
発売日:1984年12月11日
ジャンル:シンガーソングライター、フォーク、チェンバー・ポップ、ゴスペル、カントリー、シンセポップ
概要
Leonard Cohenの『Various Positions』は、1984年に発表された通算7作目のスタジオ・アルバムであり、彼のキャリアにおいて極めて重要な転換点となった作品である。1960年代末のデビュー作『Songs of Leonard Cohen』以降、Cohenはフォークを基盤に、愛、欲望、信仰、孤独、政治、死を詩的な言葉で歌うシンガーソングライターとして独自の位置を築いてきた。1970年代には『Songs of Love and Hate』の暗い内省、『New Skin for the Old Ceremony』の官能性、『Death of a Ladies’ Man』の過剰なプロダクション、『Recent Songs』の室内楽的な静けさを経て、Cohenの音楽はフォークの枠を少しずつ拡張していった。その流れの中で『Various Positions』は、1980年代的なシンセサイザー、ゴスペル的なコーラス、カントリーの穏やかな響き、ユダヤ教的・聖書的な言語を統合した作品として位置づけられる。
本作は、商業的な意味では発売当初から順調に受け入れられたアルバムではなかった。アメリカでは当初Columbia Recordsからのリリースが見送られたことでも知られる。しかし、後年の評価において『Various Positions』は、Cohenの中期から後期への橋渡しとして非常に重要な作品とされる。とりわけ「Hallelujah」の収録は決定的である。この楽曲は発売当初こそ大きなヒットにはならなかったが、のちにJohn Cale、Jeff Buckley、k.d. langなど数多くのアーティストによってカバーされ、20世紀後半以降のポピュラー音楽における最も重要な楽曲のひとつとなった。だが、本作の価値は「Hallelujah」だけに還元されるべきではない。アルバム全体には、Cohenが晩年に確立する低音ヴォーカル、宗教的言語、皮肉と祈りの同居、欲望と信仰の交錯が、すでに明確な形で表れている。
タイトルの『Various Positions』は、直訳すれば「さまざまな姿勢」「さまざまな立場」「さまざまな体位」といった意味を持つ。Cohenらしく、この言葉には複数の層がある。宗教的な祈りの姿勢、政治的な立場、恋愛や性における身体的な位置、人生に対する態度。これらがすべて重なり合う。Cohenの作品では、聖なるものと俗なるものが分離されることは少ない。祈りは身体を通じて発せられ、欲望は宗教的な言葉で語られ、恋人への呼びかけは神への呼びかけと混ざり合う。『Various Positions』というタイトルは、まさにその複数性を象徴している。
音楽的には、本作はCohenの1980年代的変化を示す作品である。1960年代から70年代の彼の音楽は、アコースティック・ギター、控えめな弦楽器、フォーク的な旋律が中心だった。しかし『Various Positions』では、シンセサイザーや電子的な鍵盤の音色が導入され、サウンドはより柔らかく、時にチープともいえる人工的な質感を帯びる。この変化は、次作『I’m Your Man』でさらに明確になり、Cohenの後期スタイルを決定づける。つまり本作は、フォーク詩人としてのCohenが、低音の語り手、暗いシンセ・ポップの預言者へと変わっていく途中にあるアルバムである。
また、本作におけるJennifer Warnesの存在は非常に大きい。彼女のバック・ヴォーカルは、Cohenの低く乾いた声に対して、柔らかく澄んだ光を与える。Cohenの歌声が地上の疲労や罪を背負う声だとすれば、Warnesの声はそれを包み込む天上的な響きとして機能する。この男女の声の対比は、本作の宗教性と官能性を深めている。特に「Hallelujah」や「If It Be Your Will」において、彼女の声は単なるコーラスではなく、祈りの空間を広げる重要な要素となっている。
