※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。
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1990年代半ば、Blurは「英国らしさ」を最も鮮明に可視化したバンドの一つだった。『Modern Life Is Rubbish』『Parklife』『The Great Escape』では、英国の日常、階級、郊外、鉄道、仕事、余暇、皮肉、退屈といった題材を、The KinksやSmall Faces以降の系譜を思わせるギター・ポップへ結びつけた。そして1995年のOasisとのシングル対決によって、Blurはブリットポップそのものを象徴する存在にまで押し上げられる。ところが、その成功の直後に出た1997年の『Blur』では、彼らは自分たちをスターにした「英国性」から急速に離れ、ノイズ、ローファイ、アメリカン・インディー、荒れたギター、内省的な歌詞へ向かった。さらに1999年の『13』では、その解体はもっと深くなる。なぜBlurは、ようやく手に入れた強力なアイデンティティを自ら壊す必要があったのか。今回はSophie、Alex、Naomiの3人が、ブリットポップ、階級、Graham Coxonのギター、Damon Albarnの作詞、アメリカ音楽への接近、そして「英国らしくあること」が様式化した瞬間から考える。
- 『Parklife』の英国性は最初から単純な愛国主義ではなかった
- 『The Great Escape』で英国性は「観察」から「自己模倣」に近づいたのか
- Oasisとの「戦い」がBlurの英国性を商品にしてしまった
- Graham Coxonはなぜアメリカン・インディーを必要としたのか
- 「Beetlebum」はなぜ英国性を捨ててもBlurに聞こえたのか
- 「Song 2」はアメリカへの接近か、それともロックそのものへの皮肉か
- Damon Albarnはなぜ「他人を観察する人」から自分をさらす人へ変わったのか
- 『13』では「英国性」よりバンドそのものが壊れ始めた
- 「英国らしさ」を壊したのに、なぜBlurはもっと英国的に見える瞬間があるのか
- 「Coffee & TV」でGraham Coxonは別のBlurを見せた
- ブリットポップの「勝利」はなぜ長く続けられなかったのか
- 『Blur』は自己否定ではなく「自分たちを定義し直す」作品だった
- 最高傑作は『Parklife』か『13』か
- 過小評価された曲に見える「英国性の解体」
- 対談を終えて
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『Parklife』の英国性は最初から単純な愛国主義ではなかった
Blurの英国性を考えるとき、まず『Parklife』を単純な「英国礼賛」として扱うのは違うと思います。Damon Albarnが見ていたのは、観光ポスターの英国ではなく、退屈な仕事、郊外の生活、階級意識、休日、日常的な小さな滑稽さです。「Parklife」そのものも、成功した都市生活の讃歌ではなく、かなり戯画的でしょう。英国を誇るというより、英国を横から観察していた。
音楽でもそうですね。The KinksやThe Jamを思わせる部分はあるけれど、単純な60年代回帰じゃない。「Girls & Boys」なんてギターよりダンス的なベースとシンセの感触が強いし、全体としてかなり雑多です。英国性は特定のサウンドではなく、曲ごとに違う人物や場面を描く方法として使われている。
しかも『Parklife』の録音はすごくカラフルです。管楽器、鍵盤、電子音、ギター、声のキャラクターが次々に変わる。だから「英国的ギター・ポップ」というより、英国社会を複数の音色でコラージュしている感じがある。後の『Blur』でアメリカン・インディーへ接近したときも、実は「一つの音を守らない」という姿勢自体は変わっていないんです。
そこが重要ですね。後から見ると『Parklife』がブリットポップの教科書に見えるけれど、当時のBlurはむしろ「英国的であること」をかなり意識的に作っていた。つまり自然発生のアイデンティティではなく、演出と観察が混ざっている。そういうものは成功すると、すぐ様式化する危険があるんです。
だから1995年以後に彼らが壊したかったのは、英国そのものではなく「Blurはこういう英国を描くバンドだ」という固定化だったんでしょうね。自分たちが作ったスタイルが、外から期待される制服になった。それが一番危険だった。
『The Great Escape』で英国性は「観察」から「自己模倣」に近づいたのか
