
1. 歌詞の概要
A Song About Fishingは、Genesis Owusuが2021年に発表したデビューアルバムSmiling with No Teethに収録された楽曲である。
アルバムでは終盤、13曲目に置かれており、次曲No Looking Backへとつながっていく。
Genesis Owusuは、ガーナ生まれ、オーストラリア・キャンベラ育ちのアーティストである。
ヒップホップ、ファンク、パンク、ソウル、R&B、ポストパンク、フォークまでを自由に横断する音楽性で知られ、Smiling with No Teethでは、うつ、孤独、人種差別、自己肯定、外側から押しつけられる視線と内側の黒い犬を、大胆な音楽的変化の中で描いた。
A Song About Fishingは、そのアルバムの中でも少し変わった場所にある。
タイトルだけを見ると、素朴な歌に見える。
釣りについての歌。
それだけなら、川辺や湖、朝の静けさ、のんびりとした時間を思い浮かべるかもしれない。
実際、曲のサウンドにも、どこか牧歌的な柔らかさがある。
フォークポップ的な軽さがあり、アルバム内の攻撃的な曲やファンク色の強い曲に比べると、風通しがいい。
水面に陽が差すような、少しユーモラスで、少し肩の力が抜けた音像だ。
しかし、この曲は単に釣りを楽しむ歌ではない。
ここでの釣りは、比喩である。
何も釣れない場所で、なお糸を垂らし続けること。
空っぽの湖に網を投げること。
成果が見えなくても、それでも朝になれば起きて、また水辺へ向かうこと。
つまり、A Song About Fishingは、希望が見えない状況で、それでも続けることの歌である。
歌詞の語り手は、泥や錆びた靴、魚のいない湖のようなイメージの中にいる。
明るく豊かな自然の歌ではなく、むしろ報われなさを含んだ自然描写だ。
釣りに行く。
でも魚はいない。
網を投げる。
でも何も得られないかもしれない。
それでも行く。
この反復が、Smiling with No Teeth全体のテーマと響き合う。
アルバムタイトルのSmiling with No Teethは、歯を見せずに笑う、つまり本当の痛みを隠しながら大丈夫なふりをするような感覚を含んでいる。
Genesis Owusu自身も、このアルバムがうつや人種差別を扱い、痛みを砂糖で包むようにしながら伝える作品であることを語っている。
A Song About Fishingは、その中で、かなり静かな諦念と持続の曲として聴こえる。
派手に戦う曲ではない。
怒りを爆発させる曲でもない。
むしろ、疲れた人が、それでも明日の朝に起きるための歌である。
Genesis Owusuの声は、ここで少し柔らかくなる。
しかし、その柔らかさは完全な安心ではない。
笑っているようで、背中には重い荷物がある。
曲の軽い響きの奥には、空っぽの水辺を見つめるような寂しさが漂っている。
この曲は、アルバム終盤にあるからこそ効いている。
それまでにリスナーは、黒い犬、怒り、孤独、差別、自己嫌悪、欲望、虚勢、疲労を通ってきている。
そのあとでA Song About Fishingが鳴ると、急に空気が変わる。
大きな戦いのあとに、ひとりで水辺に座る。
勝ったわけではない。
すべて解決したわけでもない。
でも、まだ糸を垂らしている。
その姿が、この曲の核なのだ。
2. 歌詞のバックグラウンド
A Song About Fishingが収録されたSmiling with No Teethは、2021年3月5日にリリースされたGenesis Owusuのデビューアルバムである。
同作はオーストラリア国内外で高く評価され、2021年の重要なデビュー作のひとつとして多くの媒体で取り上げられた。
このアルバムの大きなテーマは、内側と外側の黒い犬である。
ひとつは内側の黒い犬、つまりうつや自己破壊的な感情。
もうひとつは外側の黒い犬、つまり人種差別や社会から向けられる敵意。
Genesis Owusuは、この二つの圧力に追われながら、それでも生き、踊り、叫び、笑う人物としてアルバム全体を構成している。
Atwood Magazineのインタビューでは、アルバムタイトルSmiling with No Teethについて、物事が大丈夫ではないのに大丈夫なふりをすること、うつや人種差別を扱う作品であることが語られている。
また、アルバム前半は内側の黒い犬、つまりうつを扱い、後半では外側の黒い犬、つまり人種差別がより強く出てくる構成として説明されている。
A Song About Fishingは、アルバム後半に置かれている。
そのため、この曲はただの間奏的な穏やかさではなく、アルバム全体の過酷なテーマを通過したあとに鳴る、奇妙な休息として機能している。
NMEはSmiling with No Teethのレビューで、A Song About Fishingを表面的には風通しのいいフォーク・バラードのようだと紹介している。
