるだけではない。
それぞれの過去の歌詞やお気に入りの本、冗談、会話、個人的な記憶が作品の中で互いに参照される。
「Anti-Curse」もその典型である。
Bakerの歌でありながら、boygeniusの過去作品やメンバー同士の共有言語が歌詞へ入り込む。
たとえば水や塩に関する語彙は、2018年のboygenius曲「Salt in the Wound」を連想させる。またBakerは、BridgersやDacusの作品を含む多くの言葉を意識的に参照しながら歌詞を書いている。
Rolling Stoneの2023年の特集では、「Anti-Curse」がMalibuでのBakerの海難事故から生まれたことに加え、曲中にboygenius内部のさまざまな引用が織り込まれていることが紹介された。
この方法はアルバム全体にも共通する。
『the record』は、それぞれのソロ活動を寄せ集めた作品ではなく、3人の作品世界が互いに侵入し合うことで成立している。
「Anti-Curse」はその中でも、Bakerの個人的な危機をグループ全体の言語へ変換した曲である。
4. 歌詞の抜粋と和訳
It’s coming in waves
和訳:
波になって押し寄せてくる
この短い一節は、曲の物理的な状況と心理状態の両方を表している。
第一には文字通りの波である。
Bakerは実際に海で危険な状態になり、水の力に抵抗する状況を経験した。そのため「waves」は抽象的な比喩ではなく、曲の出発点となった現実の感覚を持つ。
しかし英語の「in waves」は、感情や記憶が断続的に押し寄せる場合にも使われる。
恐怖。
後悔。
思い出。
愛情。
死への意識。
それらが一度に整理されるのではなく、波のように何度も戻ってくる。
「Anti-Curse」では海の出来事と内面的な回想が区別されないまま進むため、この短い表現が曲全体の構造を示している。
さらに、音楽も似た動きをする。
比較的抑えた部分から大きなバンドサウンドへ移り、また新しい波が来るように音圧が増す。
つまり「waves」は歌詞だけでなく、アレンジの動きにも対応している。
歌詞の引用は批評・解説に必要な最小限に限定しており、原詞の権利は各権利者に帰属する。
5. サウンドと歌詞の考察
「Anti-Curse」のサウンドで最初に重要なのは、Julien Bakerらしいギター中心の構成である。
『the record』には「Cool About It」のようなアコースティック曲もあれば、「Not Strong Enough」のようなドライブ感のあるインディーロックもある。
「Anti-Curse」は後者に近いが、さらに重心が低い。
エレクトリックギターは大きく歪みすぎず、最初は比較的明瞭なコードを提示する。
その上でBakerの声が入る。
彼女は冒頭から叫ばない。
むしろ淡々とした低めの歌唱で、海の中にいる状況を説明する。
ここで曲は、危険な場面を描いているにもかかわらず、すぐには爆発しない。
この抑制が重要である。
死への恐怖を最初から大声で表現すると、曲の感情は一方向になる。
Bakerは逆に、危険な出来事を思い返している人物として歌う。
そのため曲には、出来事の最中と、その後から振り返っている視点が同時に存在する。
ドラムが加わると、曲は少しずつ前進する。
リズムは極端に複雑ではない。
一定のロックビートを使うことで、歌詞の細かな言葉を支える。
この方法はBakerの2021年作『Little Oblivions』にも通じる。
初期のBakerはピアノやギターと声だけで大きな感情を作ることが多かった。しかし『Little Oblivions』ではドラム、ベース、シンセサイザーを自ら演奏し、内面の混乱をフルバンドの音圧へ変えた。
「Anti-Curse」は、その方法をboygeniusのアンサンブルへ移したものと考えられる。
ただし、ソロ作品との最大の違いはPhoebe BridgersとLucy Dacusの声があることだ。
Bakerの声だけなら、曲はより孤独なものになる。
そこへ他の二人のハーモニーが加わることで、個人的な回想が一人きりの独白ではなくなる。
ここは『the record』のテーマと深く関係する。
死や失敗について考えるのはBaker一人である。
しかしその言葉を実際に歌う場所には友人がいる。
この構造自体が、初期Baker作品との大きな違いである。
曲が進むにつれてギターの密度は増す。
一枚のコードを鳴らすというより、複数のギターが重なり、音の壁に近づいていく。
それでも極端なノイズロックにはならない。
メロディの輪郭は最後まで維持される。
このバランスは『the record』全体のプロダクションにも共通する。
boygeniusは3人ともフォーク系シンガーソングライターとして語られることが多いが、実際にはオルタナティブロックやエモ、パンクから大きな影響を受けている。
特にBakerは若い頃にハードコアバンドで活動しており、激しいギターサウンドは彼女にとって後付けの要素ではない。
「$20」や「Satanist」と同じく、「Anti-Curse」でもその側面が表れる。
ただし「$20」が衝動そのものを前面に出すのに対し、「Anti-Curse」はもっと慎重だ。
音量が増すほど、歌詞は人生全体を振り返る方向へ進む。
つまりサウンドは外へ拡大し、歌詞は内側へ深く入っていく。
この逆方向の運動が曲の緊張を作る。
タイトルの「Anti-Curse」についても、Bakerのこれまでの歌詞と比較すると興味深い。
彼女のソロ作品では、宗教的な言葉が頻繁に登場する。
祈り。
罪。
救済。
赦し。
神。
しかしBakerは単純な信仰告白を書くのではなく、自分の失敗や依存、自己嫌悪を宗教的な語彙とぶつけてきた。
「Anti-Curse」では「curse」という宗教や魔術を思わせる語が使われる一方、その解除法は明確な祈りではない。
歌を書くことそのものが、呪いを反転させる行為のように提示される。
曲の終盤では、Bakerは「love song」を書くという行為について自己言及的に触れる。
