発売日: 2021年8月27日
ジャンル: オルタナティヴ・ロック、フォーク・ロック、アコースティック・ポップ
概要
『Starting Now』は、Toad the Wet Sprocketが2021年にリリースしたスタジオ・アルバムであり、
前作『New Constellation』（2013）から8年ぶり、通算7枚目となるオリジナル・アルバムである。
1990年代のカレッジ・ロック・シーンを代表する静謐なバンドとして知られる彼らだが、
今作ではコロナ禍、社会的分断、個人的喪失など、2020年代の不確実な時代を静かに見つめた作品として、
変わらぬ音楽性と成熟したメッセージを両立させている。
タイトル『Starting Now（今から始めよう）』には、これまでを総括するような感傷ではなく、
今この瞬間を生きることの大切さ、人生をやり直す勇気が込められており、
30年以上のキャリアを重ねたバンドが、“未来”を見据えて届けた穏やかで優しいメッセージが全編に流れている。
全曲レビュー
1. Game Day
オープニングを飾る、軽やかで前向きなアコースティック・ポップ。
「今日は試合の日だ」という比喩を用い、人生の節目や選択の瞬間を描く。
大げさに盛り上げず、淡々としたトーンで“始まり”を告げるのがToadらしい。
2. Transient Whales
“儚いクジラたち”という象徴的なタイトルが印象的な、ミディアムテンポのナンバー。
絶滅、生態系、記憶といったモチーフを重ね、この世界の美しさと脆さを慈しむように歌う。
3. The Best of Me
「今の自分がベストじゃないかもしれないけど、今あるものが僕のすべて」というメッセージ。
成熟と自己受容がテーマになっており、サウンドも抑制されていながら誠実に響く。
4. Starting Now
アルバムの核となるタイトル曲。
“すべては今から始まる”という明快なフレーズが繰り返される、穏やかで希望に満ちた1曲。
ギターのアルペジオとグレン・フィリップスの温かなボーカルが、そっと背中を押してくれるようだ。
5. Hold On
人生の重みや、愛する人との距離を超えて“手を離さないで”と語るバラード。
非常にシンプルなアレンジの中に、Toad特有の感情の余白が広がっている。
6. Truth
現代社会における“真実”というテーマを、個人の視点で静かに掘り下げる哲学的楽曲。
混乱した世界の中で、何を信じるか、誰を信じるかという問いが投げかけられる。
7. Slowing Down
日常のスピードを落とすこと、立ち止まることの価値を描いた一曲。
忙しない現代における“減速”のすすめとして、深い共感を呼ぶ。
8. Just Off the Damage
やや抽象的なリリックとオルタナティヴなギターが印象的なナンバー。
“傷のすぐそば”で生きること、壊れた世界の中でそれでも進むという決意が感じられる。
9. Dual Citizen
グローバル化、文化的混交、あるいは二重のアイデンティティをテーマにした興味深い楽曲。
地球市民としての視点と、個人的な居場所の探求が交錯する。
総評
『Starting Now』は、Toad the Wet Sprocketというバンドの成熟と誠実さが極まった静かな傑作である。
派手な展開やドラマチックな高揚感はほとんどないが、その代わりにあるのは、
日常を生きることの大切さ、人生の複雑さを認めながらも肯定する視線だ。
グレン・フィリップスのボーカルは円熟の極みに達し、言葉の選び方、声の温度感、サウンドの柔らかさのすべてが調和している。
楽器のアレンジも無駄がなく、まるで自然と調和するかのような音の質感が、アルバム全体を通して一貫している。
この作品は、1990年代に青春を過ごしたファンだけでなく、
“今を静かに立て直したい”と思っているすべての人に寄り添うアルバムである。
再出発というより、“このままでいいのだ”という受容と穏やかな希望が、そっと差し出されている。
おすすめアルバム
- Glen Phillips『Swallowed by the New』
Toadのフロントマンによるソロ作。喪失と再生、自己の回復をテーマにした傑作。 - Iron & Wine『Beast Epic』
アコースティックで内省的、静けさの中に人生がある作品。 - Gregory Alan Isakov『Evening Machines』
自然と日常に寄り添う、詩的な現代フォーク。 - The Weepies『Hideaway』
夫婦デュオによる、親密で落ち着いたインディー・フォーク作品。 -
David Gray『Skellig』
成熟したソングライターが描く、静かなる精神の旅路。
歌詞の深読みと文化的背景
『Starting Now』のリリースは、コロナ禍による不安や孤立のさなかにあり、
世界中の人々が“今をどう生きるか”という問いに直面していた時期と重なる。
このアルバムは、そうした時代の空気を反映しながらも、
絶望に沈まず、楽観に逃げず、**現実を静かに受け止めながら歩む“第三の道”**を示している。
それはToad the Wet Sprocketがデビュー当初から一貫して奏でてきた価値観であり、
『Starting Now』は、その信念がより深く、より優しく、より必要とされる形で結実した作品なのである。
コメント