
発売日:1972年11月
ジャンル:ジャズロック、ポップロック、ソフトロック、ブルー・アイド・ソウル、ラテンロック、フォークロック
- 概要
- 全曲レビュー
- 1. Do It Again
- 2. Dirty Work
- 3. Kings
- 4. Midnite Cruiser
- 5. Only a Fool Would Say That
- 6. Reelin’ in the Years
- 7. Fire in the Hole
- 8. Brooklyn (Owes the Charmer Under Me)
- 9. Change of the Guard
- 10. Turn That Heartbeat Over Again
- 総評
- おすすめアルバム
- 1. Steely Dan – Countdown to Ecstasy(1973)
- 2. Steely Dan – Pretzel Logic(1974)
- 3. Steely Dan – Katy Lied(1975)
- 4. Steely Dan – Aja(1977)
- 5. Donald Fagen – The Nightfly(1982)
- 関連レビュー
概要
Steely Danの『Can’t Buy a Thrill』は、1972年に発表されたデビュー・アルバムであり、Donald FagenとWalter Beckerという稀代のソングライティング・チームが、ロック、ジャズ、ポップ、ラテン、ソウル、フォークを高度に混ぜ合わせる独自の美学を最初に提示した作品である。後の『Pretzel Logic』『The Royal Scam』『Aja』『Gaucho』で知られる極度に洗練されたスタジオ志向、複雑なコード進行、皮肉に満ちた歌詞世界は、本作ではまだ完全な形には達していない。しかし、その萌芽はすでにはっきりと刻まれている。
Steely Danは、Donald FagenとWalter Beckerを中心に形成されたバンドである。一般的なロック・バンドが、ライブ演奏やメンバー間の一体感を核にするのに対し、Steely Danは初期から作曲、編曲、スタジオでの完成度を重視するプロジェクト的な性格を持っていた。本作の時点ではまだバンド編成の雰囲気が強く、後年のように一流セッション・ミュージシャンを細かく起用して完璧な音を作る段階には至っていない。それでも、『Can’t Buy a Thrill』には、1970年代初頭のアメリカン・ロックの開放感と、Fagen/Beckerの知的でねじれた感性が同居している。
本作の最大の特徴は、非常に聴きやすいポップ・ロックでありながら、その内部に複雑な和声感覚、冷ややかな視線、物語的な歌詞を隠している点である。「Do It Again」や「Reelin’ in the Years」は大ヒット曲として知られ、メロディやグルーヴの親しみやすさが際立つ。しかし、歌詞を追うと、そこには単純な青春、恋愛、自由の賛歌はない。繰り返される失敗、過去への未練、破綻した関係、偽りの成功、逃避、欲望の循環が描かれている。Steely Danの音楽は、表面は滑らかで快適だが、内側には苦味がある。
アルバム・タイトルの『Can’t Buy a Thrill』は、「スリルは買えない」という意味を持つ。これは本作全体の感覚をよく表している。金、成功、快楽、恋愛、逃避、ギャンブル、旅。人は何か刺激的なものを求めるが、それは簡単には手に入らない。あるいは、手に入れたと思った瞬間に空虚になる。FagenとBeckerは、アメリカ的な夢や自由のイメージをそのまま信じるのではなく、少し斜めから眺める。彼らの歌には、きらびやかな西海岸の空気と、それを信じ切れない冷笑が同時に存在している。
音楽的には、本作はSteely Danの中でも比較的ロック色が強い。ギター・ソロが前面に出る曲も多く、バンド演奏としての勢いがある。Jeff “Skunk” BaxterやDenny Diasのギターは、後年の洗練されたスタジオ・サウンドとは異なる生々しさを持ち、ロック、ブルース、カントリー、ジャズの感覚を自然に行き来する。Donald Fagenのキーボードとヴォーカルは、すでにSteely Danらしい都会的な乾きと皮肉を感じさせるが、本作ではDavid Palmerがリード・ヴォーカルを取る曲もあり、後年よりもバンドとしての多声的な性格が強い。
