※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。
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1990年代半ば、電子音楽はクラブの外へ出て、フェスティバルやアリーナでロック・バンドと同じ観客を相手にする存在になった。その象徴がThe Chemical BrothersとThe Prodigyだ。The Chemical Brothersはヒップホップ的なブレイクビーツ、アシッド、サイケデリア、ノイズを巨大な反復へ変え、The Prodigyはレイヴの速度とサンプル文化にKeith FlintやMaximの身体性を加えた。両者ともギターを中心に据えたわけではない。それでも『Dig Your Own Hole』(1997年)や『The Fat of the Land』(1997年)は、オルタナティブ・ロックやメタルを聴いていた層にまで届いた。なぜ電子音楽は、この時期に「踊るための音楽」から「ステージを観る音楽」へ変わったのか。今回はNaomi、Alex、Marcusの3人が、ビートの重量、ライブの身体性、ロックとの距離、そして二組の決定的な違いから考える。
※本記事は、TuneSightに登場する架空のライターによる創作対談です。
- 電子音楽がロックの観客へ近づいたのではなく、ロックの「重さ」を別の方法で作った
- The Chemical Brothersは「DJの音楽」をどう巨大なライブ体験へ変えたのか
- The Prodigyはなぜレイヴから「バンド」に見えるようになったのか
- 「Firestarter」はなぜギター・ロックよりロックに聞こえたのか
- The Chemical Brothersは「反抗」より「トリップ」でロックの観客を取った
- ビッグ・ビートは本当に一つのジャンルだったのか
- フェスティバルがロックとダンスの境界を壊した
- 『The Fat of the Land』は電子音楽の勝利だったのか、ロックへの接近だったのか
- それでもThe Chemical BrothersとThe Prodigyは同じ方向へは進まなかった
- 最高傑作、入口の一枚、そして一曲だけ選ぶなら
- 対談を終えて
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電子音楽がロックの観客へ近づいたのではなく、ロックの「重さ」を別の方法で作った
90年代の電子音楽がロックの観客を奪った、と言うと、まずギターを取り入れたからだと思われがちなんですよね。でもThe Chemical BrothersもThe Prodigyも、核心はそこじゃない。僕が最初に重要だと思うのは、ギターの代わりにビートと低音で「重量」を作ったことです。ハードロックなら巨大なアンプと歪んだコードで身体を押すところを、この二組はキック、ブレイクビーツ、サンプル、反復で押してきた。
しかも低音の大きさだけではありません。クラブ・ミュージックでは、同じパターンを反復することで聴き手の身体感覚を変えていくでしょう。The Chemical Brothersはその反復を非常に長く引っ張りながら、フィルターやノイズ、音色の開閉で圧力を変える。ロックの「ヴァースからコーラスへ爆発する」という構造を、和音ではなく音響変化で再構築したんです。
ヒップホップの影響も大きいと思います。The Chemical Brothersは初期からブレイクビーツを強く使っていて、リズムが単純な四つ打ちだけではない。ビートの切れ目やスネアの位置に身体が引っ張られる。その感覚は、ロックのドラムを聴く人にも理解しやすかった。生ドラムではないのに、ドラムが「演奏している」ように聞こえるんですよ。
The Prodigyはさらに直接的ですね。「Firestarter」なんて、ギター・バンドの曲として聴いても違和感がないくらい攻撃的だけれど、実際の推進力は電子的なビートとサンプルです。しかもKeith Flintが前に立つことで、観客はその攻撃性を視覚的に受け取れる。音が電子的でも、ステージの体験は完全にロックなんです。
そこで面白いのは、電子音楽がロックの真似をしたのではなく、ロックが担っていた身体的な機能を別の技術で代替したことです。ギター・リフの代わりに反復するループ、ドラマーのフィルの代わりにブレイクの切断、アンプの歪みの代わりにディストーションやフィルター。その結果、「何の楽器を使っているか」と「どんな身体反応を起こすか」が分離した。
