発売日: 2004年10月26日
ジャンル: 詩的ポップ、エレクトロ・フォーク、ジャズ、スポークン・ワード
静けさは語る——Leonard Cohen、記憶と祈りのあいだから響く“さよならの詩”
『Dear Heather』は、Leonard Cohenが2004年にリリースした11作目のスタジオ・アルバムであり、“晩年の詩人”としての彼が、声を潜めながら世界にそっと語りかけるような作品である。
前作『Ten New Songs』に続き、Sharon RobinsonやAnjani Thomasらの協力を得ながら、ジャズや電子音、スポークン・ワードといった要素を大胆に取り入れつつも、全体としては非常に内省的で、簡素な響きをたたえている。
本作の最大の特徴は、Cohen自身の“声”の変化と、言葉そのものを音楽として響かせる手法にある。
歌というよりも**「読まれる詩」「語られる祈り」としてのトラックが多数を占めており、Cohenの人生観や信仰、喪失感が、時に幽玄に、時にユーモラスに表現されている。
全曲レビュー
1. Go No More A-Roving
詩人バイロンの詩を歌にしたオープナー。“もう夜遊びはやめよう”という言葉が、老いと節度への静かな受容を語る。
2. Because Of
女性たちへの感謝と諧謔を込めた短い語り。“彼女たちが私を嘲笑ってくれたから、私は愛し方を知った”というリフレインが印象的。
3. The Letters（duet with Sharon Robinson）
男女の視点から語られる複雑な愛の残響。“手紙”という形を通して、語られなかった言葉が交差する。
4. Undertow
水に引き込まれるような語り。沈黙と記憶のあいだを漂う、詩のような一篇。
5. Morning Glory
シンプルなシンセとリズムの上で、「おはよう、栄光」というフレーズが繰り返されるミニマルな瞑想曲。
6. On That Day
2001年9月11日を直接的に扱った数少ない楽曲のひとつ。“その日、何が失われたのか？”と問いながらも、断定を避けるCohenらしい慎み深さがある。
7. Villanelle for Our Time
詩人F.R.スコットの詩にメロディをつけたナンバー。歴史と個人の境界線をなぞる、知的で厳粛な語り。
8. There for You
無償の愛の誓いと裏切りの記録。地味ながら深く沁みる一曲。
9. Dear Heather
女性の名前を呼びかけ続けるだけのような構成。軽快なリズムと語りが融合した、不思議な浮遊感。
10. Nightingale
亡きCohenの前妻Suzanne Elrodに捧げられた可能性もあるとされる、“ナイチンゲール”の歌声に託した静かな弔い。
11. To a Teacher
師への感謝を語るスポークン・ワード。知の伝達と敬意が穏やかに綴られている。
12. The Faith
ユダヤ教の詩篇とスーフィー詩が交錯する精神的な作品。信仰とは何かを静かに問いかける終盤の核。
13. Tennessee Waltz（Live）
カバーにしてアルバムの最後を飾るのは、アメリカーナのスタンダード。 思い出と喪失が郷愁とともに溶け込む。
総評
『Dear Heather』は、Leonard Cohenという詩人が“老い”と“沈黙”のなかで何を見つめ、どのように語るかを探求した、極めて内省的な作品である。
ここには激しい主張も派手なアレンジもない。あるのは、過ぎ去った時間、交わした言葉、語れなかった祈り、そして名前を呼ぶ声だけ。
このアルバムは聴くというよりも“読む”ものかもしれない。
また、“聴き流す”のではなく、“耳を傾ける”という姿勢が試される。
レナード・コーエンは叫ばない。だが、そのささやきは、確実に聴き手の心の奥深くに届く。
『Dear Heather』は、人生の秋に寄り添うための静かなる詩集である。
おすすめアルバム
-
Ten New Songs / Leonard Cohen
静かな再出発を告げた前作。Cohen晩年の様式の確立点。 -
You Want It Darker / Leonard Cohen
死と神への最終報告書。『Dear Heather』の祈りがたどり着く終点。 -
Amnesiac / Radiohead
沈黙と断片、崩壊の美学が共鳴する詩的電子作品。 -
The Ghost in Daylight / Gravenhurst
フォークとエレクトロニカが交錯する、現代版Cohen的静謐世界。 -
Felt Mountain / Goldfrapp
記憶と夢のあいだを彷徨うような耽美なサウンドスケープ。Cohenの世界に通じる気配。
コメント