Weezerはなぜ「ダサさ」をポップミュージックの武器にできたのか──オルタナ以後の自己像

※本記事は生成AIを活用して作成されています。
TUNESIGHT DIALOGUE

※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。


weezerほど、「格好良くなりきれないこと」をそのままポップ・ミュージックの魅力へ変えたバンドも珍しい。1994年のデビュー作『Weezer』、いわゆる『Blue Album』には、「Buddy Holly」「Undone – The Sweater Song」「Say It Ain’t So」といった巨大なフックを持つ曲が並ぶ。一方、その中心にいるRivers Cuomoは、典型的なロックスターのように性的な自信や反抗的なカリスマを振りまくのではなく、気まずさ、嫉妬、失敗、オタク的な趣味、対人関係の不器用さを前面に出した。Nirvanaによってハードロック的なスター像が一度崩された後、Weezerはさらに別の方向へ進み、「アウトサイダーであること」さえ格好良く演出しすぎないロックを作った。では彼らの「ダサさ」は、なぜ単なる自己卑下ではなく、大勢が歌えるポップの武器になったのか。今回はAlex、Sophie、Marcusの3人が、ギター、メロディ、ファッション、ユーモア、男性性、そして『Pinkerton』以後の自己像から考える。

Weezerの「ダサさ」は本当に自然発生だったのか

Alex

Weezerを「ダサいバンド」と言うとき、最初に気をつけたいのは、彼らが何も考えず普通にしていたら結果的にダサかった、という話ではないことです。『Blue Album』の時点でサウンドはかなり計算されている。Ric Ocasekのプロデュースも含め、ギターは分厚いし、コーラスは異常に強い。見た目や歌詞は脱力していても、レコード自体はものすごくポップに作られている。そのアンバランスが重要なんです。

Sophie

そうですね。デビュー当時の彼らの見た目も、「ロックスターらしくない」という意味ではかなり意識的に機能していたと思います。カーディガン、シャツ、眼鏡、地味な立ち姿。グランジにも反ファッション的な服装はありましたが、Kurt Cobainにはそれでも危険なカリスマがあった。Rivers Cuomoの場合は、もっと学校や大学の廊下にいそうな人物として見える。その近さが新しかった。

Marcus

僕は「ダサさ」というより、「自分がクールであることを証明しようとしない態度」と考えたいですね。ヒップホップでも、自己神話化は重要な表現ですが、Weezerはほぼ逆をやる。欲望も失敗も隠さないし、主人公が状況を支配していない。それでも曲のコーラスだけは堂々としている。その結果、人物は弱いのに音楽は強いという構造ができる。

Alex

そこがギターでも面白い。「My Name Is Jonas」や「The World Has Turned and Left Me Here」を聴くと、Riversは全然ギターが弱い人じゃないんですよ。むしろリフもコードもかなりしっかりしている。でも技巧を見せるための音ではなく、メロディを巨大にするために使う。ギター・ヒーローにはならないけれど、ギター・ポップとしては相当強い。

Sophie

だからWeezerの「ダサさ」は能力不足の別名ではないんですよね。能力があるのに、従来のスター像を演じない。その余白に、90年代半ばの若者が自分を重ねられた。そこが単なるコミック・バンドと違います。

『Blue Album』はなぜあれほど「普通」なのに異様に強かったのか

Alex

『Blue Album』の凄さは、使っている材料がすごく普通なことです。パワーコード、ハーモニー、短いギター・ソロ、ヴァースとコーラス。Pixies以後の静と動もあるし、Cheap Trickのようなパワー・ポップにもつながる。でも、その普通の材料をものすごく効率よく配置している。「Buddy Holly」なんて、コード進行や構成だけなら奇抜じゃない。でも一回聴いたらサビを忘れない。