だからロックの観客にとっても入口があったんでしょうね。音楽の表面は新しいのに、身体が受け取るメッセージは知っている。大きい、速い、反復する、緊張が溜まり、突然落ちる。その快感はロックにもヒップホップにもクラブ・ミュージックにもある。90年代半ばにその共通部分が一気に前へ出たんだと思います。
The Chemical Brothersは「DJの音楽」をどう巨大なライブ体験へ変えたのか
The Chemical Brothersの面白さは、彼らがもともとクラブとDJカルチャーに深く根ざしているのに、音楽そのものがどんどん巨大化していったことです。『Exit Planet Dust』(1995年)の時点で「Leave Home」や「Chemical Beats」はすでに相当荒い。ブレイクビーツをループしているだけではなく、上に乗るアシッド的なシンセやノイズが時間とともに膨らんでいく。
僕は「Chemical Beats」をロック好きに聴かせるなら、ギターの有無を説明する必要がないと思います。あれは完全にリフ音楽ですよ。短いパターンが何度も戻ってきて、そのたびに音圧が変化する。Black Sabbathのリフとは音色が違うけれど、「一つの反復を身体へ叩き込む」という思想は近い。
しかも彼らの場合、ブレイクビーツがヒップホップ的な記憶を持っているんですよね。ロックとテクノを直接混ぜたというより、ヒップホップのサンプリング感覚を経由している。古いファンクやソウルのリズム断片を新しい機械的な文脈に置くことで、ドラムが生演奏でもプログラムでもない第三の感触になる。
そして『Dig Your Own Hole』でその方法が完成する。「Block Rockin’ Beats」はタイトル通りで、もうジャンル名そのものを挑発している。ロックしているのはギターではなくビートだ、と。低域は非常に大きいけれど、重要なのはそこに細かいノイズや声の断片、シンセの層が積み上がって、一つの反復が徐々に巨大な構造物へ変わっていくことです。
「Setting Sun」も決定的でした。Noel Gallagherのヴォーカルが入ることでロック側からの入口ができたけれど、曲そのものはOasisには絶対に作れない。声がギター・バンドの中心ではなく、巨大なビートの中に投げ込まれている。歌が主役というより、歌までサウンドの一部になるんです。
そこはヒップホップ的でもありますね。ヴォーカルを「曲を支配する物語の中心」と考えない。声の断片やフレーズをビートの構造へ組み込んでいく。だからThe Chemical Brothersはロックのスターをゲストに呼んでも、ロック・バンドにはならない。むしろゲストの方を自分たちの機械の中へ入れてしまうんです。
The Prodigyはなぜレイヴから「バンド」に見えるようになったのか
The ProdigyはThe Chemical Brothersと違って、早い段階から「誰を観ればいいか」がはっきりしていましたよね。Liam Howlettが音楽的な中心にいても、ステージではKeith FlintやMaximが観客の視線を引き受ける。その構造がロックの観客には非常に理解しやすかったと思います。電子音楽なのに、フロントマンがいる。
ただし初期の『Experience』(1992年)を聴くと、かなりレイヴの文脈が強いんです。「Charly」や「Everybody in the Place」は、後の攻撃的なイメージだけでは説明できない。テンポも速く、声はサンプル化され、曲の楽しさ自体がレイヴの集団的な高揚にある。そこから『Music for the Jilted Generation』(1994年)で急に陰影が増す。
『Music for the Jilted Generation』は重要ですね。「Voodoo People」や「Poison」になると、ビートがもっと重くなり、ヒップホップ的な要素も強くなる。それに社会的な反発や反権威的な気分が重なって、単なるハッピーなレイヴとは違う空気になる。90年代英国のダンス・カルチャーをめぐる緊張も背景にあって、反抗の言語がロックに近づいていく。
「Their Law」なんてタイトルからしてそうですよね。しかもギター的な質感も入るけれど、それを中心にはしない。僕にはThe Prodigyのロック化って「ギターを増やした」ことより、「音楽の敵意を前へ出した」ことの方が大きいと思う。観客に踊れと言うだけでなく、殴り返せと言っているような圧がある。
