
発売日:2021年2月26日
ジャンル:インディー・ロック、エモ、シンガーソングライター、オルタナティヴ・ロック、インディー・フォーク
概要
Julien Bakerの『Little Oblivions』は、2021年にMatador Recordsから発表された通算3作目のスタジオ・アルバムであり、彼女のキャリアにおける大きな音楽的転換点となった作品である。テネシー州メンフィス出身のシンガーソングライターであるJulien Bakerは、2015年のデビュー作『Sprained Ankle』で、ほぼギターと声だけによる極度に削ぎ落とされた表現によって注目を集めた。2017年の『Turn Out the Lights』ではピアノやストリングス、より立体的なアレンジを取り入れながらも、基本的には孤独な声を中心に据えた内省的な作風を保っていた。それに対して『Little Oblivions』では、ギター、ベース、ドラム、シンセサイザー、鍵盤を含むフル・バンド的な音像が導入され、Baker自身が多くの楽器を演奏することで、より厚みのあるインディー・ロック・アルバムへと変化している。
この変化は単なるサウンドの拡張ではない。『Little Oblivions』において重要なのは、音が大きくなったことで、歌詞に込められた自己破壊、依存、信仰、罪悪感、回復への不確かさが、より身体的な重みを持つようになった点である。これまでの作品では、静寂の中で言葉が剥き出しになる緊張感が特徴だったが、本作では感情がバンド・サウンドの中で増幅され、時に押し流されるように響く。ドラムの重さ、ギターの歪み、シンセの持続音、複数の楽器が重なる音像は、Bakerの歌詞にある混乱や再発、祈りの届かなさを、より立体的に表現している。
キャリア上の位置づけとして、『Little Oblivions』は、Julien Bakerが「孤独な弾き語りのアーティスト」というイメージから離れ、より大きなロック・サウンドの中で自らのテーマを再構築した作品である。同時に、Lucy Dacus、Phoebe Bridgersとのプロジェクトboygeniusを経た後の作品としても重要である。boygeniusでの経験は、ハーモニー、バンド・アレンジ、共同体的なインディー・ロックの感覚をBakerの音楽に接続したが、『Little Oblivions』ではそれが彼女自身の暗く切実なソングライティングに吸収されている。結果として本作は、個人的な告白性を保ちながらも、より開かれたロック・アルバムとして成立している。
本作のタイトル『Little Oblivions』は、「小さな忘却」「小さな無意識」「小さな消失」といった意味を持つ。ここでの“oblivion”は、完全な破滅や大きな死ではなく、日常の中で何度も起こる自己喪失、依存による一時的な逃避、記憶の欠落、感情を鈍らせるための小さな消滅を示している。Julien Bakerの歌詞では、アルコールや薬物への依存、宗教的な罪悪感、自分を傷つける衝動、他者を失望させることへの恐れが繰り返し登場する。本作ではそれらが、単なる暗い告白ではなく、「なぜ同じ過ちを繰り返すのか」「救いを望みながら、なぜ自分で救いから離れてしまうのか」という厳しい自己検証として描かれる。
音楽的背景としては、エモ、ポスト・ハードコア以降のインディー・ロック、スロウコア、フォーク、クリスチャン・イメージを含むアメリカ南部の宗教的感覚が重要である。Bakerの楽曲には、明確な宗教的信仰をめぐる言葉が多く登場するが、それは単純な救済の物語ではない。むしろ、信仰は慰めであると同時に、罪悪感や自己否定を強化するものとしても機能する。『Little Oblivions』では、祈りはしばしば返答を得ず、赦しは望まれるが確信されない。その緊張関係が、本作の歌詞と音楽に深い奥行きを与えている。
日本のリスナーにとって本作は、いわゆる女性シンガーソングライター作品として聴くよりも、2010年代以降のインディー・ロックが、エモ的な内面表現、宗教的葛藤、依存症からの回復、クィアな自己認識をどのように扱ってきたかを知るうえで重要なアルバムである。Phoebe BridgersやLucy Dacus、Mitski、The National、Manchester Orchestra、Death Cab for Cutieなどに通じる、内省とロック・サウンドの結合を好むリスナーには特に理解しやすい作品といえる。
全曲レビュー
1. Hardline
