発売日: 2023年3月31日
ジャンル: インディーロック、フォークロック、シンガーソングライター
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概要
『the record』は、Phoebe Bridgers、Julien Baker、Lucy Dacusによるクィア女性3人組ユニット・boygeniusが2023年にリリースした初のフルアルバムであり、友情・自己肯定・脆さ・怒り・記憶——すべての感情をそのままに受け止める“対等な連帯の記録”である。
2018年のEP『boygenius』で衝撃的なデビューを果たした彼女たちは、それぞれのソロキャリアを着実に歩んだのち、2023年に再集結。
その成果がこのアルバムには結実しており、3人がただ集まっただけではなく、“ひとつの身体として響く音楽”が作られている。
“the record”というあまりに一般的なタイトルは、日記や記録としての意味を含むと同時に、“音楽史に刻まれる作品”であることへの静かな自負をも感じさせる。
収録された12曲は、それぞれが3人の声と視点を持ちながら、友情という軸で繋がれた感情の地層として存在している。
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全曲レビュー
1. Without You Without Them
アカペラの三重唱で始まる衝撃のオープナー。
「あなたがいなければ、私はいなかった」という言葉が、アルバム全体に流れる“相互性”と“連帯”の感覚を端的に表す。
2.
Julien Bakerが主導する、疾走感のあるロックナンバー。
刹那的な衝動や破壊衝動を、ギターとビートに乗せて爆発させる。
ラストでPhoebeが絶叫するパートが印象的。
3. Emily I’m Sorry
Phoebe Bridgers主導の繊細なバラード。
傷つけてしまった相手への謝罪と、自己嫌悪、そしてまだ消えない愛情が交錯する。
彼女のソロ楽曲とも通じるパーソナルな手触り。
4. True Blue
Lucy Dacusによる穏やかな告白ソング。
何年経っても変わらない“本当のあなた”を愛するという、深い受容の詩。
最も“家族的”で、安らぎに満ちた一曲。
5. Cool About It
3人が順番にパートを担当するフォークソング。
Nick DrakeやSimon & Garfunkelのような静謐なサウンドに、互いの視点から語られる恋愛の後悔と矛盾。
三者三様の語りがひとつの物語になる。
6. Not Strong Enough
アルバムのハイライトともいえるアンセム的ナンバー。
「私は強くない」と繰り返すサビが、個人の脆さと集団の力強さを同時に浮かび上がらせる。
サウンドはThe Cureを思わせるオルタナティブポップ的な高揚感。
7. Revolution 0
Phoebeによる内省的なピアノ・バラード。
デジタル時代の孤独と“名前のない不安”を、夢のような音像で描く。
非常に詩的で、孤立と愛が交錯する空間が広がる。
8. Leonard Cohen
Lucyが歌う、ユーモアと愛情に満ちた語り口のフォークソング。
実在の詩人レナード・コーエンへのリスペクトと、軽やかな知性が融合。
静かな曲調だが、言葉が跳ねるように生きている。
9. Satanist
Julien Bakerがリードする、パンク/グランジ的な爆発力を持つ楽曲。
信念、宗教、恋愛、すべてが揺らぐ現代の信条不在をテーマに、叫ぶように疾走する。
3人の中で最も攻撃的な一面を見せるトラック。
10. We’re in Love
Lucyが静かに語りかけるラブレターのようなバラード。
愛しているという言葉をあえて過剰に繰り返すことで、“本物の感情”を浮かび上がらせる。
繊細すぎて触れたくなるような曲。
11. Anti-Curse
Julienの泳ぎのエピソードをもとにした、死生観を含むロック・ナンバー。
“呪い”から解放される瞬間のリアルな比喩が心を打つ。
ギターサウンドの開放感と詩的表現の融合が美しい。
12. Letter To An Old Poet
Phoebeが歌う、かつての「Me & My Dog」に呼応する楽曲。
傷ついた過去と、それを乗り越えようとする現在が交錯する、心をえぐるラストソング。
「I wanna be happy」という一言が、これまでの痛みを全て包み込むように響く。
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総評
『the record』は、boygeniusという存在の核が“友情”であることを、圧倒的な完成度で証明した作品である。
このアルバムには、バンドの“中心人物”がいない。
その代わりにあるのは、誰かが話すとき、他の誰かが静かに聴いている空気。
語り、重ね、委ね合い、補い合いながら、12の曲はまるでひとつの家の部屋のように並んでいる。
サウンドはフォークからグランジ、ドリームポップまで幅広いが、それぞれの曲に個性と呼応が共存しており、まるで“3人でひとつの声”を構築しているようだ。
彼女たちは声高に主張しない。
ただ静かに、“ここにいる”ということを音楽にする。
それが、こんなにも力強く、優しく、必要なことだと気づかせてくれる。
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おすすめアルバム(5枚)
- Big Thief『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』
多面的な音楽と集団的創作の理想を体現する作品。 - Phoebe Bridgers『Punisher』
個人の内面を深く掘り下げる叙情性の極致。 - Lucy Dacus『Historian』
記憶と死を描きながらも、圧倒的に生の肯定を含む名盤。 - Julien Baker『Little Oblivions』
セルフデストラクションと信仰、そのあわいを大胆に描いたロックアルバム。 - Haim『Women in Music Pt. III』
女性の声による現代の痛みと自信をポップに昇華した傑作。
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7. 歌詞の深読みと文化的背景
『the record』のリリックには、“クィアであること”“脆さを見せること”“孤独を言語化すること”に対する深い誠実さがある。
たとえば「Emily I’m Sorry」や「Letter To An Old Poet」では、自分の過ちや弱さを認め、なお愛し続ける視点が描かれており、それは“赦し”という最も難しい行為を音楽にしたようでもある。
また、「Not Strong Enough」は一見すると自己否定の歌に見えるが、実は「弱くてもいい」と受け入れるための詩的プロセスになっている。
それは、従来のロックが求めた“強さ”とはまったく異なる、“脆さの強度”を体現しているのだ。
boygeniusは、声を重ねることを政治的主張ではなく、“愛のかたち”として提示している。
その歌は、私たちにこう語りかける——「あなたが強くなくても、私たちはあなたのそばにいる」と。
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