私は『The Great Escape』が転換点だと思います。良い曲はたくさんあるし、「The Universal」「Charmless Man」「Country House」も非常に強い。でも『Parklife』で鮮やかだった人物観察が、少しずつ「Blurらしい英国人物をもう一度描く」方向へ寄ったようにも聞こえる。キャラクターが生身の人間というより、タイプになっていく瞬間があるんです。
音楽も、すごく完成されているんですよね。それが逆に危ない。「Charmless Man」なんてギターもリズムもメロディも完全にBlurの技法で作られている。でも完璧に「Blurらしい」からこそ、このまま続けたら自分たちのコピーになる感じがある。バンドにとって得意技が一番の敵になる時期ってあります。
『The Great Escape』は音色もすごく整理されています。曲ごとの仕掛けは多いけれど、全体として非常にプロフェッショナルで、明るく、輪郭がはっきりしている。『Parklife』の雑多さが都市のざわめきだとすれば、こちらは舞台装置が完成しすぎている。その完成度が、次作で壊したくなる理由になったと思います。
しかも文化的にはOasisとの対立が巨大化した時期です。Blur自身の音楽より「英国を代表するのはどちらか」という物語が前へ出る。そこでBlurは、自分たちが社会を観察していたはずなのに、いつの間にか英国文化の象徴そのものとして消費され始めた。観察者が展示物になったんです。
それはバンドとして居心地が悪かったでしょうね。Graham Coxonみたいな人にとっては特に。彼はもともとノイズやアメリカン・インディーも好きだったし、ギターをきれいなブリットポップの装飾として固定したくなかった。『The Great Escape』の成功は、彼らを大きくしたけれど、演奏の自由度を狭くもしたんだと思います。
Oasisとの「戦い」がBlurの英国性を商品にしてしまった
1995年の「Country House」と「Roll with It」のシングル対決は、音楽史的には象徴的ですが、Blurにとってはかなり危険な出来事だったと思います。メディアは二つのバンドを南対北、中産階級対労働者階級、芸術学校対ストリートみたいに整理した。実際の音楽より、英国社会を分かりやすく二分する物語が消費されたんです。
しかも「Country House」が勝ったことで、Blurはそのゲームに勝ってしまった。負けたなら「違う道へ行こう」と言いやすいけれど、勝ったからこそ続ける誘惑がある。もっと英国的な曲を書いて、もっと皮肉なキャラクターを出して、同じ成功を狙う。でもそれをやったら完全に自分たちがブランドになる。
音響的にも、ブリットポップという言葉が一つの音像を作り始めていましたよね。明るいギター、分かりやすいコーラス、60年代や70年代への参照、英国的な歌詞。Blurはもともともっと広いバンドなのに、市場がそれを一つのパッケージに縮めていく。そこから逃げるには、聴いた瞬間に「これはブリットポップじゃない」と分かる音を作る必要があった。
そして「英国性」が政治やナショナル・アイデンティティと結びついて見えるようになったことも大きいと思います。Blur自身の初期の英国観察には皮肉も距離もあった。でもブリットポップの巨大化によって、「英国は再びクールだ」という楽観的な物語へ回収される。Damonがそこへ居心地の悪さを感じたとしても不思議ではない。
要するに、彼らが壊したかったのは英国文化への関心ではなく、「英国的であることが勝利の記号になった状態」なんでしょうね。それを続けたら、The Kinksから学んだ観察力より、国旗みたいな分かりやすい象徴だけが残ってしまう。
Graham Coxonはなぜアメリカン・インディーを必要としたのか
1997年の『Blur』を考えるなら、Graham Coxonの役割は決定的です。彼がPavementやSebadohのようなアメリカン・インディーを好んでいたことはよく知られていますが、重要なのは単に「アメリカの音が好きだった」ことじゃない。そこには、完成されすぎない録音、壊れたギター音、演奏の不均衡、きれいに整理されていない曲の魅力があった。『The Great Escape』の反対側にあるものです。
しかも、それが文化的に面白いんですよね。Blurは数年前まで、アメリカのグランジに対抗する形で英国性を強く打ち出していた。それなのに成功後、今度はアメリカのインディーへ惹かれていく。一見すると自己矛盾だけど、私はむしろ健全だと思う。対立軸を守るために好きな音楽を否定する方が不自然です。