The Forty-Fiveも、この曲を予想外に現れるフォークポップの子守歌のような曲として触れている。
つまり、批評的にもこの曲は、アルバムの中で音楽的に意外な転換点として受け止められている。
Genesis Owusuの音楽は、ジャンルを一つに固定しない。
The Other Black Dogのような緊張感のある曲、Whip Crackerのように鋭い社会批評を持つ曲、Gold Chainsのようなファンクラップ、そしてA Song About Fishingのような柔らかなフォークポップ。
それらがひとつのアルバムの中に同居している。
この多様性は、単なる器用さではない。
むしろ、精神状態の変化そのもののように聞こえる。
怒りの日もある。
踊れる日もある。
何もしたくない日もある。
それでも朝になれば、また水辺へ行く日もある。
A Song About Fishingは、その最後の感覚を担っている。
曲のテーマについて、Modern Music Analysisのレビューでは、魚のいない流れで釣りをするという比喩を、救いや成果が見えない中でも前に進むこととして読んでいる。
Apple MusicのGenesis Owusu Essentialsでも、この曲は、状況が絶望的に見えてもなお耐え抜こうとする、完全にレイドバックした楽曲として紹介されている。
このように、A Song About Fishingは、アルバムの中で比較的軽い音を持ちながら、実はかなり重い意味を背負っている曲である。
魚がいない湖で釣りをする。
それは滑稽かもしれない。
無駄かもしれない。
でも、その無駄な行為を続けることが、生きることに似ている。
この曲は、そのような粘りを歌っている。
3. 歌詞の抜粋と和訳
歌詞の権利に配慮し、ここでは短いフレーズのみを引用する。
fishless lake
和訳:
魚のいない湖
この短いイメージは、曲の中心的な比喩として読める。
湖はある。
水はある。
釣りをする場所もある。
しかし、魚はいない。
つまり、期待されるものだけが欠けている。
努力する場所はあるのに、成果がない。
希望を投げ込む場所はあるのに、返ってくるものがない。
それでも、語り手はそこへ向かう。
この魚のいない湖は、報われない世界の比喩のようだ。
何かを求めているのに、そもそもそこに答えが存在しないかもしれない。
それでも人は行動を続ける。
もうひとつ、短いフレーズを挙げる。
cast my net
和訳:
網を投げる
網を投げるという動作は、能動的である。
ただ待っているだけではない。
自分から手を動かす。
水の中へ投げ入れる。
何かを得ようとする。
しかし、魚のいない湖に網を投げるなら、その行為はほとんど不条理だ。
それでも、そこにこの曲の美しさがある。
成果が約束されているから動くのではない。
何も得られないかもしれないと知りながら、それでも網を投げる。
それは生きることの、かなり正直な比喩である。
引用元・権利表記:歌詞はGenesis Owusuによる楽曲A Song About Fishingからの短い引用。歌詞の権利は各権利者に帰属する。
4. 歌詞の考察
A Song About Fishingの歌詞は、表面上は釣りの歌である。
しかし、その釣りは明らかに心の状態を表している。
魚のいない湖へ向かう。
泥にまみれ、靴は傷み、朝になればまた水辺に立つ。
この情景は、楽しい余暇というより、習慣としての苦闘に近い。
人は、望むものが手に入らないと分かっていても、同じ場所へ戻ってしまうことがある。
救いがないかもしれない。
でも、救いを探す。
返事がないかもしれない。
でも、問いかける。
愛されないかもしれない。
でも、愛を求める。
世界は変わらないかもしれない。
でも、歌う。
A Song About Fishingの釣りは、そのような行為である。
この曲がSmiling with No Teethの終盤にあることは、非常に重要だ。
アルバムはそれまで、内側と外側の黒い犬に追われるように進んできた。
内面のうつ、社会の暴力、黒人として生きることへの圧力、成功の空虚、自己を守るための仮面。
Genesis Owusuは、それらを時に激しく、時に滑稽に、時に踊れる形で描いてきた。
そのあとでA Song About Fishingが現れると、急に寓話のような空気になる。
語り手は戦っていない。
叫んでもいない。
ただ、釣りをしている。
だが、その静けさが逆に深い。
激しく戦うことだけが、生き延びる方法ではない。
時には、何も釣れない湖に通い続けることも、生き延びる方法になる。
この曲は、諦めと希望のあいだにある。
完全に希望を持っているわけではない。
魚のいない湖なのだから、かなり絶望的だ。
しかし、完全に諦めているわけでもない。
網を投げているのだから。
この中間の感情が、非常に人間的である。
うつや長い疲労の中にいるとき、人は大きな希望を持てないことがある。
明るい未来を信じろと言われても、それが遠すぎて届かない。
でも、朝起きることはできるかもしれない。
