発売日: 2022年3月4日
ジャンル: インディーポップ、オルタナティブR&B、ベッドルームポップ
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概要
『Lychee』は、ニュージーランド出身のシンガーソングライターBENEEが2022年に発表したEPであり、内省と再生、変化と停滞のはざまで揺れるZ世代のリアリティを、果実のように甘くも酸っぱい感情で包んだコンパクトな傑作である。
前作『Hey u x』では多彩なゲストとのコラボやダンサブルなサウンドで自身のポップ性を大きく拡張したBENEEだが、本作『Lychee』ではよりパーソナルで、夢想的かつリリカルな側面が強調されている。
タイトルの「Lychee(ライチ)」は、果肉の中に硬い核を秘めた果物であり、そのイメージ通り、このEPにはやわらかな音の中に感情の“芯”が潜んでいる。
制作にはGreg Kurstin(Billie Eilish、Adeleなど)やKenny Beatsといった多彩なプロデューサーが参加しつつも、BENEEらしい“部屋でひとり考えごとをしている”ような親密なトーンが全体に漂っている。
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全曲レビュー
1. Beach Boy
本作のリードトラック。
サーフポップ調の軽やかなビートに乗せて、「完璧なビーチボーイが現れたらいいのに」という、期待と現実のあいだを漂うような願望を歌う。
内省的な歌詞とは裏腹に、開放感あるサウンドが心地よい。
2. Soft Side
“私のやわらかい部分を見てほしい”というメッセージを、R&Bの影響を感じさせるリズムとシンセで構築。
繊細な自己開示と、少しの挑発が交錯するBENEEらしい1曲。
声のトーンが一層親密に感じられる。
3. My Love (feat. Gary $tyles)
タイトルとは裏腹に、恋の不協和とすれ違いを描いたデュエットソング。
ベッドルーム・ポップらしい親密さと、トラックの奥行きが印象的。
互いに噛み合わない感情の対話が、聴く者に微かな痛みを残す。
4. Never Ending
恋の余韻と、そこから抜け出せない心のループをミニマルに表現。
反復するビートと夢のようなメロディが、“終わらない”というより“終われない”感覚を見事に音にしている。
5. Marry Myself
「もう他人に振り回されるのはやめて、自分と結婚しようかな」という、BENEE流“自己肯定と皮肉のバランス”。
軽快なテンポとユーモアあるリリックが魅力で、“ひとりでも楽しい”と胸を張るZ世代のアンセムといえる。
6. Doesn’t Matter
本作中もっともシリアスで内省的な楽曲。
メンタルヘルスの問題、特にうつ的な感情を率直に描きながら、「それでもここにいる」という静かな希望も込められている。
浮遊感のあるアレンジと囁くようなボーカルが、心に染み入る。
7. Make You Sick
“あなたをうんざりさせたいくらい、まだあなたのことが頭から離れない”という、未練と皮肉が絡み合うナンバー。
サウンドは柔らかだが、歌詞の毒気がじんわりと効いてくる。
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総評
『Lychee』は、BENEEの音楽的成熟を感じさせるEPであり、派手さやフックではなく、感情のニュアンスにフォーカスした“ポップの新しい形”を提示している。
アルバムではなくEPという短いフォーマットだからこそ、彼女はより繊細で、揺れやすく、触れたら崩れてしまいそうな感情を余すところなく描き出している。
同時に、その柔らかさの中にこそ、“自己肯定”や“心の強さ”の新しいかたちがある。
Z世代的というより、“BENEE的”としか言いようのない独特な文法が本作ではいよいよ確立されており、ベッドルームポップからスタートした彼女が、ポップスの可能性をもっと自由な場所に運びつつあることを示している。
『Lychee』は、聴き流すこともできるし、深く没入することもできる。
それはまさに、BENEEというアーティストの二重構造そのものなのだ。
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おすすめアルバム(5枚)
- Clairo『Sling』
静かな自己対話とヴィンテージ感あるアレンジが共鳴。 - Phoebe Green『Lucky Me』
不安と皮肉を軽やかに描くZ世代的語り口がBENEEと通じる。 - Beabadoobee『Our Extended Play』
甘酸っぱい感情をインディーポップで表現したミニマル名作。 - mxmtoon『dawn & dusk』
夜と朝の間で揺れる感情を静かに描いたベッドルームポップ。 - girl in red『if i could make it go quiet』
感情の爆発と静けさ、両方を持ち合わせたポップの進化形。
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7. 歌詞の深読みと文化的背景
『Lychee』に込められたBENEEの言葉は、一見カジュアルでわかりやすいが、その裏には“語ることでしか整理できない感情”が多く含まれている。
「Marry Myself」では、自己愛がテーマに見えて、実は“誰かに委ねられない自分”への戸惑いが潜み、
「Doesn’t Matter」では、“本当に何も問題ないように見えるけれど、でも私には全部が重い”というメンタルヘルスの葛藤が静かに描かれる。
BENEEは、無理に元気づけようとしない。
むしろ、「それでもいいんだよ」と“今のままの感情”に居場所を与えることが、彼女のポップのあり方なのだ。
『Lychee』は、Z世代だけでなく、すべての“不完全なままでいる人”にそっと寄り添う、小さな実のような作品である。
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