『Blur』では、その影響がサウンドの表面だけじゃなく録音の感覚に入っています。「Beetlebum」なんて、ギターは歪んでいるけれどブリットポップ的な爽快さとは違う。音が濁り、ドラムも重く、声も少しぼやける。曲が「きれいに見えること」を拒んでいるんです。
「You’re So Great」なんてGraham自身が歌っていて、ほとんどデモに近い親密さがありますよね。音程も質感も磨きすぎない。あれを『The Great Escape』の中に置いたら異物だったはず。でも『Blur』では、その異物感がアルバムの中心に近い。バンドがプロフェッショナルになりすぎたことへの反動だと思います。
そしてGrahamのギターが再び「きれいな英国ポップを彩る役割」から解放される。「Song 2」なんて極端で、ほとんど馬鹿みたいに短くて大きい。でもその乱暴さが必要だった。Blurが再び、自分たち自身にも予測できないバンドになるために。
「Beetlebum」はなぜ英国性を捨ててもBlurに聞こえたのか
『Blur』の一曲目が「Beetlebum」なのはすごく象徴的です。テンポは重く、ギターは曇り、ヴォーカルも以前より内向き。『Parklife』や『The Great Escape』のように街の人物を外から観察するのではなく、Damon自身の心理の内側へ沈んでいく。視点が「社会」から「自己」へ移っています。
でもメロディはやっぱりBlurなんですよ。サビの広がり方やコード感には、Damonのポップ・センスが残っている。だからギターの質感をローファイ寄りにしても、別バンドにはならない。ここで初めて、Blurらしさが英国風の題材や音色ではなく、もっと深いところにあると分かった気がします。
歌詞も重要ですね。以前のDamonは、他人の暮らしを少し意地悪く眺める観察者だった。でも「Beetlebum」では、その安全な位置から降りている。自分自身が曖昧で、依存的で、汚れた状態にいる。ブリットポップ期の彼には少し「社会を読む人」の優越感があったけれど、ここではその立場を手放しているんです。
音響も、その自己像の崩れに合っています。声とギターの境界が少し溶けて、低域も濁る。『The Great Escape』の明快な色分けとは逆ですね。人物が曖昧になったから、音も曖昧になる。
僕はこれが、Grahamのアメリカン・インディー趣味を単なる模倣にしなかった理由だと思います。もしPavementみたいな音をやりたいだけなら、もっと露骨なコピーになる。でもDamonのメロディと組み合わさることで、結局Blurにしかならない。新しい影響を入れても壊れなかったから、英国性という外殻を捨てられた。
「Song 2」はアメリカへの接近か、それともロックそのものへの皮肉か
「Song 2」は面白いですよね。二分少しで終わるし、サビは「Woo-hoo」で、ギターは爆発する。アメリカン・オルタナティブへのパロディとして語られることもあるけれど、僕はパロディだけでは説明できないと思う。本気で気持ちいいんですよ。GrahamのギターもDave Rowntreeのドラムも、完全に身体で鳴っている。
私もそう思います。皮肉はある。でも、Blurは皮肉だけでここまで長く生きられたバンドではない。「Song 2」はアメリカ的な大音量ロックを誇張している一方で、自分たちもその快感に本気で乗っている。その二重性がいいんです。
音響的にも極端です。ヴァースでは音数を抑え、サビで一気に歪みと音量を広げる。ものすごく単純なダイナミクスだけれど、切り替えが明確だから一度で記憶に残る。『Parklife』期の細かな編曲とは真逆の方法でポップになっている。
そして、あの曲がアメリカでも大きく届いたのが皮肉ですよね。Blurが英国性を壊して、アメリカのオルタナティブを少し茶化すような曲を作ったら、それがアメリカで最も知られる曲の一つになった。文化的な境界なんて、そんなにきれいには守れないという話でもある。
その成功によってBlurは、「英国を説明するバンド」から初めて完全に抜けたように見えます。歌詞の内容もほとんど重要ではない。身体的なフックだけで世界へ届く。これは『Parklife』とはまったく別の大衆性です。
Damon Albarnはなぜ「他人を観察する人」から自分をさらす人へ変わったのか
ブリットポップ期のDamonの魅力は、観察者としての距離でした。「Tracy Jacks」「Parklife」「Charmless Man」みたいに、人物を少し誇張して描く。それが英国社会の風刺になっていた。でも、その方法を続けると、彼自身はいつも安全な場所にいられるんですよね。『Blur』以降は、その安全地帯から出ていく。