オープニング曲「Hardline」は、『Little Oblivions』の変化を最も明確に示す楽曲である。冒頭から重く広がるシンセとドラムが登場し、過去作の静かなギター弾き語りとは異なる、濃密なバンド・サウンドが提示される。タイトルの“Hardline”は、厳格な境界線、強硬な態度、あるいは越えてはならない線を意味する。曲全体には、自分の中にある破壊的なパターンを認識しながら、それを止められない苦しさが漂う。
歌詞では、自己破壊や再発への恐れが、宗教的なイメージと結びついている。Julien Bakerの作品では、祈りや赦しを求める言葉がしばしば登場するが、「Hardline」ではその祈りが確かな救いに到達しない。むしろ、救いを信じたい自分と、同じ過ちを繰り返す自分との分裂が強調される。ここで描かれるのは、単純な絶望ではなく、過ちを理解しているからこそ苦しい状態である。
音楽的には、ドラムの存在感が非常に重要である。Bakerの歌はこれまで静けさの中で響くことが多かったが、この曲では打楽器の重さが感情の圧力を増幅する。ギターやシンセの層も厚く、声は孤独に浮かぶのではなく、音の波に包まれながら必死に前へ進もうとする。アルバムの始まりとして、「Hardline」は本作がより大きく、より重く、より混乱を抱えた作品であることを宣言している。
2. Heatwave
「Heatwave」は、タイトルが示す通り、熱波のような圧迫感と息苦しさを持つ楽曲である。熱は本来、生命力や夏のイメージを伴うが、この曲においてはむしろ逃げ場のない環境、乾いた疲労、身体と精神をじわじわと消耗させる状況として機能する。Bakerの歌詞において、自然現象はしばしば内面の状態を映し出す比喩となるが、この曲でも外界の暑さは、心の中の緊張や停滞と重なっている。
サウンドは比較的明るいギターの響きを持ちながら、歌詞の内容は重い。Bakerは、自己破壊の衝動や、何かに巻き込まれていく感覚を、過度に劇的な言葉ではなく、生活の中に忍び込む不穏さとして描く。熱波は突然の爆発ではなく、逃げても逃げても周囲を包み込むものとして存在する。そのため、この曲には一見軽やかに聴こえる部分がありながら、根底には消耗感が流れている。
音楽的には、インディー・ロックとしての推進力が強く、メロディも比較的開かれている。しかし、完全な解放感には至らない。ギターやドラムは前へ進むが、歌詞は同じ場所を回り続けるような苦しさを抱えている。このズレが「Heatwave」の重要な魅力である。Bakerは本作で、暗い感情を常に静かな曲調で表すのではなく、明るく動きのあるアレンジの中に不安を埋め込む方法を選んでいる。
3. Faith Healer
「Faith Healer」は、本作の中心的な楽曲のひとつであり、Julien Bakerの宗教的イメージ、依存、救済への欲望が最も明確に交差する曲である。タイトルの“Faith Healer”は、信仰によって病を癒やす人物を指す。しかし曲の中で描かれる癒やしは、純粋な救済ではなく、依存や現実逃避と危うく重なる。Bakerは、救いを求める人間の切実さと、その欲望が偽りの癒やしへ向かう危険性を同時に描いている。
歌詞には、痛みを消したい、意識を変えたい、何かに身を委ねたいという感覚がある。これは薬物やアルコールへの依存を想起させると同時に、宗教的な陶酔とも結びつく。重要なのは、Bakerが信仰を単純に否定しているわけではない点である。彼女の歌において信仰は、救いへの本物の欲望でもあり、同時に自分を欺く手段にもなりうる。「Faith Healer」では、その両義性が非常に鋭く表現される。
サウンド面では、シンセとドラムが作る厚い音像が印象的で、これまでのBakerの作品よりも明らかに大きなスケールを持つ。メロディは強く、コーラスは広がりを持つが、その広がりは幸福な開放ではなく、危険な陶酔に近い。癒やしを求める声が、音の中でどんどん大きくなり、やがて自分自身を飲み込むような感覚がある。「Faith Healer」は、『Little Oblivions』における依存と救済のテーマを象徴する重要曲である。
4. Relative Fiction
「Relative Fiction」は、タイトルが示す通り、現実と虚構、自己認識と物語化の関係を扱う楽曲として聴くことができる。“Relative”には相対的な、あるいは親族という意味があり、“Fiction”は作り話を意味する。つまりこのタイトルには、自分の人生をどのような物語として語るのか、その物語はどこまで真実なのかという問いが含まれている。
