
発売日:1987年3月9日
ジャンル:ロック、オルタナティヴ・ロック、ポスト・パンク、ルーツ・ロック、アリーナ・ロック
概要
U2の5作目『The Joshua Tree』は、1980年代ロックを代表する名盤であり、U2を世界的なロック・バンドから、時代を象徴する巨大な存在へ押し上げた作品である。1980年のデビュー作『Boy』でポスト・パンク以降の若い緊張感を示し、1983年の『War』で政治的メッセージを前面に出し、1984年の『The Unforgettable Fire』でBrian EnoとDaniel Lanoisのプロデュースによるアンビエント的な音響美学を獲得したU2は、本作でそのすべてを統合した。『The Joshua Tree』は、ロックの大きなスケール、宗教的・倫理的な問い、アメリカ音楽への憧れと批判、そしてバンドとしての音響的な個性が高い次元で結びついた作品である。
本作のタイトルにあるジョシュア・ツリーは、アメリカ南西部の砂漠地帯に生える独特な形の植物である。U2はアイルランドのバンドでありながら、このアルバムではアメリカの風景、神話、音楽、政治、矛盾に強く向き合っている。砂漠、道路、教会、ゴスペル、ブルース、フォーク、移民、戦争、帝国主義、信仰、孤独。そうしたアメリカ的なイメージが、U2のヨーロッパ的な視点を通して再構成されている。『The Joshua Tree』は、単なるアメリカ賛歌ではない。むしろ、アメリカに強く惹かれながら、その暴力や不正義にも目を向ける作品である。
音楽的には、本作はU2のサウンドが最も広大に開かれたアルバムである。The Edgeのギターは、ディレイとリヴァーブを用いて、従来のロック・ギターとは異なる空間的な響きを作る。彼のギターは、リフを前面に出して曲を支配するのではなく、光、風、地平線のように曲の空間を広げる。Adam Claytonのベースは、シンプルながら重心を支え、Larry Mullen Jr.のドラムは、曲ごとに行進、祈り、鼓動、広い道を進むような推進力を与える。Bonoのヴォーカルは、怒り、祈り、欲望、喪失、希望を大きな声で歌い上げながらも、どこか傷ついた人間の切実さを保っている。
プロデューサーのBrian EnoとDaniel Lanoisの役割も極めて重要である。彼らはU2のロック・バンドとしての力を過度に磨き上げるのではなく、音の余白、残響、空気感を重視した。これにより、『The Joshua Tree』は単なるアリーナ・ロックの大作ではなく、砂漠のような空間性を持つアルバムになっている。音は大きいが、過密ではない。むしろ、広い空白の中で一つ一つの音が響く。その余白が、本作の精神性を支えている。
歌詞面では、信仰と疑い、愛と欠落、政治的暴力と人間の尊厳、アメリカへの憧れと幻滅が中心にある。「I Still Haven’t Found What I’m Looking For」では、信仰を持ちながらもなお探し続ける人間の姿が歌われる。「Bullet the Blue Sky」では、アメリカの中南米政策への怒りが、黙示録的なイメージで描かれる。「Mothers of the Disappeared」では、政治的暴力によって行方不明になった人々と、その母親たちの悲しみが静かに扱われる。U2の政治性は、本作において単なるスローガンではなく、祈りや怒り、悼みとして表現されている。
キャリア上の位置づけとして、『The Joshua Tree』はU2の第一次頂点である。このアルバムによって、彼らはポスト・パンク以降のバンドから、世界規模のロック・バンドへと完全に移行した。しかし、その成功は後にバンドに大きな重圧を与えることにもなる。あまりにも真摯で、あまりにも壮大なU2像が固定化されたため、1991年の『Achtung Baby』では、彼らはこのイメージを意図的に壊しにかかる。つまり『The Joshua Tree』は、U2の完成形であると同時に、次の変革を必要とさせた作品でもある。