「Death of a Party」とかもかなり暗いですよね。華やかなブリットポップの宴が終わった後の虚無みたいに聞こえる。ギターも派手に前へ出ず、リズムも冷たい。自分たちが中心にいた文化を、外から笑うのではなく内側から疲れている。
そして『13』になると完全に個人的になります。「Tender」「No Distance Left to Run」では、具体的な感情が前に出る。音響的にも、声が傷ついていることを隠さない。ブリットポップ期のキャラクター・ソングとはかなり違う。
つまり英国性を壊すことは、作詞上の人格を壊すことでもあったんです。Damonは「英国社会の人々を描く賢い観察者」という役割から降りなければならなかった。そうしないと自分の感情を歌えない。成功したスタイルが、作家としての逃げ場所になり始めていたのかもしれません。
それでGrahamの荒れたギターが必要になるんですよ。Damonがきれいに整理された言葉で観察するのをやめるなら、音も少し壊れた方がいい。二人の変化が同じ方向を向いた瞬間が『Blur』だったと思います。
『13』では「英国性」よりバンドそのものが壊れ始めた
1999年の『13』まで行くと、単にブリットポップを否定したという話では足りなくなります。William Orbitをプロデューサーに迎え、テープ編集、電子処理、反復、断片化された演奏を使う。ギター・バンドとしての形そのものが揺らぐ。これは文化的な英国性より、バンドという制作単位を壊している作品です。
「Bugman」なんてギターはかなり暴力的だけれど、普通のロック・バンドの音じゃないんですよね。歪みが加工されすぎて、ギターなのかノイズなのか境界が曖昧になる。「Battle」も長くて、グルーヴと電子処理の中を漂う。Grahamがギターを取り戻した『Blur』から、さらにそのギター自体を素材化している。
その一方で「Tender」はゴスペル的なコーラスを使って、ものすごく開かれた曲になる。英国的な皮肉はほとんどない。むしろ助けを求めるような直接性がある。Damonのキャリアを考えると、これは大きな変化です。
「No Distance Left to Run」はさらに裸ですね。アレンジは抑制され、声の疲労感が前へ出る。『Parklife』のDamonなら、失恋を別の人物へ投影して書いたかもしれない。でもここでは逃げない。音響的な実験が増えたのに、感情はむしろ直接的になるという逆説があります。
だから『13』は、英国性を壊した結果として自由になった作品であると同時に、メンバー間の緊張が音に出ている作品でもある。自由になればバンドが楽になるわけじゃないんですよね。むしろ共通のスタイルを失うと、「じゃあ4人は何で一緒にいるのか」という問題が出てくる。
その意味では、ブリットポップという共通言語は窮屈だったけれど、同時にバンドをまとめる枠でもあった。壊した後には別の結束を作らなければならない。『13』はその過程の不安定さまで含めて魅力的なんだと思います。
「英国らしさ」を壊したのに、なぜBlurはもっと英国的に見える瞬間があるのか
面白いのは、Blurがブリットポップ的な英国性から離れた後も、完全に無国籍になったわけではないことです。Damonの発音も、メロディの作り方も、ユーモアの感覚も消えない。だから「Beetlebum」や「Coffee & TV」がアメリカン・インディーの影響を受けていても、アメリカのバンドには聞こえない。
それはGrahamのギターも同じです。PavementやSonic Youthから影響を受けても、彼のコード感やフレーズにはThe BeatlesやThe Kinksを通った英国のポップ感覚が残っている。影響源を変えても、手の癖までは消えない。むしろ意識的な英国性を捨てた後の方が、自然な英国性が残った感じがします。
音響的にも面白いです。『Blur』や『13』では国籍の記号としての音は減るけれど、曲の中にあるメランコリーや皮肉な距離感は残る。つまり文化的アイデンティティって、引用する楽器や歌詞の地名だけではないんですよね。もっと深いリズムやメロディの癖に宿る。
私はそこがこのテーマの核心だと思います。『Parklife』期のBlurは「英国を描く」ことで英国的だった。『Blur』以降は「英国を描かなくても英国的」になった。前者は意識的な文化表現、後者は身体化された感覚です。
だから壊した結果、むしろ本質が見えたとも言えるんですよね。ブリットポップの記号を全部外してもBlurに聞こえるなら、彼らの個性はそこより深かったということです。
「Coffee & TV」でGraham Coxonは別のBlurを見せた