特に注目すべきは、ジャズ的なコード感覚である。Steely Danの後期作品ほど複雑ではないにしても、本作の曲には通常のロックよりもはるかに洗練された和声が使われている。メジャーとマイナーの間を揺れるコード、意外な転調、ジャズ由来のテンション、滑らかなキーボード・ヴォイシングが、曲に独特の都会的な陰影を与えている。この点は、後のAOR、シティポップ、フュージョン、都会派ポップスへもつながる重要な要素である。日本のリスナーにとっても、山下達郎、角松敏生、松任谷由実周辺の洗練されたポップスに親しんでいる場合、本作のコード感や質感は非常に理解しやすい。
歌詞の面では、FagenとBeckerの特徴である「信頼できない語り手」がすでに登場している。Steely Danの歌詞では、語り手は必ずしも正直でも善良でもない。彼らは過去を美化し、失敗を繰り返し、相手を見下し、自分自身も欺いている。「Do It Again」の主人公は、同じ過ちを何度も繰り返す。「Reelin’ in the Years」では、過去を振り返る語り手の言葉に皮肉と苦さが混ざる。「Dirty Work」では、不誠実な関係の中にいる人物の弱さが描かれる。Steely Danは、ロックの主人公を英雄として描かず、むしろ少し滑稽で、ずるく、傷つき、逃げ続ける人物として描く。
本作は、Steely Danの後の作品に比べると、まだ雑多である。ラテン風の「Do It Again」、フォークロック的な「Dirty Work」、ロック色の強い「Reelin’ in the Years」、カントリー風味の「Brooklyn」、ジャズ・ポップ的な「Fire in the Hole」、ソフトロック的な「Turn That Heartbeat Over Again」など、曲ごとの方向性はかなり広い。だが、その雑多さはデビュー作ならではの魅力でもある。FagenとBeckerが、アメリカ音楽のさまざまな要素を自分たちの皮肉な視点で組み替えようとしている過程が見える。
『Can’t Buy a Thrill』は、Steely Danのカタログの中では、後年の完璧主義的なアルバムに比べて親しみやすい作品である。『Aja』や『Gaucho』のような極度に磨かれたサウンドを期待すると、やや荒く感じられる部分もある。しかし、その分、曲の勢い、バンドの生々しさ、1970年代初頭のロックらしい開放感がある。Steely Danの知性が、まだ完全に冷たいスタジオの中に閉じこもる前の作品として、本作は非常に重要である。
全曲レビュー
1. Do It Again
「Do It Again」は、Steely Danのデビューを象徴する名曲であり、アルバムの冒頭を飾るにふさわしい楽曲である。ラテン風のパーカッション、ミステリアスなキーボード、反復するグルーヴ、乾いたヴォーカルが組み合わさり、1970年代初頭のロックとしては非常に独特な雰囲気を持つ。
音楽的には、単純なロックンロールではなく、ラテン、ジャズ、ポップ、ブルースが混ざっている。リズムはゆったりしているが、曲全体には催眠的な推進力がある。ギター・ソロやエレクトリック・シタール風の音色も印象的で、異国的で少し危険な空気を作っている。Steely Danが最初から通常のアメリカン・ロックとは違う感覚を持っていたことが、この一曲で分かる。
歌詞では、同じ過ちを何度も繰り返す人間の姿が描かれる。暴力、欲望、賭け、関係の失敗。主人公は自分の行動の結果を理解しているようで、結局また同じことをしてしまう。タイトルの「Do It Again」は、単なる楽しげな反復ではなく、人間が逃れられない行動パターンを示している。快楽や失敗を繰り返すことへの皮肉がある。
Donald Fagenのヴォーカルは、感情を大きく表に出さず、少し距離を取っている。この冷静さによって、歌詞の人物はより滑稽で、同時に哀れに見える。彼は主人公に完全に同情しているわけでも、完全に断罪しているわけでもない。ただ、その繰り返しを観察している。
「Do It Again」は、Steely Danの美学を最初に明確に示した楽曲である。洗練されたグルーヴ、皮肉な歌詞、アメリカ的な欲望への冷たい視線が、すでに完成度の高い形で表れている。
2. Dirty Work
「Dirty Work」は、本作の中でも特にメロディアスで、ソウルフルな楽曲である。リード・ヴォーカルをDavid Palmerが担当しており、Donald Fagenの乾いた声とは異なる柔らかさが曲に与えられている。Steely Danの作品としては比較的ストレートに聴こえるが、歌詞にはやはり苦い人間関係が描かれている。
音楽的には、ブルー・アイド・ソウルやソフトロックの感触が強い。穏やかなピアノ、温かいメロディ、滑らかなコーラスが印象的で、非常に聴きやすい。だが、歌詞の内容は決して甘くない。表面の美しさと内側の不誠実さの対比が、Steely Danらしい。