Marcus

僕はそこにリズムの分かりやすさも感じます。Weezerはファンクするバンドではないし、ドラムも複雑じゃない。でも曲のフックがどこに来るかが非常に明確だから、身体的な期待が作られる。ヴァースで少し引いて、コーラスで広がる。感情の構造がリズムと音量に直結しているんです。

Sophie

しかも歌詞の主人公は、その大きなコーラスに見合うほど「大きな人物」ではないんですよね。普通のロックなら、巨大なサビは勝利や解放に使われる。でもWeezerでは、嫉妬や恥ずかしさや不器用な恋愛感情が巨大化する。そのため「こんなことでこんなに大げさになっていいのか」という可笑しさが生まれる。

Alex

「The World Has Turned and Left Me Here」がまさにそうです。タイトルだけでもかなり大げさでしょう。でも実際の感情は、誰かとの関係がうまくいかなかったという非常に身近なものです。そこへ分厚いギターを乗せることで、十代や二十代の小さな失敗が世界の終わりくらい大きくなる。僕はそれがWeezerの基本だと思います。

Marcus

その大げささがユーモアになるけれど、感情自体を笑っているわけではないんですよね。「こんなことで悩む自分は馬鹿だ」と距離を取るだけなら、聴き手も距離を取ってしまう。でもWeezerは、馬鹿馬鹿しいと分かっていながら本気で傷ついている。そこに共感できる。

「Buddy Holly」はなぜロックの自己像を壊したのか

Sophie

「Buddy Holly」は曲も重要ですが、Spike Jonzeによるミュージックビデオまで含めてWeezerの自己像を決めたと思います。『Happy Days』の世界へバンドを合成して、1950年代的なアメリカのテレビ文化の中に彼らを置く。90年代のオルタナティブ・バンドが、最新の反抗的な若者として自分を見せるのではなく、わざと時代錯誤な場所に入り込むんです。

Alex

しかも曲名が「Buddy Holly」で、歌詞にはMary Tyler Mooreまで出てくる。そこだけ切り取ると、ロックの格好良さからかなり遠い。でもギターは強いんですよ。コーラスの広がりもあるし、間奏のソロも短いけれど印象的。つまり音の方では一切謝っていない。

Marcus

そこが大事です。もし曲まで弱かったら、「僕たちはナードです」という自虐で終わる。でも音楽は堂々としている。だから歌詞の自己像が反転するんです。「俺はクールじゃない」ではなく、「クールじゃないまま、これだけ強い曲を鳴らせる」に変わる。

Sophie

90年代半ばという時代を考えると、それはかなり意味があったと思います。オルタナティブは80年代的なロックスター像を壊したけれど、そのオルタナティブ自体にも新しい格好良さが生まれていた。破れた服、無表情、地下文化への知識、反商業主義的な態度。Weezerはそこからさらに外れて、「その新しいクールさにも自分は完全には馴染めない」と見せた。

Alex

だから僕には、Weezerはポスト・グランジというより「オルタナ以後のパワー・ポップ」に聞こえます。Nirvanaが「スターであることへの不信」を持ち込んだ後で、Weezerは「スターになれない人間でもロックの中心に立てる」とやった。そこは似ているようで違う。

Marcus

しかも「Buddy Holly」は大勢で歌えるでしょう。個人的な不器用さが、コーラスでは共同体になる。ダサい主人公が一人で縮こまるのではなく、そのダサさを何千人も一緒に歌う。その変換がWeezerの強さです。

「Undone」は自虐なのか、それとも観客への罠なのか

Marcus

「Undone – The Sweater Song」は、Weezerのユーモアを考えるならすごく重要です。曲のアイデアはセーターの糸がほどけていくという、ほとんど馬鹿みたいに単純なイメージですよね。でもそれを人格の崩壊みたいな感覚へつなげる。日常的なものと精神的なものの距離が異常に近い。