後の音楽シーンへの影響は非常に大きい。Coldplay、Radiohead初期、The Killers、Snow Patrol、Keane、Kings of Leonの一部の作品など、大きな感情と広がりのあるギター・サウンドを結びつけるロック・バンドにとって、本作は重要な参照点となった。特に、個人的な感情を巨大な空間へ拡張し、ライブ会場全体で共有できるアンセムにする方法は、U2が本作で決定的に示したものである。
『The Joshua Tree』は、ロック・アルバムとして非常に大きなスケールを持ちながら、その根底には欠落がある。探し続けているが、まだ見つからない。愛しているが、共にいても共にいなくても満たされない。理想を信じたいが、現実には暴力がある。広大な土地を見つめているが、その下には悲しみが埋まっている。この欠落と希望の共存こそ、本作が長く聴き継がれてきた理由である。
全曲レビュー
1. Where the Streets Have No Name
オープニング曲「Where the Streets Have No Name」は、U2のキャリアを代表する楽曲であり、『The Joshua Tree』の世界を一気に開く壮大な導入である。静かに立ち上がるオルガンのような音、The Edgeの反復するギター・アルペジオ、徐々に加わるリズム隊、そしてBonoの声。この曲の冒頭は、ロック・ミュージックにおける最も印象的な開幕の一つである。
タイトルの「通りに名前のない場所」は、社会的な区分や階級、宗教的分断を超えた場所を象徴している。Bonoは、ベルファストなどで通りの名前によってその地域の宗派や階級が分かる現実から着想を得ているとされる。つまり、名前のない通りとは、アイデンティティによって人々が分断されない理想の場所である。同時に、それは地上には存在しないかもしれないユートピアでもある。
音楽的には、曲全体が上昇していく構造を持つ。The Edgeのギターは、リフというより光の線のように機能し、曲に地平線を与える。Larry Mullen Jr.のドラムは、曲が完全に始まる瞬間に強い推進力を生み、Adam Claytonのベースはその広がりをしっかり支える。Bonoのヴォーカルは、個人的な願いから集団的な祈りへと広がっていく。
この曲は、単なる開放的なアンセムではない。そこには、現実の分断から逃れたいという切実な願いがある。だからこそ、聴き手はこの曲を単なる大きなロック・ソングとしてではなく、どこか別の場所へ向かうための祈りとして受け取ることができる。『The Joshua Tree』は、この曲によって、地理的にも精神的にも広大な旅を開始する。
2. I Still Haven’t Found What I’m Looking For
「I Still Haven’t Found What I’m Looking For」は、U2の信仰的な核心を象徴する楽曲である。タイトルは「自分が探しているものを、まだ見つけていない」という意味であり、信仰、救済、愛、人生の意味を求め続ける人間の姿を描いている。この曲が重要なのは、信仰を否定しているのではなく、信じながらもなお探し続けている点にある。
音楽的には、ゴスペルの影響が強い。リズムは穏やかで、メロディは大きく開かれ、Bonoの歌唱は教会音楽的な高揚を持つ。しかし、歌詞は完全な到達や救済を宣言しない。山に登り、街を走り、天使の言葉を語り、悪魔の手にも触れ、それでもまだ見つけていない。この未到達の感覚が、曲に深い人間味を与えている。
U2の宗教性は、しばしば誤解されやすい。彼らは信仰を単純な答えとして提示するのではなく、問い続ける態度として歌う。この曲においても、Bonoは神を信じているように歌いながら、その信仰が人生の欠落を完全には埋めていないことを認める。この正直さが、曲を単なる宗教歌ではなく、普遍的な探求の歌にしている。
The Edgeのギターは、ここでも過剰に前へ出ず、透明な響きで曲を支える。音の余白が多いため、Bonoの声と歌詞の意味が大きく響く。「I Still Haven’t Found What I’m Looking For」は、U2の中でも最も美しい矛盾を抱えた曲である。信じているが、まだ探している。進んできたが、まだ到達していない。その感覚は、多くのリスナーにとって宗教を超えた人生の実感として響く。
3. With or Without You