Julien Bakerの歌詞では、自分自身を厳しく見つめる視線が常に存在する。しかし、その自己分析は必ずしも安定した真実へ到達しない。自分が被害者なのか、加害者なのか、回復へ向かっているのか、ただ同じパターンを別の言葉で語り直しているだけなのか。その判断が揺らぐ。「Relative Fiction」では、自己を説明する言葉そのものへの不信が感じられる。
音楽的には、ギターを中心としたインディー・ロックの質感が強く、曲は比較的コンパクトにまとまっている。しかし、その中でメロディは緊張を保ち、Bakerのヴォーカルは言葉を一つひとつ噛みしめるように進む。曲の持つ切迫感は、外部に向けた怒りというより、自分の中の矛盾を見逃せないことから生まれている。自分について語ることが、同時に自分を歪めることでもあるという感覚が、この曲の核心である。
5. Crying Wolf
「Crying Wolf」は、タイトルから「狼が来た」と叫ぶ寓話を連想させる楽曲である。何度も危機を訴えた結果、周囲から信じてもらえなくなるという物語は、依存や再発、精神的な危機をめぐる本作のテーマと強く結びつく。自分は本当に助けを求めているのか、それともまた同じことを繰り返しているだけなのか。周囲はまだ信じてくれるのか。そうした不安が曲の根底にある。
歌詞では、自己申告の信頼性が問題になる。痛みを訴える声は本物だが、その声が何度も繰り返されることで、自分自身ですらそれを疑い始める。Bakerの作品では、自己嫌悪は単に「自分が嫌い」という感情にとどまらず、自分の言葉を信じられなくなるところまで進む。「Crying Wolf」は、その苦しさを非常に明確に示している。
音楽的には、やや抑制されたアレンジから始まり、徐々に感情が積み上がっていく。Bakerのヴォーカルは、過度に叫ぶのではなく、言葉の内側に緊張を保つ。曲全体には、助けを求めたいが、助けを求める資格があるのか分からないという複雑な心理がある。これは依存症やメンタルヘルスの文脈において非常に重要なテーマであり、Bakerはそれを説教的ではなく、個人的な歌として提示している。
6. Bloodshot
「Bloodshot」は、目の充血を意味するタイトルを持つ楽曲であり、身体的な疲労、睡眠不足、飲酒、泣き疲れ、長い夜を連想させる。『Little Oblivions』では、精神的な痛みがしばしば身体の状態として表現されるが、この曲もその一例である。充血した目は、何かを見すぎたこと、泣きすぎたこと、眠れなかったこと、あるいは自分の行動の結果が身体に表れていることを示す。
サウンドは比較的軽快で、メロディにもポップな要素がある。しかし、その明るさは歌詞の疲労感と対照的である。Bakerはここでも、暗い内容を暗い音だけで表現するのではなく、動きのあるインディー・ロックの中に不安を配置している。ドラムは前進感を作るが、歌詞はどこか壊れた循環の中にいる。前へ進んでいるように聴こえながら、実際には同じ場所へ戻ってしまう感覚がある。
歌詞のテーマとしては、後悔と自己検証が中心にある。夜の終わりに残る身体の痕跡、過去の行動の記憶、誰かに見られることへの恐れが重なる。Bakerの歌では、罪悪感は抽象的な倫理の問題ではなく、朝になっても消えない身体感覚として現れる。「Bloodshot」は、その身体性を通じて、本作の依存と疲労のテーマを深める楽曲である。
7. Ringside
「Ringside」は、ボクシングや格闘技のリングサイドを連想させるタイトルを持ち、自分自身を傷つける行為を、観客のいる闘技場のような場面として描く楽曲である。リングサイドにいるということは、戦いのすぐそばにいることを意味する。ここでは、戦っているのは他者ではなく、自分自身である。Bakerは、自分の自己破壊を目撃する他者の存在、そしてその前で繰り返し倒れていく自分を描いている。
歌詞には、自分を殴る、痛めつける、同じことを繰り返すというイメージがある。それは比喩であると同時に、依存や自己嫌悪の反復を非常に具体的に表すものでもある。重要なのは、Bakerが自分を単純に被害者として描かない点である。彼女は、自分が自分自身に対して加害者でもあることを認識している。その厳しい自己認識が、この曲の痛みを生んでいる。
音楽的には、静かな部分と力強い部分の対比があり、感情が段階的に高まっていく。Bakerのヴォーカルは、弱さと強さの両方を含む。誰かに止めてほしいという願いと、自分では止められないという絶望が同時に存在する。「Ringside」は、『Little Oblivions』の中でも自己破壊の主題を最も鮮明に描いた楽曲であり、アルバムの感情的な中心のひとつである。
8. Favor