Sophie

冒頭や途中に会話が入るのも面白いです。曲の「作品らしさ」を一度壊して、パーティーや学生生活のような雑然とした空気を持ち込む。そこにRiversの歌が入ると、みんなが適当に楽しんでいる場所で一人だけ妙に内面へ沈んでいる人物に見える。その社会的な居心地の悪さが、Weezerらしい。

Alex

ギターもヴァースではかなり抑えていて、コーラスで一気に分厚くなる。構造自体はPixies的だけれど、感情の使い方が違う。爆発するのは怒りというより、もうどうでもいいという脱力と自己崩壊です。重いギターを「強さ」の表現に使わないんですよ。

Marcus

僕はタイトルに“sweater”を選ぶ感覚が好きですね。レザージャケットでも武器でも車でもない。セーターですよ。ロックの象徴として最も弱そうなものを中心に置く。でも、そのセーターがほどけることを世界の崩壊みたいに鳴らす。このスケールの不一致がユーモアになる。

Sophie

そして、そのユーモアが感情を無効化しない。聴き手は笑えるけれど、同時に「自分も小さなことで全部が崩れるように感じたことがある」と思える。Weezerは自虐を使って、感情から逃げるのではなく感情へ入る敷居を下げたんです。

Rivers Cuomoはなぜ「告白」を格好良くしすぎなかったのか

Sophie

Riversの歌詞って、告白的と呼ばれることが多いけれど、私はそこにかなり不器用な自己演出があると思います。彼は自分の弱さを詩的に美化しすぎない。嫉妬は嫉妬のまま出るし、性的な欲望も洗練された比喩に隠さない。そのため、ときどき聴き手が「そこまで言うのか」と引く。その危うさが重要です。

Marcus

そうですね。普通の自己告白ソングは、聴き手が共感しやすい形に整える。自分の痛みをある程度普遍化する。でもRiversは、ときどき普遍化の前に自分の恥ずかしい部分を出してしまう。だから優れた歌詞と不快な告白の境界が近いんです。

Alex

僕はそれが『Pinkerton』で完全に表に出たと思います。『Blue Album』ではまだRic Ocasekのプロダクションもあって、サウンドが非常に整っている。だからRiversの不器用さがポップの中に収まっている。でも『Pinkerton』では音も荒くなるし、歌詞もより個人的になる。逃げ場が減るんですよ。

Sophie

そこが「ダサさ」を武器にすることの危険でもありますね。自分の恥を出せば常に誠実になるわけではない。時には自意識の狭さや、他人を自分の欲望の中でしか見ていない部分も出る。『Pinkerton』が後に熱狂的に支持された理由の一つは、その不完全さまで露出しているからでしょう。

Marcus

僕はそこを「弱さの倫理」と呼びたい気もします。弱い立場にいるから正しいわけではない。孤独だから他人を傷つけないわけでもない。Riversの歌詞は、自分を格好悪く見せることで免罪されようとはしていない瞬間がある。そのため聴き手も簡単には安心できない。

Alex

それでもメロディがすごく強いんですよね。どれだけ歌詞が不安定でも、コーラスになると一緒に歌いたくなる。この「感情的には面倒な人物なのに、曲は完璧にポップ」という矛盾がWeezerの中心だと思います。

『Pinkerton』は「ダサさ」をどこまで危険なものにしたのか

Alex

『Pinkerton』は1996年に出たとき、『Blue Album』よりずっと荒いですよね。ギターの輪郭も生々しいし、演奏もスタジオで整えすぎていない。僕はあの音が好きです。「Tired of Sex」の冒頭から、前作のクリーンなパワー・ポップとは違う。音そのものに疲労と苛立ちが入っている。

Sophie

しかもアルバム全体が、Riversの自己像をかなり壊します。成功したロックスターになったのに、満たされていない。異性との関係でも自信がなく、欲望を持て余している。普通ならデビュー作で成功した後は、より大きなスター像を作るでしょう。でも『Pinkerton』は、成功しても「自分はやっぱりうまく生きられない」という方向へ行く。