「With or Without You」は、U2最大の代表曲のひとつであり、愛と依存、欲望と苦しみ、共にいることと離れることの矛盾を描いた楽曲である。曲は非常にシンプルなコード進行と、持続するベースラインを基盤にしている。そこにThe Edgeのギター、抑制されたドラム、Bonoの徐々に高まるヴォーカルが重なり、静かな緊張が巨大な感情へ変化していく。
タイトルの「君といても、君なしでも」は、恋愛における根本的な矛盾を示している。相手と共にいることは苦しい。しかし、相手なしでいることもできない。これは情熱的な愛の歌であると同時に、依存や執着、自己喪失の歌でもある。U2のラブソングは、しばしば人間的な愛と神への渇望が重なるが、この曲でも愛の対象は一人の人物であると同時に、より大きな欠落の象徴のようにも響く。
音楽的な特徴として、曲の構造は極めて抑制されている。大きなギター・ソロや劇的な転調ではなく、同じ循環の中で感情が強まっていく。これは歌詞のテーマとよく合っている。関係の中で抜け出せない循環、求めても満たされない反復が、音楽そのものに刻まれている。
Bonoの歌唱は、曲の後半で感情を解放する。しかし、その解放は完全な救いではない。むしろ、どうにもならない感情が声として噴き出す瞬間である。「With or Without You」は、U2の美しいアンセムであると同時に、愛の苦しさを非常に正確に捉えた曲である。
4. Bullet the Blue Sky
「Bullet the Blue Sky」は、『The Joshua Tree』の中で最も激しく、政治的な怒りが前面に出た楽曲である。中南米におけるアメリカの軍事的・政治的介入を背景にしており、U2のアメリカへの憧れが、ここでは批判と怒りへ反転する。前3曲が祈りや愛、理想を扱っていたのに対し、この曲では暴力の現実がむき出しになる。
音楽的には、The Edgeのギターが鋭く歪み、爆撃のような音響を作る。Larry Mullen Jr.のドラムは重く、軍事的な行進や攻撃を連想させる。Adam Claytonのベースは低く不穏にうねり、曲全体に危険な緊張を与える。Bonoのヴォーカルは、歌というより説教、幻視、告発に近い。
歌詞では、空を切り裂く弾丸、燃える十字架、軍事力、金銭、宗教的偽善が黙示録的なイメージで描かれる。ここでのアメリカは、自由や希望の国ではなく、武力と経済力によって他国に影響を及ぼす帝国的な存在として現れる。『The Joshua Tree』がアメリカに魅了されたアルバムであると同時に、アメリカの闇を見つめる作品であることを、この曲は明確に示している。
「Bullet the Blue Sky」は、単なるプロテスト・ソングではない。音楽そのものが暴力の感覚を持っている。美しいメロディではなく、歪んだギターと重いリズムによって、政治的怒りを身体的に感じさせる。この曲によって、アルバムは理想主義的な広がりだけでなく、現実の残酷さを含む作品になる。
5. Running to Stand Still
「Running to Stand Still」は、『The Joshua Tree』の中でも最も静かで、痛みの深い楽曲のひとつである。タイトルは「立ち止まるために走る」という意味であり、抜け出そうとしても同じ場所に戻ってしまう、あるいは動き続けても何も変わらない状態を示している。歌詞は、ダブリンのBallymun地区におけるヘロイン問題を背景にしているとされる。
サウンドは非常に抑制されている。ピアノ、ギター、ハーモニカのような響きが静かに配置され、曲全体に荒涼とした空気を作る。前曲「Bullet the Blue Sky」が外側の政治的暴力を描いたのに対し、この曲は内側の崩壊を描く。社会の片隅で、依存症と貧困によって壊れていく生活。その痛みが、静かな音楽として提示される。
歌詞では、一人の女性の姿を通して、逃れられない状況が描かれる。走っているのに、立ち止まるために走っている。これは依存症だけでなく、社会的な閉塞や人生の袋小路を象徴する言葉でもある。U2はここで、誰かを道徳的に裁くのではなく、その人の置かれた状況に静かに寄り添う。
