1. 歌詞の概要
「Anti-Curse」は、インディ・ロックのスーパートリオboygenius(ボーイジーニアス)が2023年に発表した初のフルアルバム『the record』に収録された楽曲であり、Julien Bakerがリードボーカルを務める最も内省的かつ神秘的な一曲である。
タイトルの“Anti-Curse(アンチ・カース)”とは直訳すれば「呪いへの対抗」、すなわち自分にかけられた呪い(トラウマや自己否定)に立ち向かうための儀式や祈りのようなものを意味している。
本曲は、語り手が海辺で溺れかけるという擬似的な臨死体験を経て、初めて「自分の命が惜しい」と感じた瞬間を描いており、そこから浮かび上がるのは、かつて自らを罰し、消そうとしていた自分との決別、あるいはその“試み”の記録である。
静かなギターのイントロから始まり、やがて感情の波が寄せては返すように展開していく構成が、語り手の内なる再生と決意のプロセスを静かに、しかし確かに表現している。
2. 歌詞のバックグラウンド
この曲はJulien Bakerのソングライティングが中心となっており、彼女のこれまでのソロ作に一貫して流れるテーマ——信仰、身体感覚、自己罰、そして償い——が色濃く反映されている。
Bakerは、自身がクィアであること、信仰を持つこと、そして精神的な闘いのなかで生きてきたことを歌にしてきたが、「Anti-Curse」はそのすべてを象徴的かつ詩的な抽象表現で再構築した楽曲とも言える。
彼女はこの曲を「ほぼ実体験に基づいている」と語っており、実際に海に入り、危険な目に遭ったときに、自分でも意外なほど「死にたくない」と思ったという。その感情を音楽に昇華することで、「自己否定のループからの脱出」を音像化したのが、この「Anti-Curse」なのだ。
3. 歌詞の抜粋と和訳
I threw myself into the ocean
I thought I’d lost my voice
海に身を投げたとき
私は声を失ったと思った
I was not sure if I would ever surface
もう二度と浮かび上がれないかもしれないと感じていた
But when I did, I felt your arms around me
でも、浮かび上がったとき
あなたの腕が、私を包んでいた気がした
Anti-curse
All I wanted was to be seen
アンチ・カース
私が欲しかったのは、誰かに見つけてもらうことだった
I want to be clean
I want to be quiet
清くなりたい
静かになりたい
歌詞引用元:Genius – boygenius “Anti-Curse”
4. 歌詞の考察
「Anti-Curse」は、boygeniusのアルバムのなかでもとりわけスピリチュアルで深層心理的な楽曲であり、「自己解体と再構築」というテーマが見事に形象化されている。
ここで語られる“海”とは、文字通りの自然環境であると同時に、**自己の感情、精神の深淵、あるいは“生と死の境界”**そのもののメタファーとして機能している。
語り手はそこに身を投げ入れ、いったんは“声を失う”——つまり、世界との接点を絶たれる——が、それでも浮上してきたとき、「何か(あるいは誰か)」の存在を感じる。
これは、かつてのJulien Bakerが繰り返してきた“神への問いかけ”とも呼応しており、今回の「Anti-Curse」ではそれを他者、もしくは“自分の新しい部分”が抱きとめてくれたようにも読める。
“Anti-Curse”という言葉は、呪いを祓うだけでなく、呪いに寄り添う別の手段——たとえば言葉、音楽、触れ合い、静けさ——を選ぶことの決意でもある。
また、「見てほしかった」というフレーズに滲むのは、自己否定から生まれる“承認欲求”の告白ではない。むしろそれは、「存在を確認してほしい」という根源的な人間の叫びであり、それを他者の手や声で感じた瞬間に、ようやく語り手は「浮上=再生」することができるのだ。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Appointments by Julien Baker
日常のなかにひそむ精神的な“裂け目”を静かに描いたソロ時代の名曲。 - Chinese Satellite by Phoebe Bridgers
信仰と不信、現実と逃避のあいだで揺れる感情を詩的に昇華した名バラード。 - Night Shift by Lucy Dacus
傷ついた心の再構築を、時間とともに見つめ直す叙情的ラブソング。 -
Unfucktheworld by Angel Olsen
静けさのなかに激情を孕んだ、“どうしようもなさ”を美学化した楽曲。 -
Sullen Girl by Fiona Apple
心の傷と、それにまつわる沈黙と想像力を、比喩で包んだ私的な神話のような作品。
6. “生きて戻ってきた人”の、静かな祈り
「Anti-Curse」は、自分という存在に「生き延びる価値」があるかどうかを問い直し、それに対して「はい」と答えようとする、Julien Bakerなりの再誕のうたである。
それは劇的でも啓示的でもない。ただ、海のなかで息を切らしながら、「浮かびたい」「見つけてほしい」と思ったその感覚——それだけが真実であり、それだけで生きる理由になっている。
boygeniusという集合体において、Bakerは最も内面を見つめる役割を担っている。そしてこの「Anti-Curse」では、彼女自身が語り続けてきた“痛みの信仰”を、初めて“痛みからの解放”へと翻訳してみせた。
それは小さな希望かもしれない。でも確かにそこにある。
「Anti-Curse」は、傷ついたすべての人が、自分の中にある“もうひとつの声”を信じてみようとするための静かな祈りである。
「私を見つけて」と願うこと、「死にたくない」と思えたこと、それ自体がすでに“呪いへの抵抗”なのだ。
この曲を聴くことで、私たちはその事実を、音と言葉を通して、深いところで知ることができる。そしてそれは、ひそかに、しかし確かに、生きる力をくれる。
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