『13』の「Coffee & TV」は、Grahamがヴォーカルを取ることで、Damon中心のBlur像を少しずらした曲です。ギターはジャングリーで、メロディもかなりポップ。でも音は『Parklife』のようにきれいに整えられず、少しざらついている。僕はこの曲に、ブリットポップの別の可能性を感じます。
歌詞もかなり個人的ですね。社会風刺ではなく、自分の居場所や日常の小さな安定を求める。ミュージックビデオも含めて親しみやすいけれど、実際の感情には孤立感がある。Damonの大きな文化的視点とは違う、もっと内向的な英国性です。
音響的にはすごくバランスがいい。ギターは前に出るけれど、歪みで全部を埋めない。ベースとドラムもシンプルで、ヴォーカルが自然に乗る。『13』の中では比較的ストレートな曲だけれど、周囲の実験的な曲を通過して聴くと、逆にこの素朴さが新しく聞こえます。
Grahamが歌うと、Blurの「知的で皮肉な英国バンド」というイメージが少し崩れるんですよね。もっと不器用で、ナード的で、内向的な部分が出る。バンドに複数の人格があることが見える。
それは英国性を一つのタイプに固定しないという意味でも大きいです。『Parklife』期にはDamonの観察眼が強すぎて、Blurの英国像が彼一人の視点に見えやすかった。「Coffee & TV」は、同じバンドの中に別の英国人像がいることを示した。英国性を壊した結果、英国性が複数形になったんです。
ブリットポップの「勝利」はなぜ長く続けられなかったのか
ブリットポップ全体を考えると、1994年から96年くらいの文化的高揚はものすごく強かった。でも、あの「英国文化が再び中心に来た」という勝利の感覚を長く続けるのは難しい。音楽はすぐに自己引用を始めるし、ファッションも広告も同じ記号を使うようになる。反応だったものが制度になるんです。
ギター・バンドもそうです。最初はアメリカのグランジやシューゲイズの後で、英国のメロディや言葉を前に出すことが新鮮だった。でも成功すると、60年代風のコードやジャケットを使うだけで「ブリットポップらしい」バンドが増える。Blurが一番嫌ったのは、たぶん自分たちがそのテンプレートになることだったんじゃないかな。
技術面でも、90年代後半には電子音楽やDJ文化がさらに大きくなっていました。The Prodigy、Underworld、Chemical Brothersのような存在が、ロックとクラブの境界を別の形で更新している。そこで「英国らしいギター・ポップ」を守るだけだと、むしろ保守的に見える可能性がある。
だからBlurの転換は、ブリットポップへの裏切りというより、ブリットポップが成功したことで古くなったという判断だったと思います。自分たちが勝利した瞬間に、その勝利の形式を疑った。これはかなりBlurらしい。
Oasisは同じ時期に巨大なロック・アンセムをさらに拡大していくけれど、Blurは逆に規模を壊す。どちらが正しいという話じゃない。成功後に何を信じるかが違ったんです。
『Blur』は自己否定ではなく「自分たちを定義し直す」作品だった
『Blur』というセルフタイトルも意味深ですよね。普通ならデビュー作か原点回帰で使いそうな題名を、四作目の大きな転換点で使う。「これが本当のBlurです」と言うより、「Blurという名前をもう一度空にしてみる」という感じがある。
その通りだと思います。セルフタイトルなのに、過去の最も典型的なBlurから遠い。だからアルバム名がブランド確認ではなく、ブランド解除として機能する。音も曲ごとにかなり違うし、統一性を「英国的ポップ」という枠で作っていない。
それに成功後のセルフタイトルというのは、自分たちの所有権を取り戻す行為にも見えます。メディアやファンが「Blurとはブリットポップのこういうバンド」と定義した後で、本人たちがもう一度名前を取り返す。だから『Blur』は自己否定というより、他人による定義の否定なんでしょうね。
そして曲の質は落ちていない。「Beetlebum」「Song 2」「On Your Own」「Death of a Party」「You’re So Great」と、それぞれ違う方向へ行きながらバンドの核は残る。これがもし散漫なだけだったら、英国性を捨てたことが失敗に見えた。でも実際には別の強さが出た。
つまり、彼らは「英国性を失ったら何も残らない」という恐怖を試したんです。そして結果として残ったものが、Damonのメロディ、Grahamの不安定なギター、Alex Jamesのベース、Dave Rowntreeのリズムだった。それがBlurの本体だった。
最高傑作は『Parklife』か『13』か