Marcus

そこが当時は受け入れにくかったのも分かります。音も歌詞も、聴き手に親切ではない。『Blue Album』ではダサさがキャッチーなキャラクターとして機能していたけれど、『Pinkerton』ではもっと生々しい。笑えない瞬間が増える。自己卑下ではなく自己露出になるんです。

Alex

「Across the Sea」なんて特にそうですね。メロディは素晴らしいし、演奏も好きだけれど、歌詞の距離感はかなり危うい。だから僕は、あのアルバムを「正直だから全部良い」と簡単には言いたくない。ただ、その不快さを含めてRiversが自分の理想的なロックスター像を壊しているのは確かです。

Sophie

「El Scorcho」も重要ですよね。オタク的な参照、恋愛のぎこちなさ、自意識過剰な語りが全部一緒にある。普通なら隠したくなる部分を、堂々とサビにしてしまう。しかもサウンドは弱くない。そのため「これは恥ずかしいから小さく言う」という常識が崩れる。

Marcus

だから『Pinkerton』は、後のエモやインディー・ロックにとって大きかったんだと思います。男性の弱さや対人関係の不器用さを、ハードなギターの中でそのまま出す。それまでのロックにも弱さはあったけれど、ここまで「格好悪く見えること」を恐れずに前へ出した作品は、90年代半ばではかなり特異です。

Weezerのギターはなぜ「ナード」の音に聞こえないのか

Alex

Weezerの面白いところは、外見や歌詞はナード的なのに、ギターだけ聴くとかなり肉体的なことです。RiversのリードもBrian Bellのリズムも、基本的には太い。Mesa/Boogie系の歪みも含めて、音が細くない。「Say It Ain’t So」のコーラスなんて、ほとんどハードロック的な重量がある。

Marcus

そこはすごく重要ですね。「弱い人物が弱い音を出す」のではない。むしろ自信のない人物が、音楽になると巨大になる。その変換があるから、聴き手も自分の弱さをそのまま肯定するだけではなく、別の力に変換できる。

Sophie

それにロックの男性性を完全に拒否したわけでもないんですよね。大音量のギターも、力強いドラムも使う。ただ、その力を性的な支配やマッチョな自己演出へ結びつけない。だから形式は古典的なロックなのに、中に入っている人物像が違う。

Alex

「Say It Ain’t So」のソロもそうです。ちゃんとギター・ソロがあるけれど、ヒーロー的に長々とは弾かない。曲の感情が最大になるところで短く出てきて、すぐ歌に戻る。Weezerはギターを否定しないけれど、ギターが主人公になることも許さないんです。

Marcus

結果として、「ギターが大きい=俺は強い」という関係が切れる。ギターが大きいのは、感情が大きいからなんですよ。怖い、恥ずかしい、嫉妬している、寂しい。その感情がアンプを通して巨大になる。これはエモ以降のロックにもかなり重要な感覚だと思います。

Alex

そう。だから僕はWeezerのギターを、パワー・ポップとハードロックの中間として聴きます。メロディはすごく甘いのに、音の密度は軽くない。このギャップがあるから、「ダサい」というイメージがただのコミカルな演出にならず、音楽的な説得力を持つんです。

「Say It Ain’t So」はなぜ家庭の傷をアンセムにできたのか

Marcus

Weezerの弱さが大衆的な強さに変わる例として、「Say It Ain’t So」は外せないですね。歌詞の核には、家庭やアルコールにまつわる個人的な不安がある。かなり私的な話なのに、曲はスタジアムで大勢が歌えるくらい大きい。このスケールの変換がすごい。

Sophie

しかもヴァースではかなり抑制されていますよね。Riversは自分の家庭史をドラマチックに演じるのではなく、断片的なイメージから入る。それがコーラスで一気に感情へ変わる。説明しすぎないから、聴き手が自分の経験を入れられる余地がある。