「Favor」は、boygeniusのメンバーであるPhoebe BridgersとLucy Dacusがバッキング・ヴォーカルで参加している楽曲であり、本作の中でも共同体的な響きが強い一曲である。タイトルは「好意」「頼み」「恩恵」を意味し、関係性の中で与えること、受け取ること、借りを作ることへの不安が含まれている。Bakerの歌詞において、人から助けられることは単純な安心ではなく、しばしば罪悪感や負債感と結びつく。
歌詞では、自分が他者に迷惑をかけているのではないか、助けを受ける資格があるのか、赦されるべきなのかという問いが浮かぶ。これは「Crying Wolf」とも関連するテーマである。周囲の優しさを求めながら、その優しさを信じきれない。誰かが手を差し伸べてくれても、自分はそれを壊してしまうのではないかと恐れる。Bakerはこうした関係性の不安を、非常に繊細に描いている。
音楽的には、メロディが美しく、コーラスの重なりが温かい。Phoebe BridgersとLucy Dacusの声は、Bakerの孤独な声に対して、かすかな支えのように機能する。ただし、その支えは曲を完全な救済へ導くわけではない。むしろ、他者の声があるからこそ、自分の孤独や罪悪感がよりはっきり見える。「Favor」は、友情や助けの可能性を示しながら、それを受け取ることの難しさも描いた楽曲である。
9. Song in E
「Song in E」は、タイトル通り非常に簡素で、形式的な名前を持つ楽曲である。アルバムの中でも特に静かで、ピアノを中心としたバラードとして配置されている。これまでの曲でバンド・サウンドが大きく展開されてきた後、この曲では音が削ぎ落とされ、Bakerの声と言葉が再び剥き出しになる。
歌詞は、自分が他者を傷つけたこと、謝罪しても十分ではないこと、赦しを求めることすら自己中心的なのではないかという葛藤を扱っている。Julien Bakerの作品では、自分の苦しみだけでなく、自分が周囲に与える痛みも重要なテーマである。「Song in E」では、その罪悪感が非常に直接的に表現される。ここでの祈りや告白は、清められるためのものではなく、むしろ赦されない可能性を引き受けるためのものに近い。
音楽的には、ピアノの余白が大きく、声の震えや息遣いが際立つ。フル・バンド化した本作の中で、この曲は過去のBakerのミニマルな表現に近いが、意味合いは変わっている。アルバム全体の音の厚みを経た後に置かれることで、静けさがより重く響く。「Song in E」は、本作における最も裸の告白であり、派手な展開を避けることで、罪悪感の深さを際立たせている。
10. Repeat
「Repeat」は、タイトルが示す通り、反復をテーマにした楽曲である。『Little Oblivions』全体において、依存や自己破壊は一度きりの失敗ではなく、何度も繰り返されるパターンとして描かれる。この曲は、その循環構造を直接的に扱っている。やめたいと思いながら、同じ場所へ戻る。変わりたいと願いながら、以前と同じ行動を選んでしまう。その苦しさが曲の中心にある。
サウンドは、シンセやギターの層が穏やかに広がり、どこか浮遊感を持つ。しかし、その浮遊感は軽やかさではなく、現実から少し離れたような不安定さである。反復する音型は、タイトルの意味と結びつき、抜け出せない循環を音楽的に表現している。Bakerのヴォーカルは切迫しているが、完全に爆発するのではなく、同じ思考を何度も辿るように進む。
歌詞の面では、自分の問題を理解していることと、それでも行動を変えられないことの間にある絶望が描かれる。これは依存症のテーマに直結するが、より広く、人間が自分の弱さを知りながら同じ過ちを繰り返す構造としても読める。「Repeat」は、本作のタイトル『Little Oblivions』に含まれる小さな忘却の反復を、音楽的にも言葉の上でも表現した楽曲である。
11. Highlight Reel
「Highlight Reel」は、タイトルが映像編集やスポーツの名場面集を連想させる楽曲である。人生や関係性を、都合のよい場面だけを切り取った映像として提示することへの違和感が、この曲の背景にある。現代的な自己演出、SNS的な断片化、他者に見せる自分と実際の自分との乖離を想起させるタイトルでもある。
Julien Bakerの歌詞において、自分の物語をどう編集するかという問題は重要である。人は自分の失敗や醜さを隠し、意味のある成長物語として提示しようとする。しかし、『Little Oblivions』はそのような綺麗な回復の物語に対して懐疑的である。「Highlight Reel」では、人生の美しい場面だけを並べても、その外側にある痛みや反復は消えないという感覚がある。