最高傑作を一枚選ぶなら、私は『Parklife』です。理由はブリットポップの代表作だからではなく、社会観察、ポップ性、実験性、ユーモアが最もバランス良く入っているから。「Girls & Boys」から「This Is a Low」まで振幅が大きいのに、一つの英国の風景として成立している。Blurが英国性を作り上げた作品として、やはり特別です。
僕は『13』を選びます。バンドとしての関係は一番危ういけれど、ギターも作曲も音響も予測できない。「Tender」の巨大さから「Bugman」のノイズ、「Coffee & TV」のポップ、「Battle」の実験性まで、一枚の中で全部やっている。Grahamのギターも一番自由です。
私は『Blur』です。『Parklife』のような文化的統一感も、『13』のような音響的極端さもないけれど、転換点として一番美しい。古い自分たちを壊しながら、新しいスタイルへ固定される直前にいる。「Beetlebum」と「Song 2」が同じアルバムにあること自体、その自由を示しています。
初心者向けなら『Parklife』でしょうね。Blurがなぜブリットポップを象徴したのかが分かる。その後『Blur』へ行くと、彼らが何を壊したかったのかが具体的に聞こえる。二枚を並べることで、このバンドの本質がかなり見えます。
一曲だけなら僕は「Beetlebum」です。ブリットポップのスターだったバンドが、最も得意な方法を一度手放し、それでも美しいポップ・ソングを書けた。その事実が一曲に入っている。
私は「Tender」です。英国的な皮肉やキャラクターをかなり捨て、ゴスペル的なコーラスを使って、ほとんど裸の感情を大勢で歌える曲にした。Blurが英国性の外へ出た後に獲得した別の普遍性だと思います。
過小評価された曲に見える「英国性の解体」
過小評価された曲なら「Death of a Party」を挙げたいです。タイトルからしてブリットポップの宴の終わりを連想させるけれど、曲自体もかなり冷たい。ギターは前へ出ず、リズムと鍵盤の反復が中心で、Damonの声も疲れている。『Blur』の転換を一番静かに象徴している曲です。
私は「He Thought of Cars」です。『The Great Escape』の時点で、すでに後のBlurにつながる孤独がある。都市や交通という英国的な題材を扱っているのに、キャラクター・ソングの軽さより疎外感が強い。だから『Blur』への変化は突然ではなかったと分かります。
私は「Caramel」です。『13』の中でも長く、構造が崩れていて、ポップ・ソングというより感情の状態が続く。音響が変形していくことで、Damonの声も人格も少しずつ溶ける。ブリットポップ期の「明確な人物を描くバンド」から最も遠いところまで行った曲の一つです。
そう考えると、Blurの歴史って「英国性を得て、捨てた」という単純な線じゃないんですよね。初期からいろいろな音を試していたし、『The Great Escape』の中にも崩壊の兆候がある。『Blur』はそれを表面化しただけです。
そして壊した後も、英国性そのものは消えなかった。むしろ、地名や階級描写や60年代引用に頼らなくても、自分たちは十分Blurだった。そこまで確認できたから、その後DamonはGorillazやさまざまな音楽へ向かえたし、Blur自体も後に過去をもっと自由に扱えるようになったんだと思います。
対談を終えて
Blurがブリットポップの成功後に自分たちの英国性を壊そうとしたのは、英国文化への関心を失ったからではない。『Parklife』で有効だった社会観察、階級意識、60年代英国ポップへの参照、皮肉なキャラクター描写が、『The Great Escape』とブリットポップの巨大化を経て「Blurらしさ」という商品に変わり始めたからだ。観察者だったバンド自身が、英国文化の象徴として展示されるようになった。その瞬間、同じ方法を続けることは成功ではなく自己模倣になりかねなかった。
そこでGraham Coxonはアメリカン・インディーの粗さやノイズを持ち込み、Damon Albarnは他人を描く安全な位置から降り、自分自身の脆さや疲労へ向かった。『Blur』では英国性という外殻を壊し、『13』ではギター・バンドという構造さえ揺らした。しかし、その過程でBlurは無国籍になったわけではない。メロディ、発音、皮肉、ギターの癖、感情の距離感には、意識的に演出する以前の英国性が残った。彼らが壊したのは「英国らしさ」そのものではなく、英国らしく見えるための記号だった。ブリットポップを否定したから生き残ったのではない。ブリットポップの成功を最終回答にしなかったからこそ、Blurは一時代の象徴から、その時代を自ら越えていくバンドになれた。

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