歌詞面では、Cohenの宗教的関心が非常に濃く表れる。旧約聖書、新約聖書、ユダヤ教的な祈り、キリスト教的な赦し、恋愛と身体、政治的な暴力、老い、服従、自由。これらの主題が、極めて簡潔でありながら多義的な言葉で提示される。Cohenは教義を説明するのではなく、聖なる言葉を人間の弱さの中へ降ろす。神は遠くにいるだけではなく、恋人の身体、敗北、失敗、沈黙の中にも現れる。その姿勢が、『Various Positions』を単なる宗教的アルバムではなく、信仰と欲望の境界を探る作品にしている。
全曲レビュー
1. Dance Me to the End of Love
オープニング曲「Dance Me to the End of Love」は、Cohenの代表曲のひとつであり、本作の世界観を優雅に開く楽曲である。タイトルは「愛の終わりまで私を踊らせて」という意味を持つが、ここでの“end”は単なる恋愛の終わりではなく、人生の終わり、歴史の終わり、死の地点までを含む。曲調はワルツやタンゴを思わせる優雅なリズムを持ち、恋人同士のダンスのように聴こえる。しかし、その背後には死と歴史の影がある。
この曲は、ホロコーストの収容所で音楽家が演奏させられたというイメージから着想を得たとされることが多い。その背景を踏まえると、ダンスは単なるロマンティックな行為ではなく、極限状況の中でなお人間性を保とうとする儀式になる。Cohenはここで、愛と死、音楽と暴力、美と破壊を同時に歌っている。恋人に踊りを求める言葉は甘美だが、その甘美さは歴史的な暗さから切り離されていない。
音楽的には、シンセサイザーとヴァイオリン風の旋律、女性コーラスが、東欧的・ユダヤ的な雰囲気を作る。Cohenの低い声は、若き日のフォーク的な繊細さよりも、より老成した語りに近い。彼は情熱的に歌い上げるのではなく、静かに命令するように、あるいは祈るように言葉を置く。ここでのダンスは官能的であると同時に、葬送的でもある。
「Dance Me to the End of Love」は、『Various Positions』における聖と俗の交錯を最初に提示する曲である。愛のダンスは、死への同行でもある。美しい旋律は、歴史の傷を隠すのではなく、その上で鳴る。この二重性こそがCohenの表現の核心であり、本作の始まりにふさわしい楽曲である。
2. Coming Back to You
「Coming Back to You」は、静かで親密なバラードであり、Cohenの歌における帰還のテーマを扱った楽曲である。タイトルは「あなたのもとへ戻っていく」という意味を持つ。ここでの「あなた」は恋人とも、神とも、過去とも、自己の本質とも読むことができる。Cohenの歌詞では、愛の対象と宗教的な対象がしばしば重なり合うため、この曲も単純なラヴ・ソングには収まらない。
歌詞では、長い迷い、失敗、離反の後に、ある存在へ戻ろうとする人間の姿が描かれる。Cohenにとって帰還とは、無垢な場所へそのまま戻ることではない。人はすでに傷つき、罪を犯し、言葉を失い、関係を壊している。それでもなお戻ろうとする。その戻り方には、希望だけでなく、恥や疲労も含まれる。
音楽的には、柔らかなキーボードと控えめなコーラスが、曲に穏やかな光を与えている。Cohenの声は低く、少し距離を置いているが、そこに冷たさはない。むしろ、長く旅をしてきた人間が、ようやく小さな灯りを見つけたような響きがある。派手な展開はなく、曲は静かに進む。その抑制が、帰還の切実さを際立たせる。
「Coming Back to You」は、本作の中でCohenの柔らかい側面を示す曲である。宗教的な重さや皮肉よりも、ここでは関係を修復しようとする静かな意志が中心にある。ただし、その修復は完全なものではない。戻ることはできるかもしれないが、過去を消すことはできない。この曖昧さが、曲に深い余韻を与えている。
3. The Law
「The Law」は、本作の中でも特に重く、倫理的・宗教的な主題を扱った楽曲である。タイトルの“The Law”は、法、律法、掟、規範を意味する。Cohenにとって法とは、単なる社会制度ではなく、神の律法、道徳、欲望を制限する力、そして人間が破ってしまうものとして存在する。