歌詞では、語り手が誰かの「汚れ仕事」を引き受けている。恋愛関係の中で利用され、都合のいい存在になっている人物の弱さが描かれる。自分が不利な立場にあることを分かっていながら、関係から抜け出せない。これは「Do It Again」と同じく、繰り返される自己破壊の一形態である。
David Palmerの歌唱は、曲に哀愁と親しみやすさを与えている。もしFagenが歌っていれば、より皮肉な印象になったかもしれないが、Palmerの声によって、この曲は傷ついた人物の告白として響く。Steely Danの中でも、比較的感情移入しやすい一曲である。
「Dirty Work」は、Steely Danがソフトで美しいメロディの中に、不健全な関係や自己欺瞞を描く能力を早くから持っていたことを示す名曲である。
3. Kings
「Kings」は、歴史や権力を題材にした楽曲であり、Steely Danらしい寓話性を持つ曲である。タイトルは「王たち」を意味し、支配者、王朝、権力の交代を連想させる。しかし、歌詞は具体的な歴史を語るというより、権力者の盛衰を皮肉な物語として扱っている。
音楽的には、ロック色が比較的強く、ギターとピアノが曲を支える。メロディは明快だが、コード進行にはSteely Danらしいひねりがある。曲全体に少し古風な物語性があり、現代のロックの中に中世的・歴史的なイメージが入り込んでいる。
歌詞では、善い王と悪い王、権力を持つ者、民衆の記憶が描かれる。だが、その語り口は英雄的ではなく、どこか冷めている。権力者はやがて入れ替わり、語り継がれる物語も都合よく変わる。Steely Danは、歴史を壮大なロマンとしてではなく、皮肉な循環として見る。
この曲は、本作の中でやや異色だが、FagenとBeckerの知的な歌詞世界を示す重要な曲である。彼らは日常的な恋愛や欲望だけでなく、歴史や権力もポップソングの題材にできる作家だった。
「Kings」は、Steely Danの初期における寓話的な側面を示す楽曲である。ロックの形式を借りながら、権力と記憶の皮肉を描いている。
4. Midnite Cruiser
「Midnite Cruiser」は、夜の移動、青春の終わり、逃避、仲間意識を感じさせる楽曲である。タイトルは「真夜中の巡航者」といった意味を持ち、車で夜を走るようなアメリカン・ロック的な情景を想起させる。しかし、Steely Danの曲である以上、それは単純な自由の歌にはならない。
音楽的には、比較的穏やかなロックであり、どこかノスタルジックな雰囲気がある。Jim Hodderがリード・ヴォーカルを担当しており、Fagenとは異なる素朴な味わいが曲にある。ギターとピアノのバランスも自然で、初期Steely Danのバンドらしい温かみが感じられる。
歌詞では、かつての夢や若さ、過ぎ去った時間が暗示される。真夜中に走ることは、自由の象徴でもあり、現実からの逃避でもある。語り手は何かを追いかけているようで、同時に何かから逃げているようでもある。ここには、アメリカン・ロードソング的な開放感と、その裏にある寂しさが共存している。
「Midnite Cruiser」は、本作の中で比較的素直な哀愁を持つ曲である。後年のSteely Danに比べると皮肉は控えめだが、過去への視線や夢の終わりを感じさせる点で、彼ららしい苦味がある。
5. Only a Fool Would Say That
「Only a Fool Would Say That」は、柔らかなラテン風のリズムと、軽やかなメロディが印象的な楽曲である。タイトルは「そんなことを言うのは愚か者だけだ」という意味で、理想主義や楽観主義への皮肉を感じさせる。Steely Danの冷笑的な世界観が、穏やかな音楽に包まれている。
音楽的には、ボサノヴァやラテン・ポップのような軽やかさがある。ギターの刻み、柔らかなリズム、控えめなヴォーカルが、リラックスした空気を作る。だが、その穏やかさの奥にある歌詞は、甘い理想を冷たく見つめる内容である。
歌詞では、世界を良くしようとする理想主義者、あるいは社会を単純に変えられると信じる人物への距離感が描かれる。語り手は、そのような言葉を「愚か者だけが言う」と突き放す。これは政治的理想への冷笑とも、無邪気なヒューマニズムへの疑いとも読める。
ただし、Steely Danの皮肉は単純ではない。語り手が本当に正しいのかは分からない。理想を語る人間が愚かなのか、それを冷笑する語り手の方が空虚なのか。この曖昧さが曲に深みを与えている。
「Only a Fool Would Say That」は、穏やかで美しいサウンドの中に、Steely Dan特有の冷たい社会的視線を隠した楽曲である。
