1. 歌詞の概要
「Adderall」は、イギリスのポストパンク・バンド、Shameによる2023年のアルバム『Food for Worms』に収録されたトラックであり、この作品の中でも特に異色な存在感を放つ楽曲である。タイトルにある「Adderall」とは、実際に使用される処方薬の名称であり、注意欠陥・多動性障害（ADHD）やナルコレプシーの治療に使われる刺激薬である。だがこの楽曲では、その薬理的な意味を越えて、「焦点を保てない心」と「内面を麻痺させる現代」のメタファーとして用いられている。
曲調は他のShame作品に比べて遥かにスローで瞑想的、まるで夢遊病者のようにふらつきながら進んでいく。サウンドもアコースティックな響きと空白が多く、まるで時間が引き伸ばされたような感覚を聴き手にもたらす。焦点が合っていない、何かを掴みたくてもうまく指先が動かない——そんな感覚を歌詞と音が完璧にシンクロして描き出している。
2. 歌詞のバックグラウンド
アルバム『Food for Worms』はShameにとって、「自己の内側」から「他者との関係」へと視点が移動した作品とされているが、「Adderall」はその中でも例外的に“内面の暗闇”に深く降りていく曲である。バンド自身もこの曲について、精神のバランスが崩れたときの感覚、時間の感覚がゆがみ、すべてが過去の影のように感じられる瞬間を捉えたと語っている。
本楽曲の構成はシンプルだが緻密であり、ギターは乾いたアルペジオを繰り返し、ヴォーカルは呟くように、ほとんど壊れかけた言葉を投げる。その背後にあるのは、薬に頼るしかない心の疲弊、そしてそれに対する静かな問いかけである。薬名をタイトルにした挑発的な構えはあるが、その内実は決してラディカルではなく、むしろとても繊細で、痛々しいほど人間的だ。
3. 歌詞の抜粋と和訳
In the silence, I forget my name
Forget what I’m supposed to do
静けさの中で、名前を忘れてしまう
何をすべきかも、わからなくなる
My fingers trace the table’s edge
Like they’ve got something to prove
指先がテーブルの縁をなぞる
まるで、何かを証明したいかのように
Took the pill to stay awake
But I still sleep through the day
目を覚ますために薬を飲んだけれど
それでも一日中、眠っていた
I dream of motion without direction
A frame without the play
進むけど、どこへも行かない夢を見た
舞台のない、ただの枠だけの芝居
歌詞引用元：Genius – Shame “Adderall”
4. 歌詞の考察
この楽曲の詩的世界は、「喪失された自我」と「感覚の断絶」に満ちている。歌詞中で描かれるのは、もはや自分の名前すら思い出せないような深い疲労と、身体だけが動いているかのような虚無感。特に「I dream of motion without direction（方向のない運動の夢を見る）」という一節は、現代人が感じる“意味のなさ”や“惰性”の象徴として非常に鋭い。
この歌詞が示しているのは、単に薬物依存や精神疾患ではなく、もっと広く、現代に生きる者が誰しも感じうる「集中できなさ」「意味の揺らぎ」「存在感の希薄さ」といった問題である。Adderallという言葉は、そのすべての比喩となって機能している。
また、「My fingers trace the table’s edge（指先がテーブルの縁をなぞる）」という描写は、Shameらしいミニマルな比喩表現であるが、ここには“何かを実感しようとする”最後の試みのような、切実なリアリティがある。身体感覚を通して世界とつながろうとするが、そこに意味はなく、むしろ“動作だけが残る”という冷酷な現実を描いている。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Motion Sickness by Phoebe Bridgers
精神の不安定さを冷静に語る歌詞と、穏やかなメロディが胸を打つ。 - Don’t Swallow the Cap by The National
鎮静剤と感情のズレ、曖昧なまま進む日常を詩的に描いた、静かな名曲。 - Holocene by Bon Iver
世界と自己のスケール感がずれる感覚と、内省的な静けさが共鳴する一曲。 -
Higgs Boson Blues by Nick Cave & The Bad Seeds
意識の流れをそのまま歌詞にしたような構成が、「Adderall」の瞑想的テンションと似ている。 -
Everything in Its Right Place by Radiohead
“場所は正しいのに、すべてが間違っている”——そんな不穏な空気感が似通うサイケデリックな名曲。
6. 壊れかけた静けさの中の“叫び”
「Adderall」は、Shameというバンドがその表現領域を拡張した証である。それはもう、単に怒鳴ったり、爆音で叫んだりするだけのポストパンクではない。むしろ、“静かに壊れていくこと”の美しさと痛みを描こうとする、詩的な実験なのである。
この曲は、Shameの中でも最も“内省”という語にふさわしい作品だろう。狂騒の終わり、またはその間隙に訪れる“静かな絶望”を、彼らは淡々と、しかし確実に聴き手の胸へと運ぶ。テンポは遅く、音数は少なく、声はかすれている。けれどその中にある“叫び”は、誰よりもリアルで、切実である。
「Adderall」は、もはや薬の話ではない。それは、言葉が届かず、時間が止まり、感情が沈殿していくような、現代の孤独と麻痺の物語だ。Shameが見つめたのは、私たちが「正常」と呼ぶ日常の中にひそむ“精神的な溺死”なのかもしれない。だからこそこの曲は、静かに、しかし確実に、心の深部へと届いてくるのである。
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