発売日: 2022年9月16日
ジャンル: インディーロック、パワーポップ、エモーショナル・ポップ、オルタナティヴ・ロック
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概要
『Expert in a Dying Field』は、ニュージーランドのインディーロックバンド The Beths の3枚目のスタジオ・アルバムであり、これまで築き上げてきたパワーポップ的な勢いと、前作『Jump Rope Gazers』で見せた内省的な繊細さをさらに深めた、感情の彫刻のような作品である。
アルバムタイトルの「Expert in a Dying Field(死につつある分野の専門家)」という語感の強さは、恋愛が終わってしまったあともなお、相手についての知識や感情が自分の中に残り続けるという、“使い道のない親密さ”への痛烈な比喩であり、Elizabeth Stokesの卓越したソングライティングの冴えが全編にわたって発揮されている。
サウンド面では、ザクザクと刻まれるギターリフとリズミカルなドラム、そして何よりもエリザベスの知的かつ傷つきやすい声が、バンドの持つエネルギーと哀しみを絶妙なバランスで融合させている。
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全曲レビュー
1. Expert in a Dying Field
タイトル曲にしてアルバムの核心。別れたあとも残る知識と記憶の無力さを、アカデミックな言葉で見事に言語化。ミッドテンポのビートと澄んだメロディが感情の複雑さを引き立てる。
2. Knees Deep
一歩踏み出せない心情を“ひざまでしか踏み込めない”という物理的な比喩で描くポップソング。軽やかなギターと明快なリズムに対して、リリックは葛藤をにじませる。
3. Silence is Golden
ギターが激しく鳴る高速ナンバー。“沈黙は金”という格言を逆手にとり、頭の中で鳴り続ける雑音と感情の騒がしさを、ノイジーに叩きつける。
4. Your Side
不在の誰かの“横”を思い続ける静かなバラード。エリザベスの歌声が最も繊細に響き、失われた関係への執着が静かに綴られている。
5. I Want to Listen
パートナーの言葉を“ちゃんと聴きたい”という誠実な願いが歌われる曲。テンポは速いが、内容は非常に真摯で、関係の修復をめぐる感情が伝わってくる。
6. Head in the Clouds
夢見がちな自分と現実との間にある乖離を、ギターの浮遊感と共に描写するナンバー。曇り空のような音像が印象的。
7. Best Left
“その話はしないほうがいい”という、言えない感情の存在をめぐる歌。ミドルテンポでありながら、張り詰めた空気が持続する構成が見事。
8. Change in the Weather
天気の移り変わりを恋愛の比喩として扱った小曲。短くも印象的なコード進行とギターラインが、センチメンタルな空気を生む。
9. When You Know You Know
直感的な関係の終わりと、それを受け入れる決断を描いた楽曲。コーラスの重なりが温かく、自己肯定的な解釈がにじむ。
10. A Passing Rain
関係の一時的な不安定さを“通り雨”として描く。バンドアンサンブルの美しさが際立ち、感情の揺れと希望の共存が感じられる。
11. I Told You That I Was Afraid
タイトルのとおり、“私は怖かった”と素直に伝えることの困難さと誠実さがテーマ。ギターとボーカルの絡みが非常に繊細で、美しい。
12. 2am
深夜の孤独を描いたスローなクロージングトラック。アルバムを締めくくるにふさわしい、柔らかくて少し痛い余韻を残す。
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総評
『Expert in a Dying Field』は、The Bethsのキャリアにおいて最も文学的で、最も深い感情の風景を描いたアルバムである。
恋愛の終わり、あるいは関係の揺らぎをテーマにしながら、それを決して感傷的にだけ描くことはせず、エリザベスの視点は常に冷静で、観察的で、しかしどこまでも優しい。
そして、どれだけ理性的に割り切っても、記憶や知識が自分の中に生き続ける。“すでに役に立たないのに、失くすこともできない親密さ”——それこそがこのアルバムの全曲に流れる主題である。
音楽的には、バンドの成熟と自信があふれており、スピード感と静謐さ、衝動と精密さのバランスが絶妙。The Bethsはこの作品で、単なる“元気なインディーポップバンド”から“感情の観察者たち”へと大きく進化を遂げた。
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おすすめアルバム(5枚)
- Mitski『Be the Cowboy』
感情の内面化と爆発のバランス感覚が共鳴。 - Alvvays『Blue Rev』
記憶と恋愛の断片をギターポップで描く構成が響き合う。 - Soccer Mommy『Sometimes, Forever』
現代的な孤独と愛の形を、甘美なサウンドで表現。 - Lucy Dacus『Historian』
個人的な歴史と感情の記録という点で共通。 - Julien Baker『Little Oblivions』
心の綻びを精緻なサウンドに刻む、誠実な表現。
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歌詞の深読みと文化的背景
“Expert in a Dying Field”という表現には、“関係が終わった後も、その人について何も忘れられない”という普遍的な痛みが込められている。
現代において、SNSや写真、テキストの履歴などによって“誰かを忘れない状態”が常に維持される中、このアルバムは“忘れることの難しさ”と“それでも前に進む必要”を、誠実に描いている。
The Bethsの音楽は、そうした感情の複雑さを、ギターリフとハーモニー、そしてポップな疾走感で包み込むことで、リスナーが抱える小さな傷を肯定するのだ。
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