6. Reelin’ in the Years
「Reelin’ in the Years」は、本作のもう一つの代表曲であり、Steely Dan初期のロック色が最も強く出た名曲である。印象的なギター・リフとソロ、キャッチーなサビ、鋭いヴォーカルによって、アルバムの中でも特に即効性のある楽曲になっている。
音楽的には、ギターが主役である。Elliott Randallによるギター・ソロは、Steely Danのキャリア全体でも屈指の名演として知られる。曲は明るく疾走感があり、ラジオ向けのロックとして非常に完成度が高い。しかし、その明るさに対して歌詞はかなり辛辣である。
歌詞では、過去を振り返りながら、相手の人生や関係を皮肉る語り手が登場する。「君は年月を巻き取っている」というタイトルのイメージは、時間を無駄にしたこと、過去にしがみつくこと、経験を意味あるものにできないことを示しているように響く。語り手は相手を批判しているが、その言葉には未練や苦味もある。
Donald Fagenのヴォーカルは、ここで非常に鋭い。彼は感情的に泣くのではなく、相手を冷たく見つめるように歌う。そのため、曲はロックとして爽快でありながら、歌詞の内容はどこか嫌味で、苦い。
「Reelin’ in the Years」は、Steely Danがギター・ロックとしても非常に強力な曲を書けることを示した楽曲である。同時に、明るいロック・サウンドに皮肉な人間関係を乗せる彼らの美学が、非常に分かりやすく表れている。
7. Fire in the Hole
「Fire in the Hole」は、ジャズ的なピアノと不穏な歌詞が印象的な楽曲である。タイトルは爆破の際の警告句であり、危険、爆発、内部に潜む緊張を示している。本作の中でも、後年のSteely Danに近い知的で暗い雰囲気を持つ曲である。
音楽的には、Donald Fagenのピアノが中心となっている。コード進行はロックとしてはかなり洗練されており、ジャズ的な響きが強い。ギター主体の曲が多い本作の中で、この曲はキーボードと和声の個性が際立つ。後のSteely Danのスタジオ志向、ジャズ志向が見え始める重要な曲である。
歌詞では、社会や人間関係に対する不信、危険な状況、内側で何かが爆発しそうな感覚が描かれる。タイトルの「Fire in the Hole」は、単なる爆発の比喩ではなく、心の中や社会の内部にある緊張を示しているように響く。
Fagenのヴォーカルは、ここで特に皮肉と神経質さを帯びている。彼の声の乾いた質感は、この曲の不穏な内容に非常によく合う。感情的な爆発を歌いながら、歌唱は冷静である。このズレがSteely Danらしい。
「Fire in the Hole」は、本作の中で最も後年の方向性を予感させる楽曲の一つである。ジャズ的なコード、皮肉な歌詞、不穏なムードが、コンパクトな形で結びついている。
8. Brooklyn (Owes the Charmer Under Me)
「Brooklyn (Owes the Charmer Under Me)」は、本作の中でもフォークロックやカントリーの香りが強い楽曲である。リード・ヴォーカルはDavid Palmerが担当し、曲には穏やかで少し田舎風の温かみがある。しかし、タイトルや歌詞にはSteely Danらしいねじれた視点が含まれている。
音楽的には、ペダルスティール風の響きや柔らかなギターが印象的で、アメリカーナ的な要素がある。後年の洗練されたSteely Danから見ると、かなり素朴に聞こえるが、その素朴さがデビュー作らしい幅の広さを示している。
歌詞では、Brooklynという地名が使われ、都市、過去、人物関係が暗示される。タイトルにある「Charmer」は、魅力的な人物、口のうまい人物、あるいは人を惑わせる存在を連想させる。Steely Danの歌詞らしく、誰が誰に何を負っているのかは曖昧で、その曖昧さが曲に不思議な陰影を与えている。
David Palmerの歌唱は、曲に柔らかな表情を与えている。Fagenが歌えばより皮肉に聞こえたかもしれないが、Palmerの声によって、この曲は穏やかな回想として響く。
「Brooklyn」は、本作の中でSteely Danのフォーク/カントリー的な側面を示す楽曲である。後年にはあまり前面に出なくなる要素だが、彼らがアメリカ音楽の幅広い伝統を吸収していたことが分かる。
9. Change of the Guard
「Change of the Guard」は、タイトル通り「衛兵交代」「体制の交代」を意味する楽曲であり、変化、世代交代、社会的な移行を連想させる。明るめのロック・サウンドを持ちながら、歌詞にはやはり皮肉な視点が含まれている。