さらにLiam Howlettのトラックは非常に編集的です。サンプル、シンセ、ブレイクビーツ、声、ノイズを切り替えながら、数十秒ごとにエネルギーの質を変える。ライブ・バンドのような連続演奏ではないのに、場面転換が劇的なのでステージ映えする。そこでKeith Flintの身体が入ると、編集された音楽に人間の暴力的な動きが接続されるんです。
その組み合わせがThe Prodigyを特殊にした。ヒップホップにはMCという前面に立つ存在がいるし、ロックにはフロントマンがいる。でも90年代前半の多くの電子音楽は、制作者がステージの視覚的中心になる必要がなかった。The Prodigyはそこに人間の身体を戻した。それがロックの観客を引き込む大きな理由だったと思います。
「Firestarter」はなぜギター・ロックよりロックに聞こえたのか
1996年の「Firestarter」は、この話の中心でしょうね。僕があれを最初に聴くときに注目するのは、ギターではなく空間の狭さです。音が全部こちらへ向かってくる。ビートは硬いし、サンプルやシンセは鋭いし、Keith Flintの声には余裕がない。ロックの荒々しさを演奏の揺れで作るのではなく、音を圧縮して逃げ道をなくすことで作っている。
しかもあの曲は、パート数自体が無限に多いわけではないんですよね。核になるフレーズを反復し、その周囲で音色を入れ替える。だから聴き手は曲の中心を見失わない。電子音楽的なループ構造が、結果としてパンクのような単純明快さを持っているんです。
Keithのヴォーカルも重要です。ラップとも歌とも違う、短い言葉を噛みつくように反復する。語彙を大量に使わないから、意味よりキャラクターが先に来る。ヒップホップ的に言えばフロウを聴かせるというより、声をパーカッションとフックの両方に使っている。
そして見た目のインパクトも大きかった。髪型、動き、顔つきまで含めて、Keith Flintは明らかに「電子音楽の操作卓の後ろにいる人」ではない。観客に襲いかかってくるフロントマンに見える。ギターを持っていないのに、Johnny Rottenや後のオルタナティブ系ヴォーカリストと同じ身体言語で理解できたんです。
でも「Firestarter」を単にロック化と呼ぶと、Liam Howlettの功績が薄くなると思う。曲の本体は依然として非常にスタジオ的で、切断されたループや加工された音を組み合わせている。ライブの荒々しさを、実際のバンド演奏ではなく編集技術で作っているところが新しかった。
つまりロックの観客が惹かれたのは、ロックに似ていたからだけではなく、ロックが持っていた「危険な若者の音楽」という役割を電子音楽が奪ったからでしょう。95年、96年頃には、ギターを持って反抗を表現すること自体が一つの定型になっていた。そこへThe Prodigyが、別の機材で同じくらい危険なものを持ってきた。
The Chemical Brothersは「反抗」より「トリップ」でロックの観客を取った
その点でThe Chemical BrothersはThe Prodigyとはかなり違いますよね。The Prodigyは人物と攻撃性が前に出るけれど、The Chemical Brothersはもっと匿名的で、音そのものに吸い込ませる。『Dig Your Own Hole』を聴いていると、「Block Rockin’ Beats」の重量感から「The Private Psychedelic Reel」のサイケデリアまで、ライブのピークが一種類ではない。
僕はそこが60年代末から70年代のロックとつながると思うんです。ロックには反抗だけでなく、「音を大きくして意識を変える」というサイケデリックな系譜があるでしょう。The Chemical Brothersはその感覚をギター・ジャムではなく電子音の反復で作る。「The Private Psychedelic Reel」なんて、長尺のサイケ・ロックを電子的に再発明したようなところがあります。
そしてDJ文化の考え方があるから、曲と曲の境界もロック・アルバムとは少し違う。ピークを一曲ごとに完結させるより、連続するエネルギーとして考える。これはクラブの経験そのものですよね。観客が「次の曲を聴く」のではなく、一定時間の流れの中へ入っていく。
