1. 歌詞の概要
「Expert in a Dying Field」は、ニュージーランドのインディーロック・バンド The Beths(ザ・ベス)が2022年にリリースしたサードアルバム『Expert in a Dying Field』の表題曲にして、感情の余韻と知的なメタファーを巧みに織り交ぜた、彼らのキャリアを象徴するような一曲である。
この曲が描いているのは、関係の終わり――特に「別れたあとも、相手のすべてを知っている」という“感情の知識”に縛られてしまう心理だ。タイトルの“Expert in a Dying Field(死にゆく分野の専門家)”というフレーズは、かつて愛した人について熟知している自分を、もはや役に立たない専門性に例えている。このアイデアは、知性と感情の交差点にあり、切実さと皮肉が絶妙なバランスで表現されている。
つまりこの楽曲は、知っていることが救いになるどころか、むしろ“忘れられない呪い”になることを静かに、そして力強く歌い上げている。失われた関係の中にまだ残る“記憶の詳細”が、心の片隅で何度も再生される。その痛みと気高さが、ギターポップの軽やかさの中に深く刻まれているのだ。
2. 歌詞のバックグラウンド
Elizabeth Stokesは、The Bethsの中心人物として、一貫して“過剰な思考”と“感情の観察”をテーマに歌詞を書き続けてきた。この「Expert in a Dying Field」もまたその延長線上にありながら、彼女の作詞家としての成熟を強く感じさせる作品である。
彼女自身が語るように、この曲は「別れたあとにもなお、相手のことを知りすぎている自分の存在をどう処理すればいいのか」という問いに向き合ったものである。そしてその問いは、過去の恋愛に限らず、友情や家族、人生のあらゆる“終わってしまった関係”にも共通する。
音楽的には、The Beths特有の軽快で力強いパワーポップに加えて、より洗練されたメロディラインと、エモーショナルなダイナミズムが特徴的である。サビにかけての盛り上がり、バンド全体での厚みのあるアンサンブルは、歌詞のテーマと美しく呼応している。
3. 歌詞の抜粋と和訳
Love is learned over time
愛は、時間をかけて学ぶもの’Til you’re an expert in a dying field
そうして気づけば、死にゆく分野の専門家になっていたAnd you can’t remember
でももう、思い出したくないのにWhy you loved him
なぜ彼を愛していたのかさえ、わからなくなるAll the ways you knew him
あの人のすべてを覚えているのにYou can’t forget
忘れることができない
歌詞引用元:Genius Lyrics – Expert in a Dying Field
4. 歌詞の考察
この曲の中心には、“知識と感情の不一致”という鋭いテーマがある。知っていることは、かつての親密さの証であるはずだが、その関係が終わった今となっては、それはただの“役に立たない記憶”になってしまった。それを、Elizabethは皮肉と詩情を込めて“専門性”と表現する。
「忘れたいけど、忘れられない」という感情は、誰しもが経験するものだが、この曲ではそれを知的かつ俯瞰的な視点で描いているのが印象的だ。主人公は決して感情に溺れてはいない。むしろ、静かにその記憶の重みを観察している。そしてその冷静さが、かえって深い痛みを生む。
また、「なぜ好きだったのかを思い出せないけれど、すべてを覚えている」という逆説的な表現は、記憶と感情の不可解な関係を絶妙に突いており、聴く者の中にも“忘れられない誰か”の姿を想起させる。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Funeral by Phoebe Bridgers
愛した人を“記憶の中”で見送るような喪失感と静けさが共鳴する、感情のエレジー。 - I Know the End by Phoebe Bridgers
愛と関係の終焉を、“終わりの音楽”として壮大に描いたクライマックスソング。 - Scott Street by Phoebe Bridgers
再会した旧友との距離感から、“かつての親密さ”のかすかな記憶を浮き彫りにする。 - Your Best American Girl by Mitski
愛した人の文化圏に溶け込めない自己認識と、切なさの爆発を描いたロックバラード。
6. “愛を知ってしまった者の、その後の歌”
「Expert in a Dying Field」は、別れたあとにこそ残ってしまう“知識”に対してどう向き合うかという、極めて文学的な主題を掲げたロックソングである。それは、「忘れることができないからこそ、人は前に進めないのかもしれない」という実存的な問いであり、同時に「それでも前に進もうとする意思」をそっと肯定してくれる作品でもある。
この曲は、The Bethsにとっても転機となる一曲であり、ポップパンクの軽快さと内省の深さが完璧に融合した、バンドの成熟を感じさせる代表作である。Elizabeth Stokesのボーカルは、感情に流されることなく、一語一語を噛みしめるように歌い、その静かな説得力が心を打つ。
「終わった関係の中に今なお残る記憶」が、どれだけ無意味に見えても、それを知ってしまった自分にしか見えない世界がある。そう伝えてくれるこの曲は、誰かを愛したことがあるすべての人にとって、自分自身と向き合うための静かなアンセムとなるだろう。
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