1. 歌詞の概要
「Apple Juice」は、ロンドン出身のシンガーソングライター、Gretel Hänlyn(グレーテル・ヘンリン)が2022年にリリースした楽曲であり、彼女のデビューEP『Slugeye』に収録された中でも特に印象的な一曲である。この曲は、軽やかでありながらどこか不穏なムードを湛えたギターサウンドと、Hänlyn特有の低く憂いを帯びた歌声が絡み合い、日常の中に潜む“違和感”や“感情の行き場のなさ”を描いている。
タイトルの「Apple Juice(りんごジュース)」は一見すると無垢で甘いものの象徴のように思えるが、ここではむしろ“親しみやすさ”と“孤独”のアンビバレンスな象徴として機能しており、日常に潜む疎外感や誰にも届かない想いを、ポップな記号の中に閉じ込めている。
楽曲は全体として、どこか夢と現実のあわいを漂うような浮遊感があり、心の“ちくりとした痛み”を鋭利ではなく、やわらかい輪郭で描写している。感情を爆発させるのではなく、静かに滲ませるようにして提示するこの手法は、Gretel Hänlynというアーティストのスタイルを象徴している。
2. 歌詞のバックグラウンド
Gretel Hänlynは、2020年代UKインディの中でも特に注目されている新鋭女性アーティストであり、彼女の音楽にはオルタナティブ・ロック、ドリームポップ、グランジ、ゴシックなどの要素が混在している。彼女は自らの音楽を「ストーリーテリングの延長」として位置づけており、その語り口はしばしば抽象的で比喩的、聴き手に解釈の余白を残す。
「Apple Juice」もその例に漏れず、明確なストーリーがあるというよりは、“感情の温度感”や“身体的な記憶”を断片的にすくい取って構成されたような印象を持つ。歌詞の中には家庭的で幼さを想起させるイメージと、心の奥にある陰影が交錯しており、それが独特の没入感を生んでいる。
また、サウンド面ではベースラインが特に印象的で、重心の低いトーンが楽曲全体を包み込みながら、彼女のヴォーカルとせめぎ合うようにして展開されていく。この“心の揺らぎ”を音の動きで表現するバランス感覚が、Gretel Hänlynの楽曲を特別なものにしている。
3. 歌詞の抜粋と和訳
You left your apple juice
In the fridge again
また冷蔵庫に
君のりんごジュースが残ってた
I drink it just to feel close
But it doesn’t help
近くに感じたくて飲んでみた
でも、なんにも変わらなかった
Your coat still hangs on the door
Like you’re coming back
ドアにはまだ
君のコートがかかってる
まるでまた戻ってくるみたいに
But silence sits in your place
And I talk to it sometimes
でも今じゃ
沈黙が君の代わりにそこにいて
ときどきそれに話しかけたりしてるんだ
歌詞引用元:Genius – Gretel Hänlyn “Apple Juice”
4. 歌詞の考察
「Apple Juice」は、誰かを失ったあとの“空間に残る記憶”について描いた作品であり、それは恋人か、家族か、あるいは自分自身の過去の姿かもしれない。りんごジュースやコートといった、日常の中に埋め込まれた“痕跡”たちは、あまりに普通であるがゆえに、失ったことをかえって強く意識させる。
特に印象的なのは、「沈黙が君の代わりにそこにいて、それに話しかける」という描写だ。これは、喪失や孤独を語るうえで非常に詩的かつ感覚的なラインであり、そこには“いない誰か”と“まだ語りたい自分”のあいだの、微妙で痛ましい距離感が現れている。
また、「飲んでも何も変わらなかった」というラインは、失った相手との“再接触”を夢見ながらも、それが不可能であることを突きつけられる瞬間の冷たさを象徴している。それは感情の爆発ではなく、静かに降り積もる雪のような感覚で描かれており、より深い共鳴を誘う。
この曲では、失った存在そのものが直接描かれるのではなく、“その人がいた空間”を通じて浮かび上がるという構成が取られており、聴き手はその“空白”の輪郭をなぞるようにして、かつての温度を追体験することになる。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Motion Sickness by Phoebe Bridgers
親密な喪失と自己分解のプロセスを、淡々と綴る語り口が共鳴する。 - Shades by Weyes Blood
ノスタルジックでシュールな恋愛観と、静かに崩れていく感情がリンクする。 - K. by Cigarettes After Sex
感情が言葉になるよりも先に滲み出すような、記憶の湿度を帯びた楽曲。 -
Avant Gardener by Courtney Barnett
日常の些細な描写のなかに潜む心理的風景をユーモア混じりに描く、独特な語り口が似ている。 -
Someone New by Hozier
新たな関係に踏み出しながらも過去を抱え続ける姿を、洗練された歌詞とメロディで表現した一曲。
6. “りんごジュース”に宿る記憶の物語
「Apple Juice」は、“普通のもの”が“特別な痕跡”になる瞬間を描いた楽曲である。Gretel Hänlynはこの曲で、喪失や寂しさといった感情を直接的に語るのではなく、モノや空間を通して間接的に提示するというアプローチを取っている。それは非常に繊細で、聴き手の想像力を刺激する。
この曲が与える感覚は、どこか無重力で、静かに揺れ続ける。過剰な感情表現ではなく、むしろ抑えられた感情のなかに“本当の痛み”が息づいている。その痛みを丁寧に音とことばに閉じ込めたこの楽曲は、Gretel Hänlynというアーティストの底知れなさを証明する作品でもある。
「Apple Juice」は、空間に残された“日常の名残”が、どれほど雄弁に語りかけてくるかを教えてくれる。彼女がそっと差し出すりんごジュースのグラスの奥には、誰にも届かない優しさと、壊れやすい感情の記憶が、確かに揺れているのだ。
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