顔を洗うことはできるかもしれない。
同じ場所へ行くことはできるかもしれない。
A Song About Fishingは、そういう小さな持続の曲に聞こえる。
サウンドも、この感情を支えている。
曲は軽やかで、フォークポップ的な親しみやすさがある。
ギターやメロディにはどこか日向の空気がある。
しかし、歌詞の比喩を考えると、その明るさは少し苦い。
明るい音で、報われない行為を歌う。
ここにGenesis Owusuらしい皮肉がある。
彼は、痛みをただ暗く鳴らすだけではない。
痛みをダンスにしたり、ポップにしたり、ユーモラスな比喩にしたりする。
それによって、聴き手は重いテーマへ入りやすくなる。
A Song About Fishingも同じだ。
もしこの歌詞を重苦しいバラードで歌えば、かなり沈んだ曲になっただろう。
しかし、Genesis Owusuはそれをどこか風通しのいい曲にしている。
だから、痛みが説教にならない。
むしろ、変な明るさが残る。
この変な明るさこそ、Smiling with No Teethというアルバムの核に近い。
歯を見せずに笑う。
本当はしんどいのに、笑う。
大丈夫ではないのに、大丈夫なふりをする。
しかし、そのふりの中にも、ただの嘘ではない生命力がある。
A Song About Fishingは、魚がいないと分かっていても釣りをする。
それは無意味に見える。
でも、無意味なことを続ける力こそが、人を生かすこともある。
5. この曲が好きな人におすすめの曲 5曲
- No Looking Back by Genesis Owusu
A Song About Fishingの直後に置かれた曲で、アルバム終盤の流れを理解するうえで欠かせない。こちらはよりR&B的で、前を向く感覚が強い。魚のいない湖に網を投げたあと、振り返らず進むような流れとして聴くと、アルバムの結末がより美しく響く。
- Gold Chains by Genesis Owusu
Smiling with No Teethの中でも特に重要な曲のひとつ。ファンクラップ的なグルーヴがありながら、成功や富の裏側にある空虚を歌っている。A Song About Fishingの報われなさとは違う角度から、何かを得ても満たされない感覚を描いている。
- Waitin’ on Ya by Genesis Owusu
アルバム前半にある、より柔らかくソウルフルな曲。A Song About Fishingのレイドバックした空気が好きな人には、この曲のメロディの余白も合う。Genesis Owusuの荒々しい面だけでなく、歌心と繊細さがよく出ている。
- The Other Black Dog by Genesis Owusu
A Song About Fishingの穏やかさとは対照的に、内側の黒い犬、つまりうつや不安に追われる感覚を強く描く曲。アルバム全体のテーマを知るには重要である。この曲の暗い緊張を経たあとにA Song About Fishingを聴くと、釣りの比喩がより深く感じられる。
- Red Room by Hiatus Kaiyote
オーストラリアのジャンル横断的なソウル/ネオソウルの名曲。A Song About Fishingの柔らかい浮遊感や、内面の状態を音で包む感覚が好きな人に合う。Hiatus Kaiyoteのほうがよりジャズ的でしなやかだが、メロディの温度感には近いものがある。
6. 魚のいない湖に網を投げる、絶望と持続の小さな寓話
A Song About Fishingの特筆すべき点は、非常に素朴な比喩を使って、Smiling with No Teethの重いテーマをやわらかく受け止めているところである。
釣りについての歌。
このタイトルは、少し拍子抜けする。
アルバムには、Black Dogs!やWhip Crackerのように、明らかに攻撃的で、社会的な痛みを直接感じさせる曲がある。
その中でA Song About Fishingというタイトルは、妙にのんきに見える。
だが、実際に聴くと、こののんきさはかなり深い。
釣りとは、待つ行為である。
すぐに結果が出るとは限らない。
糸を垂らし、時間を過ごし、気配を待つ。
そこには忍耐がある。
同時に、諦めに近い静けさもある。
しかもこの曲では、魚のいない湖が出てくる。
それは、希望の場がすでに空っぽであることを示している。
普通なら、釣りに行く理由は魚がいるからだ。
しかし魚がいないなら、釣りは何のためにあるのか。
この問いが、この曲の核心である。
何も得られないかもしれない行為を、それでも続ける理由。
報われない努力を、それでもやめられない理由。
希望が薄い場所へ、それでも朝になると戻っていく理由。
それは、人生そのものに近い。
誰もが、自分なりの魚のいない湖を持っているのかもしれない。
うまくいかない仕事。
届かない愛。
変わらない社会。
何度も戻ってくる憂うつ。
認められたいのに認められない場所。
救われたいのに救われない夜。