歌詞では、法と愛、罪と罰、服従と反抗が絡み合う。Cohenは法を単純に否定しない。むしろ、法は人間に形を与えるものであり、同時に人間の弱さを露呈させるものでもある。人は法を知っているからこそ、自分がそれを破ったことを知る。罪悪感は、法の存在によって生まれる。この曲は、その重い構造を静かに歌っている。
音楽的には、低く抑えたリズムと暗い鍵盤が、荘厳で閉塞的な空気を作る。Cohenの声は、判決を読む者のようでもあり、同時に裁かれる者のようでもある。この二重性が重要である。彼は法を語る側にいるのではなく、法に触れ、傷つき、時に抗う側にもいる。
「The Law」は、『Various Positions』というタイトルの「立場」の問題とも関わる。人はどの位置から法を語るのか。裁く者としてか、裁かれる者としてか、祈る者としてか、愛する者としてか。Cohenはそのすべての位置を行き来する。この曲は、アルバムの宗教的・倫理的な緊張を支える重要な楽曲である。
4. Night Comes On
「Night Comes On」は、アルバムの中でも特に美しい叙情性を持つ楽曲であり、母、戦争、死、記憶、孤独が交錯する。タイトルは「夜が訪れる」という意味であり、夜は休息であると同時に、死や沈黙の比喩でもある。Cohenの歌において夜は、単なる時間帯ではなく、人生の終盤、魂の暗がり、祈りの場として機能する。
歌詞では、亡き母への呼びかけ、父の記憶、戦争へ向かうようなイメージ、そして自分自身の孤独が織り込まれる。Cohenの語りは非常に個人的でありながら、同時に神話的な広がりを持つ。母は個人の母であると同時に、慰め、赦し、帰属の象徴でもある。彼女の声は、夜の中で語り手を導くように現れる。
音楽的には、静かなギターと柔らかなコーラスが中心で、曲全体に祈りのような空気がある。Cohenの声は低く、淡々としているが、言葉の一つひとつに深い感情がこもる。大きく泣くのではなく、記憶を一つずつ取り出すように歌う。その抑制された語りが、かえって曲の悲しみを深くしている。
「Night Comes On」は、Cohenの作品における家族的記憶と宗教的想像力の融合を示す楽曲である。母の声、夜、死、戦争、祈りが一つの歌の中で自然に結びつく。アルバム全体の中でも、特に詩的完成度の高い一曲である。
5. Hallelujah
「Hallelujah」は、Cohenの全キャリアを代表する楽曲であり、『Various Positions』の中心に位置する作品である。現在では多くのカバーによって広く知られているが、オリジナル版は後年の壮大な解釈とは異なり、比較的抑制されたシンセサイザーとコーラスを伴う、静かで奇妙な重さを持つ録音である。
タイトルの“Hallelujah”は、ヘブライ語由来の「主を讃えよ」という意味を持つ賛美の言葉である。しかしCohenの「Hallelujah」は、単純な信仰の賛歌ではない。歌詞には、ダビデ王とバテシバ、サムソンとデリラを思わせる聖書的な物語が登場し、そこには欲望、裏切り、性的な力、失墜が絡む。聖なる言葉である「ハレルヤ」は、ここでは勝利の叫びだけでなく、敗北、失敗、性的な経験、孤独、諦念の中でも発せられる。
この曲の重要性は、「聖なるハレルヤ」と「壊れたハレルヤ」を同時に提示した点にある。人は完全に清らかな状態で神を讃えるだけではない。むしろ、失敗し、欲望に負け、愛に破れ、信仰を失いかけた時にも、なおハレルヤとつぶやくことがある。Cohenはその人間的な祈りを歌っている。賛美は純粋な信仰からだけでなく、破れた経験からも生まれる。
音楽的には、後年のカバーで強調される荘厳さよりも、オリジナル版には1980年代的な冷たさと不思議な軽さがある。この音像は、現在の耳にはやや簡素に感じられるかもしれない。しかし、その簡素さがCohenの声と言葉を独特に際立たせている。Jennifer Warnesのコーラスも、曲に天上的な響きを加えながら、過度に感傷的にはしない。
「Hallelujah」は、宗教と性、勝利と敗北、祈りと皮肉を一つの言葉に凝縮した楽曲である。のちに多様な解釈を生んだ理由も、この曲が単一の意味に閉じないからである。Cohenにとってハレルヤとは、完璧な信仰の言葉ではなく、壊れた人間がなお発する最後の賛美である。