Alex

ギターの構成も完璧です。クリーン寄りのヴァースから、コーラスで歪みが広がる。Nirvana以後の静と動ではあるけれど、「Smells Like Teen Spirit」のような怒りの爆発とは違う。もっと恐怖に近い。「お願いだからそうじゃないと言ってくれ」という感情が、音量差になっている。

Marcus

僕はその言葉の弱さが好きです。主人公は状況を変えられない。「こうしてやる」ではなく、「そうじゃないと言ってくれ」と頼んでいる。ロックの歌詞としてはかなり受動的です。でもコーラスを全員で歌うと、その頼みが巨大な叫びになる。

Sophie

そこがWeezerの自己像なんですよね。彼らは「弱い自分を克服した」とは歌わない。弱いまま、その感情に音量を与える。だから聴き手も強い人物へ変身しなくていい。自分のまま大きな曲を歌える。

Alex

それが90年代以降のロックにかなり大きな影響を与えたと思います。ギターを鳴らすには反抗的でなければならない、という条件がなくなる。傷ついたり恥ずかしがったりしている人間でも、MarshallやMesa/Boogieを大音量で鳴らしていい。その許可をWeezerは与えた。

なぜユーモアが「自己憐憫」を防いだのか

Sophie

Weezerがずっと暗いバンドにならなかった理由の一つがユーモアです。『Blue Album』では特に、自分の状況を少し外側から見る視点がある。「Buddy Holly」の時代錯誤な引用も、「Undone」のセーターもそう。悲しさを笑い飛ばすのではなく、悲しい自分の姿を少し滑稽に見せる。

Marcus

自己憐憫って、語り手が自分の苦しみだけを唯一の真実として扱うと重くなるんですよ。Weezerはそこに「自分もかなり変だよな」という視点を入れる。だから聴き手が同情を強制されない。共感してもいいし、笑ってもいい。

Alex

音楽でもそうです。ギターのリフは格好いいのに、歌詞で急に変な固有名詞や日常的なイメージが出てくる。その落差があるから、音が過剰に深刻にならない。Weezerって、サウンドだけならものすごく真面目なバンドなんですよ。

Sophie

ミュージックビデオもその役割が大きかったですね。彼らは90年代のオルタナティブに必要とされた「本物らしい苦悩」の顔をずっと見せるのではなく、テレビ文化やコメディの形式を使った。だから自分たちのナード性を観客に笑われる前に、自分たちで舞台化してしまう。

Marcus

ただ、その戦略が『Pinkerton』ではかなり薄くなる。それで急に痛みが直接見えてくる。後になって『Pinkerton』が評価されたのは、その無防備さが当時より理解されるようになったからだと思います。でも『Blue Album』の大衆性には、やっぱりユーモアという緩衝材が必要だった。

Alex

Weezerの最良の曲って、笑えるし、同時に本気で傷ついているんですよね。どちらかだけに決められない。その曖昧さが長持ちする理由だと思います。

「オルタナティブ」が新しい規範になった後に何をするか

Marcus

Weezerの歴史的な位置を考えると、「オルタナティブが勝った後のバンド」というところが大きいと思います。1991年の『Nevermind』以後、メインストリームのロックはすでに変わった。だから1994年に反ハードロック的な服装をするだけでは、新しくない。フランネルを着て無愛想にしても、それ自体が一つの様式になっている。

Sophie

そうなんです。オルタナティブは最初、既存のスター像への反対だった。でも成功した瞬間に、「オルタナティブらしく見えること」が新しい格好良さになる。Weezerはそこへ、眼鏡やカーディガンやポップ・カルチャーへの執着を持ち込んだ。「反体制的であることさえ得意じゃない人」の居場所を作ったんですよね。

Alex

音楽的にも、彼らはグランジの荒さをそのまま続けなかった。Cheap TrickやThe Carsみたいな、もっとメロディ中心のロックへ戻っている。でも90年代の歪みとダイナミクスがあるから、単なる80年代以前のパワー・ポップ復興ではない。古いポップの構造をオルタナ以後の音で鳴らしている。