音楽的には、比較的穏やかなトーンを持ちながらも、内側に緊張がある。メロディは流れるように進むが、歌詞には自己演出への不信が刻まれている。Bakerはここで、苦しみを美しい物語に変えることの危うさを示している。これはシンガーソングライターとしての自己批評にもつながる。痛みを歌にすることは救いになりうるが、同時に痛みを消費可能な形へ加工することでもある。「Highlight Reel」は、その複雑な問題を静かに提示する楽曲である。
12. Ziptie
アルバムを締めくくる「Ziptie」は、本作の終曲として非常に重要な位置にある。タイトルの“Ziptie”は、物を結束するプラスチック製の結束バンドを指す。結ぶ、縛る、固定する、拘束するというイメージを持ち、曲全体にも、自分を縛るもの、逃れられない構造、信仰や罪悪感によって固定された状態が漂う。
歌詞では、神、赦し、苦しみ、世界の不条理が交差する。Julien Bakerの宗教的な歌詞は、単純に信じることの安らぎを歌うものではない。むしろ、神がいるならなぜ苦しみがあるのか、赦しは本当に届くのか、自分は救われる価値があるのかという問いを含む。「Ziptie」では、それらの問いが明確な答えに到達しないまま、アルバムの最後に置かれる。
音楽的には、ゆっくりと広がる構成を持ち、終盤に向けて音が大きくなっていく。これは救済への上昇のようにも聴こえるが、完全な解放には至らない。むしろ、問いが残されたまま音が消えていく感覚がある。Bakerは最後に、問題が解決されたという結論を与えない。依存、罪悪感、祈り、自己破壊、他者との関係は、すべて未解決のまま残る。しかし、その未解決の状態を隠さずに歌うことが、本作における誠実さである。
「Ziptie」は、『Little Oblivions』が回復の成功物語ではなく、回復を望みながらも何度も揺り戻される人間の記録であることを示す終曲である。縛られていることを認識しながら、その縛りを完全には解けない。その痛みと祈りが、アルバムの最後に深い余韻を残す。
総評
『Little Oblivions』は、Julien Bakerのディスコグラフィにおいて、音楽的にも主題的にも大きな転換点となるアルバムである。デビュー作『Sprained Ankle』の静謐な弾き語り、前作『Turn Out the Lights』の室内楽的な広がりを経て、本作ではフル・バンド的な音像が導入され、彼女の楽曲はより厚く、より重く、より身体的なものになった。だが、その変化は単なるスケールアップではない。音が大きくなったことで、Bakerがこれまで歌ってきた依存、罪悪感、信仰、自己破壊、回復への不確かさが、より複雑で立体的に響くようになっている。
本作の中心テーマは、回復の困難さである。一般的な物語では、苦しみを認識し、助けを求め、そこから少しずつ良くなっていく過程が期待される。しかし『Little Oblivions』は、そのような直線的な回復物語に対して非常に懐疑的である。「Crying Wolf」「Repeat」「Ringside」などで描かれるのは、理解していても繰り返してしまうこと、助けを求めながらその助けを受け取れないこと、変わりたいという願いがすぐに変化へ結びつかないことである。Bakerは、自分の苦しみを美化せず、同時に簡単に克服された物語にも変換しない。その態度が、本作の誠実さを支えている。
宗教的なイメージも、本作の重要な柱である。「Faith Healer」「Ziptie」「Hardline」などでは、信仰、祈り、赦し、罪が繰り返し現れる。しかし、これらは明快な救済の言葉として機能しない。Bakerにとって信仰は、痛みを和らげる可能性であると同時に、自分を裁く視線でもある。赦されたいが、赦されることを信じきれない。祈りたいが、その祈りが本物なのか疑ってしまう。こうした緊張関係が、本作に単なる自己告白を超えた精神的な深みを与えている。
音楽的には、エモやインディー・ロックの文脈が強く表れている。ドラムの導入により、曲の感情はより明確な起伏を持ち、ギターやシンセの厚みが歌詞の重さを支える。特に「Hardline」「Faith Healer」「Ringside」では、バンド・サウンドがBakerの内面の混乱を外側へ押し出すように機能している。一方で「Song in E」のような静かな楽曲では、これまでのBakerのミニマルな表現が残されている。大きな音と静かな告白が共存することで、アルバム全体に緩急が生まれている。