6. The Captain
「The Captain」は、本作の中でも物語性と寓話性が強い楽曲である。タイトルの「船長」あるいは「隊長」は、権威、指導者、戦争、組織、命令を連想させる。曲は比較的軽快なカントリー調の響きを持つが、歌詞には戦争や権力をめぐる皮肉が含まれている。
歌詞では、隊長と語り手の間のやり取りが描かれる。そこには軍隊的な状況、敗北、命令、役割の交代がある。Cohenはこの曲で、権威の滑稽さと、人間がそれに従わざるを得ない状況を描いているように聴こえる。戦争や政治は壮大な理念を掲げるが、現場では混乱し、疲れた人間同士のやり取りになる。
音楽的には、アルバムの中でも比較的軽いタッチで、リズムにはカントリー的な揺れがある。この軽さが、歌詞の不穏さと対比を作る。Cohenは重いテーマを常に重々しく歌うわけではない。むしろ、軽いフォームを用いることで、権力や戦争の馬鹿馬鹿しさを際立たせることがある。
「The Captain」は、Cohenの政治的・寓話的な側面を示す楽曲である。宗教や恋愛だけでなく、彼は権威や暴力、歴史の不条理にも目を向ける。その視線は直接的なプロテストではなく、皮肉と物語によって表現される。
7. Hunter’s Lullaby
「Hunter’s Lullaby」は、タイトル通り子守唄の形式を持ちながら、狩人、野性、孤独、帰還の不確かさを含む楽曲である。子守唄は本来、眠りと安心を与えるものだが、Cohenの手にかかると、その安心はどこか不穏なものになる。狩人は家を離れ、森や荒野へ向かい、戻ってくるかどうか分からない存在である。
歌詞では、誰かを眠らせるような穏やかな語り口の中に、危険や喪失の気配が潜む。狩りは生活の営みであると同時に、暴力の行為でもある。狩人は食べ物を持ち帰る者である一方、死を扱う者でもある。その二重性が、曲の柔らかい響きの背後にある。
音楽的には、穏やかなメロディとコーラスが中心で、アルバムの中でも静かな部類に入る。Cohenの声はやさしく聴こえるが、その低さゆえに子守唄の甘さだけでは終わらない。眠りは安息であると同時に、死の比喩でもある。Cohenはその境界を意識的に曖昧にする。
「Hunter’s Lullaby」は、小品的ながら、本作の聖俗混交の感覚を支える曲である。家庭的な子守唄、野性的な狩り、死の気配、眠りへの誘いが一つにまとまっている。穏やかだが、単純に安心できないCohenらしい楽曲である。
8. Heart with No Companion
「Heart with No Companion」は、本作の中でも特にフォーク/カントリー色が強く、孤独と旅の感覚を持つ楽曲である。タイトルは「伴侶のいない心」を意味し、Cohenの作品に繰り返し現れる孤独な旅人のイメージと直結している。愛を求めながら、完全には誰とも結びつけない心。その孤独が曲の中心にある。
歌詞では、道を行く者、孤独な心、人生の旅路における祈りのような言葉が並ぶ。Cohenはここで、孤独を単に悲しいものとしてだけではなく、人間の基本的な条件として扱う。伴侶を持たない心は、欠落していると同時に、自由でもある。誰かと共にいたいという願いと、最終的には一人で歩かなければならないという認識が同居している。
音楽的には、穏やかなリズムと温かいコーラスが、曲に親しみやすさを与える。アルバムの中でも比較的開かれた響きを持ち、Cohenの低い声も少し柔らかく聴こえる。しかし、歌われている内容はやはり孤独である。この明るさと孤独の共存が、曲に深みを与える。
「Heart with No Companion」は、Cohenのフォーク・シンガーとしての原点に近い側面を感じさせる曲である。ただし、若い頃の孤独よりも、ここには人生を長く歩いてきた者の落ち着いた諦念がある。孤独は消えないが、それを歌にすることはできる。その姿勢がこの曲を支えている。
9. If It Be Your Will