音楽的には、比較的ストレートなポップロックであり、サビのメロディも分かりやすい。ギターとコーラスが曲を支え、アルバム終盤に軽快な流れを作る。後年の複雑なSteely Danと比べると、かなりシンプルで爽やかな印象を受ける。
歌詞では、何かが変わること、新しい時代が来ることが歌われる。しかし、その変化が本当に希望なのかは曖昧である。Steely Danの歌詞において、変化や進歩は必ずしも無条件に肯定されない。新しい体制もまた、別の欺瞞や退屈を生む可能性がある。
この曲は、本作の中ではやや軽めの位置づけだが、デビュー作らしい開放感を持っている。FagenとBeckerがまだポップロックの枠組みを比較的素直に使っていたことが分かる。
「Change of the Guard」は、Steely Danの初期らしい軽快な曲でありながら、タイトルや歌詞には社会の変化を斜めから見る感覚がある。明るく聞こえるが、完全には楽観的ではない。
10. Turn That Heartbeat Over Again
「Turn That Heartbeat Over Again」は、アルバムの最後を飾る楽曲であり、複数の要素が混ざった、やや不思議な終曲である。タイトルは「その鼓動をもう一度ひっくり返せ」といった意味に取れ、生命、再生、やり直し、失敗の反復を連想させる。本作全体に流れる「繰り返し」のテーマともつながる。
音楽的には、ソフトロック的な滑らかさと、Steely Danらしいコードのひねりがある。曲は穏やかに進むが、構成や雰囲気には少し不安定さもある。複数のヴォーカルが登場し、バンドとしての初期Steely Danの多声的な性格が表れている。
歌詞では、Michael、Jesus、Guidoといった名前が登場し、宗教的・犯罪的・日常的なイメージが混ざり合う。明確な物語はつかみにくいが、人生をやり直すこと、危険な状況から抜け出すこと、あるいは再び同じ鼓動を刻むことがテーマになっているように響く。Steely Danらしく、終曲であっても明確な答えは与えられない。
この曲は、アルバムを壮大に締めくくるというより、少し曖昧な余韻を残して終わる。快楽は買えず、失敗は繰り返され、心臓はまた動き出す。そうした不完全な循環が、本作の終わりにふさわしい。
「Turn That Heartbeat Over Again」は、『Can’t Buy a Thrill』を締める曲として、デビュー作の雑多さとSteely Dan特有の皮肉な余韻をよく示している。
総評
『Can’t Buy a Thrill』は、Steely Danのデビュー・アルバムであり、後に彼らが到達する高度なジャズロック/AOR的洗練の原点を示す重要作である。本作は、後年の『Aja』や『Gaucho』のような完璧主義的なスタジオ作品ではない。むしろ、ロック・バンドとしての生々しさ、ポップソングとしての親しみやすさ、アメリカ音楽の雑多な要素が残っている。しかし、その中にFagenとBeckerの知性、皮肉、和声感覚、人物描写の鋭さがすでに刻まれている。
本作の魅力は、聴きやすさと複雑さのバランスにある。「Do It Again」はラテン風のグルーヴと繰り返される欲望の物語を結びつけ、「Dirty Work」は美しいソウル調のメロディの中に不健全な関係を描く。「Reelin’ in the Years」は爽快なギター・ロックでありながら、歌詞は過去と関係への皮肉に満ちている。「Only a Fool Would Say That」は穏やかなラテン・ポップの中に理想主義への冷笑を隠し、「Fire in the Hole」では後年のジャズ的な暗さが顔を出す。どの曲も表面だけでは終わらない。
Steely Danの歌詞世界は、この時点ですでに独特である。ロックの歌詞にありがちな若さ、自由、反抗、恋愛の単純な肯定はここには少ない。代わりにいるのは、失敗を繰り返す男、利用される人物、過去を皮肉る語り手、理想を笑う観察者、危険を抱えた都市の住人である。FagenとBeckerは、アメリカ的な夢や快楽を斜めから眺め、その裏にある空虚さを描く。
音楽的には、本作は後のSteely Danよりもジャンルの混ざり方が素朴である。ラテン、ロック、フォーク、カントリー、ジャズ、ソウルが曲ごとに比較的分かりやすく表れている。後年になると、それらの要素はより高度に溶け合い、滑らかなスタジオ・サウンドへ変化する。本作では、その前の段階として、さまざまなアメリカ音楽を試しながら、Steely Dan独自の語法を作っていく過程が見える。