歌詞面では、Julien Bakerの自己分析の鋭さが際立つ。彼女は自分を傷つけた者としてだけでなく、他者を傷つける者としても描く。これは非常に重要である。多くの内省的な音楽が、自分の痛みを中心に展開するのに対し、Bakerは自分の痛みが周囲に与える影響、自分が助けを求めることによって生じる負担、赦しを求めることの自己中心性まで視野に入れる。そのため、本作の歌詞は単なる悲しみの表現ではなく、倫理的な問いを含んでいる。
『Little Oblivions』というタイトルが示すように、本作は大きな破滅だけを描くアルバムではない。むしろ、日常の中で何度も起こる小さな消失、短い逃避、記憶の欠落、感情の麻痺、祈りの空振りが積み重なる様子を描いている。人は一度で壊れるのではなく、小さく自分を失い続けることがある。Bakerはその過程を、過度なドラマではなく、具体的な言葉と重い音像によって表現している。
日本のリスナーにとって本作は、Julien Bakerというアーティストの深化を知るうえで欠かせない作品である。『Sprained Ankle』の静かな痛みを好むリスナーには、本作の音の厚みに最初は驚きがあるかもしれない。しかし、その中心にあるのは一貫してBakerの声と言葉である。むしろ、フル・バンド化によって、彼女のテーマはより広い表現力を獲得している。Phoebe BridgersやLucy Dacus、Mitski、Big Thief、The Nationalなど、現代インディーにおける内省的なロックを聴くうえでも、本作は重要な位置にある。
『Little Oblivions』は、回復を約束するアルバムではない。最後まで聴いても、問題は完全には解決されない。だが、その未解決性こそが本作の核心である。人間は、痛みを理解してもなお繰り返し、祈ってもなお疑い、助けを求めてもなお孤独を感じることがある。Julien Bakerはその現実を隠さず、音楽として成立させた。『Little Oblivions』は、静かな告白から大きなロック・サウンドへと表現を拡張しながら、依存、信仰、罪悪感、回復の不確かさを鋭く描いた、2020年代インディー・ロックの重要作である。
おすすめアルバム
1. Julien Baker – Sprained Ankle
Julien Bakerのデビュー作であり、ギターと声を中心にした極めてミニマルな作品。『Little Oblivions』のフル・バンド的な広がりとは対照的だが、自己破壊、信仰、孤独、痛みというテーマの原点を確認できる。Bakerの歌詞の鋭さと声の切実さが、最も裸に近い形で記録されている。
2. Julien Baker – Turn Out the Lights
『Little Oblivions』の前作にあたり、ピアノやストリングスを取り入れながら、静謐な内省をさらに深めた作品。『Sprained Ankle』よりも音像は豊かだが、本作ほどロック的ではない。Julien Bakerがミニマルな表現からより立体的なアレンジへ移行していく過程を理解するうえで重要である。
3. boygenius – boygenius
Julien Baker、Phoebe Bridgers、Lucy DacusによるコラボレーションEP。三者の声が重なり合うことで、Bakerの孤独な歌とは異なる共同体的な響きが生まれている。『Little Oblivions』の「Favor」に通じるハーモニーや、現代インディー・ロックにおける女性シンガーソングライターたちの連帯を理解する上で関連性が高い。
4. Phoebe Bridgers – Punisher
Julien Bakerと同時代のインディー・シンガーソングライター作品として重要なアルバム。死、孤独、自己演出、不安を、繊細なアレンジとメロディによって描く。Bakerよりもドリーム・ポップ的で映像的な質感が強いが、内省的な歌詞と現代的なインディー・ロックの結びつきという点で深く関連する。
5. Manchester Orchestra – A Black Mile to the Surface
宗教的イメージ、罪悪感、家族、救済への問いを、壮大なオルタナティヴ・ロック・サウンドで描いた作品。Julien Bakerの『Little Oblivions』にある信仰とロック・サウンドの結合、静けさから大きな音像へ展開する構成を理解する上で相性がよい。エモ以降のアメリカン・ロックが持つ精神的な重さを共有するアルバムである。

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