Marcus

だから「クールではないこと」が新しいクールになるという逆説が生まれる。でもWeezerの場合、僕はそれを完全には成功物語として見たくない。Rivers自身はその後も、「人からどう見られるか」という問題から自由になったわけではない。むしろそれを何度も作品でやり直している。

Sophie

そこが面白いんですよね。もし「ナードであることを誇れ」という単純なメッセージなら、一度で終わる。でもWeezerはずっと、自分のイメージをどう扱うかで揺れる。人気者になりたい、でも格好つけると嘘っぽい。正直に書くと痛すぎる。ポップにすると軽く見える。その不安定さ自体がキャリアになる。

Alex

つまりWeezerは「ダサさを克服したバンド」じゃない。「ダサさと格好良さの境界を何度も行き来するバンド」なんです。だから後期作品まで評価が大きく割れるのも、ある意味では自然だと思います。

『Green Album』以後、ダサさは「様式」になってしまったのか

Alex

2001年の『Weezer』、いわゆる『Green Album』は面白い転換点です。『Pinkerton』の生々しさから一転して、またRic Ocasekを迎え、曲も短く、ギター・ポップとしてかなり整理される。「Hash Pipe」や「Island in the Sun」はすごく強い。でも僕には、ここから「Weezerらしさ」が一つの公式になり始めた感じもあります。

Sophie

それは自己像の問題でもありますね。『Pinkerton』であまりにも私的になり、そこから距離を取るために、人物像をもう一度フラットにしたように見える。『Blue Album』では自然に見えたナード的なイメージが、2000年代にはすでに「Weezerというブランド」として認識されている。その後は本人たちも、そのブランドを演じたり壊したりすることになる。

Marcus

ここで難しいのは、最初に武器だった自己意識が、成功すると市場に回収されることです。「格好悪い自分を歌う」というスタイルが売れるようになると、今度は格好悪さを期待される。これはNirvanaの反商業主義が商品化されたのと少し似ています。

Alex

ただ、Weezerはそこでずっと苦悩だけしているわけでもないんですよ。「Keep Fishin’」や後の「Pork and Beans」みたいに、自分たちのイメージをかなり楽しんで扱うこともある。深刻な自己否定ではなく、セルフ・パロディへ行く。その軽さもこのバンドらしい。

Sophie

でもセルフ・パロディには危険もあります。最初の「ダサさ」は、自分が世界に馴染めないという切実な感覚から出ていた。それが「Weezerといえばこういう面白いオタク文化」とパッケージ化されると、痛みがキャラクターへ変わる。そこに違和感を持つ古いファンがいるのも理解できます。

Marcus

だから『Blue Album』と『Pinkerton』が特別視される理由の一つは、まだ自己像が固定されていなかったことだと思います。バンドが自分たちのキャラクターを完全には理解していない。その不安定さが、後から見るとすごく人間的なんです。

「El Scorcho」はなぜ後のエモにこれほど近く聞こえるのか

Marcus

『Pinkerton』の中で後続への影響を考えるなら、「El Scorcho」はかなり象徴的です。曲の主人公は、自信を持って相手へ近づけない。相手についていろいろ観察し、自分との共通点を見つけ、頭の中で関係を膨らませる。でも実際のコミュニケーションはぎこちない。これは後のエモで何度も出てくる男性像にかなり近い。

Sophie

しかも、趣味の一致が親密さの入口になるんですよね。相手を抽象的な美の対象として歌うより、「同じ音楽や文化が好きだから自分を理解してくれるかもしれない」と考える。オタク的な自己像では、趣味は単なる飾りではなく人格の核心です。

Alex

音楽も面白くて、ヴァースはかなり変な間があるし、そこからコーラスでは一気にメロディが開く。Riversの作曲って、人物がうまく話せないときほどサビが大きいんですよね。現実で言えないことを、曲の中では巨大に言える。