アルバムを締めくくる「If It Be Your Will」は、『Various Positions』の中でも最も純度の高い祈りの楽曲である。タイトルは「もしそれがあなたの御心なら」という意味を持ち、神への全面的な服従、あるいは受諾の姿勢を表す。Cohenの全キャリアの中でも、最も宗教的で、最も静かな名曲のひとつである。
歌詞は、祈りの形式をほとんどそのまま持っている。もしあなたの御心なら、私に歌わせてください。もしあなたの御心なら、私を沈黙させてください。ここでCohenは、自分の言葉、歌、沈黙のすべてを神の意思に委ねようとしている。これは非常に強い表現である。詩人であり歌手であるCohenにとって、言葉を発することは存在の中心である。その言葉を発するかどうかさえ、神に委ねるという姿勢が示されている。
音楽的には、極めて静かで、Cohenの声とJennifer Warnesのコーラスが深い祈りの空間を作る。曲は過度に装飾されず、言葉の余白が大切にされている。Cohenの低い声は、ここでは命令や皮肉ではなく、ほとんど裸の願いとして響く。Warnesの声は、その願いを天へ持ち上げるように重なる。
「If It Be Your Will」は、アルバムの終曲として非常に重要である。『Various Positions』は、さまざまな立場、姿勢、欲望、祈りを提示してきた。その最後に置かれるのは、最も根源的な姿勢、すなわち「御心ならば」という服従の姿勢である。ただし、それは思考停止ではない。Cohenは疑い、欲望し、失敗し、皮肉を言い続けた上で、この祈りへ到達する。そのため、この曲の受諾は軽くない。長い葛藤の後に発せられる、深い沈黙の祈りである。
総評
『Various Positions』は、Leonard Cohenの中期における転換作であり、後期の彼を理解する上で欠かせないアルバムである。発売当初の評価や扱いは必ずしも十分ではなかったが、後年の視点から見ると、本作にはCohenの重要な主題と音楽的変化が凝縮されている。特に「Hallelujah」の存在は圧倒的だが、このアルバムは一曲だけのための作品ではない。「Dance Me to the End of Love」「Night Comes On」「If It Be Your Will」など、Cohenの宗教性、官能性、死生観、詩的な物語性を示す楽曲が並び、アルバム全体として強い統一感を持っている。
本作の最大の特徴は、聖なるものと俗なるものの境界が常に揺らいでいる点である。「Hallelujah」はその最も有名な例であり、神への賛美の言葉が、性的な欲望、敗北、愛の破綻の中で歌われる。「Dance Me to the End of Love」では、恋人同士のダンスが歴史的な死の記憶と重なり、「If It Be Your Will」では、詩人としての言葉そのものが神の意志に委ねられる。Cohenにとって、信仰は純粋な精神世界だけにあるのではない。身体、歴史、欲望、失敗、沈黙の中にこそ、祈りは現れる。
音楽的には、1980年代的なシンセサイザーの導入が重要である。初期のCohenのアコースティックなフォークに慣れた耳には、本作の音像はやや人工的に聴こえるかもしれない。しかし、この人工的な質感こそが、次作『I’m Your Man』以降のCohenのスタイルにつながっていく。低く語るような声、簡素な電子音、女性コーラス、宗教的な言葉。この組み合わせは、Cohenを単なるフォーク詩人から、晩年の暗い預言者的存在へ変えていく過程の一部である。
Jennifer Warnesの貢献も、本作の評価において欠かせない。彼女の声は、Cohenの声の暗さに対して、光、柔らかさ、天上的な響きを与える。Cohenの声だけでは地上の罪や疲労が強く出るが、Warnesのコーラスが加わることで、曲は祈りの空間を持つ。特に「If It Be Your Will」において、その効果は決定的である。彼女の声は、Cohenの言葉を救済するのではなく、言葉が向かう先の空間を開いている。
