1. 歌詞の概要
「Olympus」は、Blondshell(ブロンドシェル)のセルフタイトル・デビューアルバム『Blondshell』(2023)を締めくくるラストトラックであり、その位置にふさわしい、痛みと解放を孕んだ瞑想的な楽曲である。
曲のタイトル「Olympus(オリンポス)」は、ギリシャ神話において神々の住む山を指すと同時に、理想郷・到達できない高みの象徴でもある。この曲ではそれが、語り手がかつて憧れ、逃避し、そしてついに向き合おうとする「自己の神話」や「信仰」のメタファーとして機能している。
リリックでは、自傷的な恋愛や自己否定から抜け出そうとする語り手が、「私はもうその世界に帰らない」「自分自身に戻っていく」と静かに、しかし決然と宣言する。その姿勢は、感情の爆発ではなく、むしろすべてを終わらせた後の“祈り”や“贖い”に近い。
この曲が特別なのは、痛みの記録でありながら、どこか救いの兆しを感じさせる“光”が差し込んでいる点にある。
2. 歌詞のバックグラウンド
Sabrina Teitelbaumの変名プロジェクトであるBlondshellは、そのすべての楽曲で、個人的なトラウマ・依存・セクシュアリティ・不安・破壊的な欲望を包み隠さずに表現してきた。そのアルバムの最後に置かれた「Olympus」は、そうした感情の奔流の果てにある静けさを象徴する曲である。
Blondshell本人はこの曲について、「最も自分自身と向き合った曲であり、過去の自分に別れを告げるための音楽だった」と語っている。また、彼女のユダヤ的背景や精神的な信仰の揺らぎも本曲には滲んでおり、「Olympus」という西洋神話のイメージと交差しながら、文化的アイデンティティの探求という側面も内包されている。
音楽的には、アルバム内の他楽曲に見られる攻撃的なギターや激しい展開は抑えられ、代わりにスロウテンポで繊細なコード進行が、穏やかな沈黙とともに感情を包み込む。まるで静かな独白のような曲構成が、最後の一歩を踏み出す“内なる儀式”として機能している。
3. 歌詞の抜粋と和訳
I spent so many summers
On the edge of Olympus
Screaming like a child
Begging to be righteous
私はたくさんの夏を過ごした
オリンポスのふもとで
子どものように叫びながら
「正しくありたい」と必死に願って
But I’m not going back
I don’t believe in it now
でも、もうあの場所には戻らない
私は、もうそれを信じていないから
I see my name in stone
And I leave it there
石に刻まれた私の名前が見える
でもそれには触れずに、そのまま置いていく
I want to live without dying
I want to touch without buying
死なずに生きたい
何かを“買う”ことなく、誰かに触れたい
歌詞引用元:Genius – Blondshell “Olympus”
4. 歌詞の考察
「Olympus」は、自己の神話的構造を解体するための歌である。かつて「正しくあろう」と必死に努力し、誰かに愛されるために“自分を削っていた”語り手が、ようやくその物語から降りようとする姿が静かに描かれている。
この曲のなかで「オリンポス」は、理想的で到達不可能な存在になろうとした場所、あるいは“救いを求めていた架空の天界”のような空間である。そこに辿り着こうとするほどに、語り手は現実の自分を否定し続けていた。けれどこの曲では、「もうそこへは帰らない」という言葉が何度も繰り返される。
それは敗北ではなく、「幻想からの離脱」であり、「今のままの自分でよい」と言えるようになるまでの長い旅の終わりなのだ。
とくに「I want to live without dying」というフレーズは、このアルバム全体の感情的な核を凝縮したような一節である。苦しみのなかにしか“生きている実感”を持てなかった語り手が、ようやく「苦しまずに生きる」という未来に手を伸ばし始めている。この変化は微細であるが、強い。
また「I see my name in stone」というラインは、自分の“死”や“固定化された過去”を意味する象徴であり、「私はそれに触れない」「置いていく」という行為は、“その過去の自己像と決別する”という静かな決断を意味している。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Funeral by Phoebe Bridgers
死と生の境界をさまようような感覚と、内なる静寂を見つめた内省的なバラード。 - Colorblind by Counting Crows
過去の痛みから抜け出すことはできないが、それを受け入れることでしか前へ進めない心情を描いた名曲。 - Goodbye My Danish Sweetheart by Mitski
壊れた関係への別れと、そこにあった優しさを静かに弔う詩的な作品。 -
When the Party’s Over by Billie Eilish
限界を迎えた人間関係を終わらせる静かな告白と、それを優しく包むサウンドが美しい。 -
Dogwood by Slaughter Beach, Dog
死生観や信仰を静かに描き出す、都会的で祈りのようなフォーク・ポップ。
6. “神話から降りる”ことが、本当の救いかもしれない
「Olympus」は、Blondshellというアーティストの魂の脱皮を象徴する一曲であり、彼女が語り続けてきた痛みの旅路の終着点として、穏やかで確かな解放を描いている。
苦しみから抜け出すことも、神話のなかの理想的な自分から降りることも、簡単ではない。でもそれは、誰かに強制された治癒ではなく、自ら選び取る“生きるための別れ”なのだ。
この曲がラストに置かれているという事実もまた重要である。すべての感情の爆発を経たあとに、この静けさが訪れることこそ、回復のリアルを物語っている。
「苦しみなしには生きられない」と思っていた人が、「苦しみを手放しても私は私だ」と言えるようになるまでの物語——それが「Olympus」なのだ。
「Olympus」は、すべての“終わりたいのに終われなかった感情”にそっと蓋をしてくれるような、静かで清らかな一曲である。過去の理想像や、誰かのために捧げた痛みの記憶を、“置いていく”ための音楽。それは静かな別れであると同時に、未来への祈りでもある。
この曲を聴いたあと、あなたもきっと、自分自身に「帰ってきた」と感じられるだろう。Blondshellの声が、そっとその手を引いてくれる。
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