Marcus

そこがエモにつながります。日常生活では内向的で、対人関係に弱い。でも音楽になると感情は極端に大きい。ギターは爆発し、コーラスは叫べる。だから「弱い男性性」が音楽の中で別の身体を手に入れる。

Sophie

ただ、その系譜には批判的に見るべき部分もあります。内向的な男性の感情を中心に置くことで、相手の女性がその感情を映す鏡になってしまうことがある。『Pinkerton』にはまさにそういう危うさがある。後のエモにも似た問題が繰り返される。

Marcus

そう。だからWeezerの「ダサさ」を単純に解放的なものとして祝うだけでは足りない。自己像を弱く見せることと、他人を対等に見ることは別問題です。その矛盾まで含めて影響力なんだと思います。

「Pork and Beans」でWeezerはついに自分のダサさを所有したのか

Sophie

後年のWeezerを考えるなら、2008年の「Pork and Beans」はかなり象徴的です。他人からどう見られるか、自分が何をすべきだと言われるかに対して、もう好きにするという態度を歌う。ミュージックビデオも当時のインターネット文化の人物やミームを大量に取り込んでいて、初期のナード性がWeb時代の大衆文化と接続している。

Marcus

ここでは自己卑下より自己受容が強いですね。『Blue Album』では「自分は格好良くないけれど、これが自分だ」という感じだった。『Pinkerton』ではそれが苦痛になった。でも「Pork and Beans」では「格好悪いと思うなら勝手にどうぞ」と言える。その意味で、かなり後になって初めて初期の自己像を自分で所有できたようにも見える。

Alex

音楽的にも面白いですよ。リフは単純で、コーラスもすごく覚えやすい。Weezerが何十年もやってきたことを、ほとんど意図的に単純化している。ギターもメロディも「これがWeezerです」という感じ。でも、その公式化を本人たちが楽しんでいるから、嫌味にならない。

Sophie

ただ、初期の切実さとは別物ですよね。1994年には「ダサくてもいい」という文化的な意味がまだあった。でも2008年には、ナード文化自体がかなり大衆化している。インターネット、ゲーム、コミック、オタク的な知識が、必ずしも周縁的なものではなくなっている。Weezer自身が時代に追いつかれたとも言える。

Marcus

そこが面白い。最初は彼らの「ダサさ」がカウンターだったのに、後にはそれが主流文化の一部になる。するとWeezerはもう「ナードであること」だけでは新しくない。だからキャリア後半では、曲そのものの強さやセルフ・パロディの巧さがより問われるようになる。

Alex

それでも彼らが残ったのは、最初からキャラクターだけのバンドではなかったからです。メロディを書く能力がある。どれだけイメージが変わっても、良いコーラスを書ければWeezerになる。その基礎が強いんですよ。

最高傑作は『Blue Album』か『Pinkerton』か

Alex

僕は最高傑作なら『Blue Album』です。『Pinkerton』の方が個人的には刺さる瞬間もあるけれど、バンドとしてのバランスはデビュー作の方が上だと思う。Riversのメロディ、Matt Sharpのベース、Patrick Wilsonのドラム、Brian Bellを含むギターの厚み、それにRic Ocasekの整理されたプロダクションが全部噛み合っている。何より、ダサい自己像と巨大なポップ・サウンドの距離が一番美しい。

Sophie

私は『Pinkerton』を選びます。完成度なら『Blue Album』だと思う。でもWeezerが後世に与えた「失敗している自分をそのまま作品にしていい」という影響は『Pinkerton』の方が大きい。聴きにくい部分や倫理的に気になる部分も含めて、人格が整えられていない。その危うさが後のインディーやエモに深く入った。

Marcus

僕は『Blue Album』ですね。理由は大衆性です。アウトサイダーの自己像を、アウトサイダーだけが理解できる暗号にしなかった。「Buddy Holly」も「Undone」も「Say It Ain’t So」も、誰でもコーラスへ入れる。孤独やダサさを共同体へ変換する能力では、こっちの方が完成していると思います。