それでも人は、また網を投げる。
A Song About Fishingは、その滑稽で、悲しくて、少し尊い行為を歌っている。
この曲が美しいのは、そこに過剰な英雄性がないことだ。
俺は絶対に勝つ。
必ず乗り越える。
希望を信じろ。
そういう大きな言葉はない。
むしろ、魚がいないかもしれないと分かっている。
それでも網を投げる。
この小ささが、とても誠実である。
Genesis Owusuのアルバム全体には、強いパフォーマンス性がある。
声色を変え、キャラクターを変え、ジャンルを変え、怒り、笑い、踊る。
彼は自分を一つの固定された姿に閉じ込めない。
A Song About Fishingでは、その多面性が一度ゆるむ。
怒りの仮面も、ファンクの鋭さも、パンクの攻撃性も少し脇に置かれる。
残るのは、奇妙に素直な寓話だ。
そのため、この曲はアルバムの休憩地点のように見える。
しかし、実際にはかなり重要な精神的ポイントである。
人はずっと戦い続けることはできない。
怒り続けることもできない。
踊り続けることもできない。
時には、静かに釣りをするしかない。
ただし、その釣りもまた生存の方法なのだ。
この曲のフォークポップ的なサウンドは、その生存の小ささに合っている。
派手なプロダクションではない。
巨大なクライマックスでもない。
柔らかいメロディと軽い揺れの中に、持続の感覚がある。
聴いていると、少し肩の力が抜ける。
だが、ただ癒やされるだけではない。
歌詞の比喩を考えると、心に小さな刺が残る。
自分は何に向かって網を投げているのか。
そこに本当に魚はいるのか。
もし魚がいないと分かっても、自分は続けるのか。
この問いを、曲は重く押しつけない。
ただ水面のように見せる。
それがうまい。
また、A Song About Fishingは、Genesis Owusuのユーモア感覚も示している。
深刻なテーマを、深刻な題名で飾らない。
あえて、A Song About Fishingという少し間の抜けたタイトルにする。
この距離感が、彼の音楽を重すぎるものにしない。
痛みを扱いながら、笑いの余地を残す。
絶望を扱いながら、奇妙な軽さを残す。
それは、ただの余裕ではない。
むしろ、痛みと長く付き合ってきた人の知恵のように感じられる。
本当にしんどいことを語るとき、人はときどき冗談を使う。
比喩を使う。
少し変なタイトルを使う。
それによって、直接触れるには熱すぎるものを、少しだけ持てる形にする。
A Song About Fishingは、そのような曲である。
そして、この曲はSmiling with No Teethの後半において、No Looking Backへ向かう準備にもなっている。
魚がいない湖で釣りをしたあと、振り返らず進む。
この流れには、完璧な解決ではないが、少しの前進がある。
Genesis Owusuの世界では、救いは簡単には来ない。
黒い犬は消えない。
社会の問題も一曲で解決しない。
それでも、次の曲へ行くことはできる。
アルバムを聴くという行為そのものが、前へ進むことになる。
A Song About Fishingは、その一歩手前の曲だ。
まだ釣っている。
まだ待っている。
まだ答えはない。
でも、完全に止まっているわけではない。
この曲の優しさは、そこにある。
人生に大きな答えが出ない日でも、朝は来る。
靴は泥にまみれていても、湖へ行くことはできる。
魚はいないかもしれない。
でも、網を投げる動作だけは、自分のものとして残っている。
その小さな動作を、Genesis Owusuは歌にした。
A Song About Fishingは、何かを勝ち取る歌ではない。
何も釣れないかもしれない場所で、それでも釣り糸を垂らす歌である。
その姿は、滑稽で、寂しくて、妙に美しい。
参照元
- A Song About Fishing – Spotify
- Smiling with No Teeth – Genesis Owusu / Atwood Magazine Interview
- Genesis Owusu – Smiling With No Teeth review / NME
- Genesis Owusu shares animated music video for A Song About Fishing / NME
- Smiling With No Teeth by Genesis Owusu / Modern Music Analysis
- Genesis Owusu Essentials / Apple Music
- Genesis Owusu – Smiling With No Teeth / Album of the Year track listing
- Genesis Owusu – Smiling With No Teeth review / The Forty-Five

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