歌詞面では、Cohenの成熟が明確に感じられる。初期の作品にあった若い詩人の孤独や官能は、本作ではより宗教的・倫理的な広がりを持つ。「The Law」では掟と罪が問われ、「Night Comes On」では家族の記憶と死が重なり、「Heart with No Companion」では孤独な旅人の心が歌われる。Cohenは個人的な経験を、聖書的・神話的な言葉と接続することで、普遍的な問いへ変換している。
『Various Positions』というタイトルは、アルバム全体を非常によく表している。ここには、祈る姿勢、愛する姿勢、負ける姿勢、従う姿勢、皮肉を言う姿勢、孤独に歩く姿勢がある。Cohenは一つの立場に固定されない。信仰者であり、疑う者であり、恋人であり、罪人であり、語り手であり、沈黙を願う者でもある。その複数性が、本作の深さを作っている。
日本のリスナーにとって『Various Positions』は、Leonard Cohenを理解する上で非常に重要な入口のひとつである。初期のアコースティックな作品よりも声は低く、サウンドは1980年代的であり、晩年の厳粛な作品よりもまだ柔らかさと親しみやすさがある。そのため、初期と後期をつなぐ中間地点として聴くことができる。特に「Hallelujah」だけを知っている場合、このアルバム全体を聴くことで、その曲がどのような宗教的・官能的・詩的文脈の中に置かれていたかが見えてくる。
『Various Positions』は、Cohenの最高傑作として一枚だけを挙げる時に必ず選ばれる作品ではないかもしれない。しかし、彼の長いキャリアの流れを考えると、本作は決定的な意味を持つ。フォーク詩人としての過去と、低音で神と世界を問い続ける晩年のCohenを結びつけるアルバムであり、「Hallelujah」と「If It Be Your Will」という二つの大きな祈りを含む作品である。聖なる言葉が壊れた人間の口から発せられる瞬間を記録した、深く重要なアルバムである。
おすすめアルバム
1. Leonard Cohen – Songs of Leonard Cohen
Cohenのデビュー作であり、彼のフォーク詩人としての原点を示す作品。「Suzanne」「So Long, Marianne」など、愛と孤独を静かなアコースティック・サウンドで描く。『Various Positions』の宗教性や低音ヴォーカルとは異なるが、Cohenの言葉の強度と詩的世界の出発点を理解する上で欠かせない。
2. Leonard Cohen – I’m Your Man
『Various Positions』で始まった1980年代的な電子音と低音ヴォーカルの方向性を、さらに明確にした代表作。シンセサイザー、暗いユーモア、政治的視点、宗教的な皮肉が強く表れ、後期Cohenのスタイルを決定づけた。『Various Positions』の次に聴くことで、音楽的変化の流れがよく分かる。
3. Leonard Cohen – The Future
終末論的な視点、政治的不安、宗教的象徴が濃く表れた1992年の重要作。『Various Positions』にある信仰と欲望の交錯が、より社会的・預言的なスケールへ拡張されている。Cohenの暗い世界観を深く理解する上で重要なアルバムである。
4. Jennifer Warnes – Famous Blue Raincoat
Jennifer WarnesによるLeonard Cohen作品集。『Various Positions』でも重要な役割を果たした彼女の声が、Cohenの楽曲に異なる光を与えている。Cohenの暗い詩情が、より澄んだヴォーカルによってどのように変化するかを知る上で非常に有効な作品である。
5. Nick Cave & The Bad Seeds – The Boatman’s Call
宗教、愛、罪、喪失を、ピアノ中心の静かなアレンジで描いたNick Caveの重要作。Cohenからの影響が強く感じられ、特に聖なる言葉と人間的な欲望が交錯する点で『Various Positions』と深く響き合う。現代的なCohen的ソングライティングの系譜を理解する上で有効である。

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