Alex

初心者向けも当然『Blue Album』でしょうね。Weezerのメロディ、ギター、ユーモア、自己像が全部ある。その後『Pinkerton』へ行くと、同じ人物がそのポップな仮面を外したときに何が起きたかが分かる。二枚で一つの物語として聴ける。

Sophie

一曲だけなら私は「Buddy Holly」です。音、映像、歌詞、キャラクターの全部で、Weezerがどういうバンドだったのかが分かる。格好良く見せようとしないこと自体を、非常に巧妙なポップ・イメージへ変えた。その矛盾が一曲に入っています。

Marcus

僕なら「Say It Ain’t So」です。「ダサさ」というユーモアが薄い分、彼らの感情的な核が見える。弱い人物が大きなギターとコーラスを手に入れる。Weezerが単なるナード・コメディではないことを一番強く証明する曲だと思います。

過小評価された曲に見えるWeezerの本質

Alex

過小評価された曲なら「In the Garage」を挙げたいです。タイトル通り、自分の部屋やガレージにある趣味の世界へ閉じこもる曲で、KISSやゲーム的な固有名詞も出てくる。普通ならロックの歌詞に持ち込みにくい題材ですよね。でもギターは大きいし、コーラスには誇りがある。Weezerのナード性が一番素直に出ている。

Sophie

私は「The Good Life」です。『Pinkerton』の中で、内向的な人物がもう一度外の世界へ戻りたいと願う。自己嫌悪だけではなく、「こんな自分で終わりたくない」という欲望がある。Riversの弱さが単なる自己陶酔ではなく、時々そこから脱出しようとしていることが分かる曲です。

Marcus

僕は「Only in Dreams」ですね。『Blue Album』の最後に8分近い曲を置くのはかなり大胆ですが、あれはWeezerの「日常的な感情を異常な大きさへ膨らませる」能力の極端な例です。タイトル通り、現実では成立しない親密さが、後半の反復とギターによって巨大な幻想になる。

Alex

あの後半は本当にいいですね。ベースラインが繰り返され、ギターが少しずつ増え、最後に感情が爆発する。でもハードロックの勝利ではない。夢の中でしか成立しない関係を、音量だけで現実化する。その意味ではかなり切ない。

Sophie

そして、その切なさを「格好いい孤独」に仕上げすぎないところがWeezerなんです。主人公は最後までどこか不器用で、夢から出れば普通の人間に戻る。彼らのポップは、聴き手をスターに変えるのではなく、普通の人間の感情をスター級のサイズに拡大する。その違いが大きい。

対談を終えて

Weezerが「ダサさ」をポップ・ミュージックの武器にできたのは、格好悪さを自虐的なキャラクターとして見せただけではない。Rivers Cuomoが歌った嫉妬、不器用さ、趣味への執着、家庭への不安、恋愛での失敗は、分厚いギターと巨大なコーラスによって、私的な恥から共有可能な感情へ変換された。人物は自信がなくても、曲そのものは決して弱くない。この落差によって、「クールではない自分」を隠す必要がなくなった。

その意味でWeezerは、オルタナティブがメインストリームになった後に現れた次の自己像だった。反抗的なスターを拒否することさえ新しい格好良さになった時代に、彼らはそこからもう一段外れ、「オルタナティブ文化の中でもうまく格好良くなれない人」を中心に置いた。『Blue Album』ではそれをユーモアと完璧なポップへ変え、『Pinkerton』ではその自己像の危険や醜さまで露出した。Weezerの「ダサさ」が強かったのは、それを克服したからではない。ダサいまま、恥ずかしいまま、巨大なアンプとメロディを使って感情を拡大し、「こんな自分でもポップ・ソングの主人公になれる」と証明したところにあった。

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