ライブでも、The Chemical Brothersはメンバーの個人性を前へ出すより、映像と音響を一つの巨大な環境として作っていった。つまりThe Prodigyが電子音楽にフロントマンを与えたとすれば、The Chemical Brothersは電子音楽そのものをステージの主人公にした。ロックのコンサートが持っていた巨大な視覚体験を、人ではなく機械と光で成立させたんです。
ロック好きからすると、そこも受け入れやすかったと思います。Pink Floydみたいに、ステージ上の人物を眺める以上に、音響と映像のショー全体を体験するロックの伝統はすでにあった。The Chemical Brothersはその欲望を90年代のクラブ技術で更新した。
だから同じ「ロックの観客を奪った電子音楽」でも、The Prodigyはスターの身体を使い、The Chemical Brothersはサウンド・システムそのものをスターにした。ここを一緒にすると、90年代の電子音楽が成功した理由を一つにしすぎると思います。
ビッグ・ビートは本当に一つのジャンルだったのか
90年代後半、この周辺の音楽を「ビッグ・ビート」という名前でまとめることが多かったけれど、僕は後から聴くほど違いの方が大きく感じます。The Chemical Brothersにはヒップホップのブレイクとサイケデリアがあり、The Prodigyにはレイヴ、ブレイクビート、パンク的なキャラクター性がある。Fatboy Slimまで含めたら、さらにファンクやパーティー感が強い。
そうですね。「大きなブレイクビーツ」という表面的な共通点はあるけれど、制作思想はかなり違う。The Chemical Brothersは音を徐々に変形させてトランス状態を作ることが多い。一方、Liam Howlettは場面を大胆に切り替えて、サンプル同士を衝突させる。前者は変形、後者は編集という違いを感じます。
ロック側から見ても、The Chemical Brothersはサイケデリック・ロックやオルタナティブの耳に近くて、The Prodigyはパンクやインダストリアル、メタルの観客に近い。もちろん重なっているけれど、刺さる理由が違うんですよ。「Firestarter」と「Setting Sun」は両方とも激しいけど、激しさの質が全然違う。
「Setting Sun」はビートに押し流される感じで、「Firestarter」は人物に挑発される感じですね。前者は巨大な機械、後者は巨大な人格。その差はかなり大きい。
そしてビッグ・ビートという言葉が便利だったのは、細かなクラブ・ジャンルを知らないロックの聴き手にも理解しやすかったからかもしれません。速い、重い、ブレイクが大きい。それだけで入り口になる。でもその大雑把なカテゴリーの中で、実際にはかなり異なる電子音楽が同時に広がっていたんです。
だから「ビッグ・ビートがロックを倒した」と言うより、「電子音楽がロック観客の複数の欲望を別々に奪った」と考えたいですね。暴力性、サイケデリア、巨大音響、ダンス、スター性。それまでロックが独占していたものを、一つずつ電子音楽が自分の方法で取り込んだ。
フェスティバルがロックとダンスの境界を壊した
この変化は音だけでなく、90年代のフェスティバル文化を抜きに語れないと思います。クラブで電子音楽を聴くのと、巨大な野外会場でロック・バンドの前後にThe Chemical BrothersやThe Prodigyを見るのでは、意味が違う。後者ではジャンルの違いより「この音が何万人を動かせるか」が直接比較されるんです。
それは大きいですね。ロックの観客がわざわざクラブへ行って電子音楽を理解する必要がなくなった。普段行くフェスティバルに電子アクトが現れて、その場で同じくらい、あるいはそれ以上に身体を揺らされる。そこで「これは自分たちの音楽じゃない」という境界が崩れる。
電子音楽にとっても野外会場は重要でした。クラブでは低域が身体を包むことが前提だけれど、大きな会場では視覚的なスケールが必要になる。The Chemical Brothersは照明や映像を含めて空間を構築し、The Prodigyは人間の動きで前方へエネルギーを集中させた。それぞれ別の方法で、クラブの没入感をステージへ変換したんです。
そして90年代半ばは、若者文化そのものの境界が曖昧になった時期でもあると思う。オルタナティブ・ロック、レイヴ、ストリートウェア、スケート、ヒップホップといった文化が、以前より同じ雑誌、同じフェスティバル、同じ観客の中で交差するようになる。The Prodigyの見た目なんて、それ自体がその混線を象徴していました。