ここで「Anti-Curse」は突然、海での出来事から「自分が何を歌にするのか」という問題へ移る。
これは非常にBakerらしい。
人生の危機を経験しても、その出来事が最終的には言葉と音楽へ変換される。
しかし、その歌が経験を完全に説明できるわけではない。
だから「incantation=呪文」に近い。
意味を論理的に整理するというより、言葉を繰り返すことで経験との関係を変える。
この発想が「anti-curse」につながっている。
『the record』の中で11曲目に置かれていることも重要である。
直前の「We’re in Love」はLucy Dacusが中心となり、友情と愛情、記憶、未来の喪失を非常に直接的に歌う。
その直後にBakerの「Anti-Curse」が来る。
ここでは愛情を語ることがさらに死の意識と結びつく。
そして最後の「Letter to an Old Poet」ではPhoebe Bridgersが有害な関係から離れ、自分自身の価値を取り戻す方向へ進む。
この3曲を並べると、『the record』終盤の構造が見える。
愛すること。
死ぬことを考えること。
過去の関係から離れること。
それらが別々のテーマではなく、人との関係によって自分がどう変わるかという一つの流れとして配置されている。
「Anti-Curse」は、その中間にある。
死を目の前にしたとき、自分が何を大切にしてきたのかを確認する。
そして、それを歌にする。
だからこの曲は暗いが、完全な絶望ではない。
生還後に書かれているという事実そのものが、すでに曲へ別の方向を与えている。
6. この曲が好きな人におすすめの曲 5曲
- Stay Down by boygenius
2018年のセルフタイトルEPでJulien Bakerが中心となった曲である。自己否定や罪悪感を内側へ向ける初期boygeniusのBakerを確認でき、「Anti-Curse」でその感情がどのように変化したかを比較しやすい。
- $20 by boygenius
『the record』収録曲で、こちらもBakerがリードを取る。ハードコアやオルタナティブロック由来の強いギターと、若さや無謀さを扱う歌詞が特徴で、「Anti-Curse」のロック的な側面をさらに攻撃的にした一曲といえる。
- Ringside by Julien Baker
2021年の『Little Oblivions』収録曲。自己破壊を繰り返す人物が、それを見守る相手へ抱く罪悪感をフルバンドで描く。「Anti-Curse」にある自己観察、重量のあるギター、救済への複雑な距離感と強くつながっている。
- Favor by Julien Baker
Lucy DacusとPhoebe Bridgersもバックボーカルで参加した『Little Oblivions』期の楽曲で、boygenius再始動以前から3人の関係が音楽へ入り込んでいたことが分かる。Bakerの声と二人のハーモニーの組み合わせを比較するうえでも重要である。
- I Know the End by Phoebe Bridgers
2020年の『Punisher』最終曲。個人的な不安から終末的なイメージへ広がり、静かな序盤が巨大なバンドサウンドへ変化する。「Anti-Curse」の、死の意識と音響の拡大を結びつける構成が好きな場合に相性が良い。
7. まとめ
「Anti-Curse」は、boygeniusの2023年作『the record』終盤を支えるJulien Baker中心の楽曲である。
出発点には、MalibuでBakerが海に巻き込まれ、溺れかけた実体験がある。
そのため水、波、塩といったイメージには具体的な身体感覚がある。
しかし曲は事故の再現だけでは終わらない。
死ぬ可能性を意識した瞬間から、自分がこれまでどのように生き、愛し、失敗し、歌を書いてきたのかという自己検証へ進む。
音楽も同じように拡大する。
静かで比較的抑制された序盤から、ドラムとギターが加わり、Bakerの声も強度を増していく。Phoebe BridgersとLucy Dacusのハーモニーが加わることで、本来なら孤独になり得るBakerの内省が、boygeniusという共同体の中へ置かれる。
そこがこの曲の重要な点である。
Bakerの過去の作品では、罪悪感や自己破壊が一人の内面へ閉じることが多かった。
「Anti-Curse」では同じ問題を扱いながら、歌う場所には他者がいる。
死を考えることが、孤独の確認だけではなく、誰と生きているのかを確認する行為へ変化している。
そしてタイトルの「Anti-Curse」は、その変化を象徴する。
苦しい経験を消すことはできない。
過去の失敗をなかったことにもできない。
しかし、それを言葉と音楽へ変えることで、その経験が現在の自分を一方的に支配する状態からは少し離れられる。
歌を書くことを、呪いを完全に消す魔法ではなく、呪いへの対抗手段として捉える。
その慎重な肯定が「Anti-Curse」の核心である。
『the record』が友情、愛情、自己評価、死、成長を扱った作品であることを考えると、「Anti-Curse」はアルバム終盤でそれらを一度に結びつける重要曲といえる。Julien Bakerの従来のテーマを引き継ぎながら、boygeniusという3人の関係によって、その結論を少し違う場所へ運んだ楽曲である。
参照元
- boygenius Official Website
- Pitchfork「Boygenius Announce New Album The Record, Share Three Songs」
- Pitchfork「boygenius: The Record」
- Rolling Stone「How boygenius Became the World’s Most Exciting Supergroup」
- Spotify「the record」
- boygenius「Anti-Curse」Official Audio

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