演奏面では、ギターの存在感が大きい。特に「Reelin’ in the Years」のギター・ソロは、Steely Dan初期のロック・バンドとしての魅力を象徴している。一方で、「Fire in the Hole」や「Do It Again」では、キーボードやリズムの使い方に後年の洗練が見える。つまり本作は、ギター・ロックとしてのSteely Danと、スタジオ志向のジャズロック・ユニットとしてのSteely Danが交差する場所にある。
Donald Fagenのヴォーカルは、本作ではまだすべての曲を支配しているわけではない。David PalmerやJim Hodderが歌う曲もあり、バンドとしての多様性がある。しかし、Fagenが歌う曲では、すでに彼特有の冷たさ、皮肉、神経質な知性が強く出ている。後年、Fagenの声がSteely Danの中心的な人格になることを考えると、本作はその過渡期としても興味深い。
本作の弱点を挙げるなら、アルバム全体の統一感は後年の作品ほど高くない。曲ごとにスタイルがかなり異なり、一部にはデビュー作らしい試行錯誤も感じられる。また、後のSteely Danの極度に精密なサウンドを期待すると、ややラフに聞こえる部分もある。しかし、そのラフさは本作の魅力でもある。完璧に磨かれる前のSteely Danには、バンドとしての勢いと、若いソングライターがさまざまな音楽的可能性を試す面白さがある。
日本のリスナーにとって『Can’t Buy a Thrill』は、Steely Dan入門として非常に聴きやすい作品である。「Do It Again」「Dirty Work」「Reelin’ in the Years」という強力な代表曲があり、後年の作品ほど複雑すぎない。一方で、聴き込むとコード進行、歌詞の皮肉、リズムの処理、ジャンルの混合に多くの発見がある。シティポップやAOR、70年代ロック、ジャズロックに関心があるリスナーには、特に重要な一枚である。
総じて『Can’t Buy a Thrill』は、Steely Danが最初に示した「甘く聴きやすいが、内側は冷たくねじれている」音楽の原型である。快楽は買えない。成功も、恋愛も、旅も、過去も、人を完全には満たさない。それでも人はまた同じことを繰り返す。その人間の滑稽さと哀しさを、洗練されたポップ・ロックとして鳴らした本作は、Steely Danの出発点としてだけでなく、1970年代アメリカン・ロックの重要な名盤として聴かれるべき作品である。
おすすめアルバム
1. Steely Dan – Countdown to Ecstasy(1973)
Steely Danのセカンド・アルバムであり、『Can’t Buy a Thrill』よりもジャズ的な複雑さとバンド演奏の緊張感が増した作品である。曲はやや長くなり、歌詞の皮肉や構成のひねりも強まっている。初期Steely Danの進化を知るうえで重要な一枚である。
2. Steely Dan – Pretzel Logic(1974)
「Rikki Don’t Lose That Number」を収録したサード・アルバムであり、短く洗練されたポップソングの中にジャズ的な和声と皮肉な歌詞を凝縮した作品である。『Can’t Buy a Thrill』の親しみやすさを保ちながら、よりSteely Danらしい完成度へ進んでいる。
3. Steely Dan – Katy Lied(1975)
バンド的な初期サウンドから、よりスタジオ志向の洗練へ移行した作品である。セッション・ミュージシャンの起用が増え、FagenとBeckerの職人的な作曲とアレンジがさらに明確になる。中期Steely Danへの入口として重要である。
4. Steely Dan – Aja(1977)
Steely Danの最高傑作として語られることの多い作品であり、ジャズロック、AOR、フュージョン、スタジオ・ポップの完成度が極限まで高められている。『Can’t Buy a Thrill』にあったジャズ的な要素が、最も洗練された形で結実したアルバムである。
5. Donald Fagen – The Nightfly(1982)
Donald Fagenのソロ代表作であり、Steely Dan的な都会的洗練、ジャズ的コード、皮肉とノスタルジーが1980年代的な透明なサウンドで表現されている。『Can’t Buy a Thrill』から始まったFagenの音楽美学が、より成熟した形で味わえる作品である。

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