ヒップホップから見ても同じです。サンプリングとブレイクビーツという技法は、すでにジャンルを越えて共有されていた。だからロックと電子音楽が突然出会ったというより、ヒップホップを含む複数の文化が長い時間をかけて同じリズム言語を共有し始めていた、と考えた方がいい。
フェスティバルはその結果を可視化した場所なんでしょうね。昼にギター・バンドを見て、夜に電子アクトで踊っても矛盾しない。90年代後半になると「自分はロック・ファンだからダンス・ミュージックは聴かない」という線引きそのものが古く感じられる瞬間が出てきたんです。
『The Fat of the Land』は電子音楽の勝利だったのか、ロックへの接近だったのか
『The Fat of the Land』は難しいアルバムですよね。1997年の時点でThe Prodigyは巨大になっていて、「Firestarter」「Breathe」の印象も強い。だから電子音楽がロックの市場へ完全に入った作品として見える。でも僕は、ロックへ近づいたから売れたとだけ言うのは違うと思う。
「Smack My Bitch Up」みたいな曲を聴くと、核はやはりビートとサンプリングですよ。フロントマン中心のロック曲ではない。むしろ反復するグルーヴに声や音を切り貼りして、トラック全体を巨大化させている。構造としてはクラブ・ミュージックの側にある。
その通りです。「Breathe」はKeith FlintとMaximの掛け合いがあるからバンド的に聞こえるけれど、背景では音が非常に編集されている。ギターを弾けば成立する曲ではなく、スタジオで断片を組み上げることで成立している。The Prodigyのロック性は演奏形態ではなく、態度と身体性なんです。
つまり、音楽的には電子音楽のままなのに、観客との関係がロックになった。その逆転が面白い。以前は「電子音楽はDJが再生し、ロックはバンドが演奏する」という区別があったけれど、『The Fat of the Land』期のThe Prodigyを見ると、その区別自体に意味がなくなってくる。
さらにKeithやMaximがステージにいることで、Liam Howlettが制作したトラックが匿名的な機械音ではなく「集団の音」に見える。ヒップホップでもプロデューサーとMCが別の役割を持つでしょう。The Prodigyはそれをラップ・グループともロック・バンドとも違う形で組み立てた。
だから私は『The Fat of the Land』を電子音楽がロックへ屈した作品ではなく、電子音楽がロックの舞台装置を奪った作品だと思います。大音量、巨大会場、カリスマ的フロント、危険性。その全部を使いながら、音楽制作の中心はサンプラーとシーケンサーのままだったんです。
それでもThe Chemical BrothersとThe Prodigyは同じ方向へは進まなかった
90年代後半以降を見ると、二組の違いはさらに明確になります。The Chemical Brothersは『Surrender』(1999年)で「Hey Boy Hey Girl」のようなクラブ的なトラックを作る一方、「Let Forever Be」ではサイケデリック・ポップへ広がっていく。彼らはロックの観客を獲得したあとも、ロック・バンドになろうとはしなかった。
むしろロック史を横断するようになった感じがありますね。サイケ、ノイズ、ビート、ポップを全部サンプル可能な素材として見る。Noel Gallagherが歌ってもBernard Sumnerが歌っても、中心にいるのはThe Chemical Brothersの音響です。ゲスト・ヴォーカルを入れてもバンドの人格が揺らがない。
The Prodigyは逆に、グループ自体のキャラクターが強すぎる。Keith Flintが一声出せばThe Prodigyだと分かるし、Maximの存在も大きい。そこでは音楽だけでなく人物がブランドになっている。ヒップホップ・クルーに近い部分もあると思います。
その違いはライブにも出ます。Chemical Brothersでは観客の視線が巨大な映像や照明、音響空間へ分散する。一方Prodigyではステージ上の身体へ集中する。どちらも電子音楽を「見るもの」にしたけれど、視線の設計が正反対なんです。
だからロックの観客を奪った方法も違う。The Prodigyは「お前たちが好きだった危険なフロントマンは、電子音楽にもいる」と示した。The Chemical Brothersは「お前たちが好きだった巨大なサイケデリック体験は、ギターがなくても作れる」と示した。
その二方向が同時に成功したことが重要ですね。一つのバンドが偶然ロック・ファンにも受けたのではない。電子音楽という方法そのものが、ロックの複数の機能を代替できる段階に来ていた。それが90年代後半の大きな変化だったんだと思います。
最高傑作、入口の一枚、そして一曲だけ選ぶなら
The Chemical Brothersの最高傑作なら僕は『Dig Your Own Hole』です。「Block Rockin’ Beats」「Setting Sun」の攻撃性がありながら、最後には「The Private Psychedelic Reel」まで行く。ロックの観客が理解できる重量感と、クラブ・ミュージック特有の反復、さらにサイケデリックな拡張性が全部入っている。彼らが何者だったかを一枚で説明しやすい。
私は『Surrender』もかなり迷います。『Dig Your Own Hole』より色彩が広く、「Hey Boy Hey Girl」の硬さから「Let Forever Be」「The Sunshine Underground」のような広がりまである。ただ、90年代にロックと電子音楽の境界を壊した瞬間という意味では、やはり『Dig Your Own Hole』でしょうね。
The Prodigyなら僕は『Music for the Jilted Generation』を選びたい。『The Fat of the Land』の方が世界的には巨大だけれど、レイヴから攻撃的な電子音楽へ変化していく途中の緊張が一番濃い。「Voodoo People」「Poison」「Their Law」が同じ作品にあることで、ダンスと反抗がまだ完全に一体化する直前の面白さがある。
僕は『The Fat of the Land』です。理由は単純で、電子音楽がロックのステージを本当に乗っ取った瞬間が聞こえるから。「Breathe」「Firestarter」は、97年のロック・フェスティバルに置いてもまったく弱くならない。ギター中心ではないのに、攻撃性では多くのロック・バンドを上回っていた。
一曲だけならThe Chemical Brothersは「Block Rockin’ Beats」でしょうね。ブレイクビーツがそのままリフになり、ノイズと低音がギターの役割を代替している。タイトルも含めて、「ロックする」という動詞をギターから奪った曲だと思います。
The Prodigyなら僕は「Firestarter」。曲そのものだけでなく、電子音楽に人格と身体を与えた点が大きい。サンプルとビートで作られたトラックが、Keith Flintを通して一人の危険な人物のように見える。この瞬間、ロックとダンスの境界はかなり意味を失ったと思います。
過小評価された曲ならChemical Brothersの「Elektrobank」を挙げたい。長い反復の中で音圧を上下させる方法が本当に巧い。Prodigyなら「Poison」です。ヒップホップ的な重さと電子音の不穏さがあって、『The Fat of the Land』以前の彼らがどれほど独特だったか分かる。この二曲を並べると、同じ時代の「重い電子音楽」でも設計思想がかなり違うんです。
対談を終えて
The Chemical BrothersとThe Prodigyが90年代にロックの観客を惹きつけたのは、電子音楽をギター・ロックへ近づけたからではない。彼らはビート、低音、サンプリング、編集、反復によって、ロックが担ってきた重量感、反抗、サイケデリア、巨大なライブ体験を別の方法で作れることを証明した。The ProdigyはKeith FlintやMaximの身体を通して電子音楽にフロントマンの危険性を与え、The Chemical Brothersは映像と音響を含む巨大な環境そのものをステージの主役にした。1997年の『The Fat of the Land』と『Dig Your Own Hole』が象徴したのは、ダンス・ミュージックがロックへ転向した瞬間ではない。ギターがなくても観客を圧倒し、反復だけでも群衆を爆発させ、サンプラーやシーケンサーでも「ロックする」ことが可能だと、大規模な観客の前で実証された瞬間だった。

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