Bonoの歌唱は、非常に抑えられている。大きく叫ぶのではなく、物語を静かに語る。そのため、曲の悲しみはより深く響く。「Running to Stand Still」は、U2の社会的まなざしが、スローガンではなく個人の悲劇として表現された名曲である。
6. Red Hill Mining Town
「Red Hill Mining Town」は、英国の炭鉱労働者とその共同体を背景にした楽曲である。1980年代の英国では、炭鉱閉鎖や労働争議が大きな社会問題となっており、この曲はそのような労働者階級の苦境に対するU2の共感を示している。U2はアイルランドのバンドだが、本作ではアメリカだけでなく、英語圏全体の労働、政治、共同体の問題にも目を向けている。
音楽的には、力強いロック・バラードである。Bonoのヴォーカルは非常に感情的で、曲全体に切迫感がある。The Edgeのギターは、空間を広げるというより、曲の情感を支える形で鳴る。リズム隊は重く、労働や共同体の重みを感じさせる。
歌詞では、仕事を失い、共同体が壊れていく人々の痛みが描かれる。鉱山町は単なる経済的な場所ではない。そこには家族、誇り、労働者としてのアイデンティティ、地域の歴史がある。炭鉱の閉鎖は、職を失うことだけでなく、生活の意味を失うことでもある。この曲は、その悲しみを大きなメロディで表現している。
「Red Hill Mining Town」は、U2の政治的関心が国際問題だけでなく、労働者の生活や共同体の崩壊にも向けられていたことを示す。派手なシングル曲ではないが、本作の社会的な奥行きを支える重要な楽曲である。
7. In God’s Country
「In God’s Country」は、アメリカの理想と現実を象徴的に描く楽曲である。タイトルは「神の国にて」という意味を持ち、アメリカがしばしば自らを神に祝福された国として描いてきた歴史や神話を想起させる。しかし、この曲における「神の国」は、単純に祝福された場所ではなく、乾いた砂漠、夢、欲望、喪失が入り混じる場所である。
音楽的には、比較的テンポが速く、アルバム中盤に明るい推進力を与える。The Edgeのギターは軽やかに響き、曲全体に広い道路を走るような感覚がある。だが、その爽快さの中にも、どこか乾いた不安がある。これはまさに本作におけるアメリカ像そのものである。
歌詞では、砂漠、女性像、自由、夢、火、空虚が断片的に描かれる。アメリカは魅力的な場所であり、宗教的な理想や自由の象徴でもある。しかし、その中には暴力や欲望、神話化された幻想もある。U2はここで、アメリカを外から憧れるだけでなく、その神話を問い直している。
「In God’s Country」は、『The Joshua Tree』のアメリカ的風景を最も直接的に感じさせる曲の一つである。軽快なロック・ソングでありながら、歌詞には神話と現実の緊張がある。アルバムのテーマをコンパクトに表した重要曲である。
8. Trip Through Your Wires
「Trip Through Your Wires」は、本作の中でもブルースやルーツ・ロックの影響が比較的強く表れた楽曲である。タイトルは「君のワイヤーにつまずく」というような意味を持ち、恋愛、依存、電気的なつながり、罠のような関係を連想させる。アルバムの中ではやや荒く、身体的な感触を持つ曲である。
音楽的には、ハーモニカやブルージーなリズムが印象的で、U2がアメリカ南部音楽の影響を吸収しようとしていたことが分かる。ただし、彼らはブルースをそのまま再現するわけではない。U2の空間的なギターや80年代的な音響の中に、ブルース的な身体性を取り込んでいる。
歌詞では、相手への強い引力と、その関係の危うさが描かれる。ワイヤーはつながりであると同時に、足を取られるものでもある。愛や欲望は、人を救うこともあれば、絡め取ることもある。この曲では、その危うい官能性が、比較的軽快なロックンロールの形で表現されている。
「Trip Through Your Wires」は、アルバム全体の中で重いテーマが続く流れに、土臭いロックの感触を加える曲である。U2が本作でアメリカ音楽の根に接近しようとしていたことを示すトラックである。
9. One Tree Hill
「One Tree Hill」は、U2の中でも特に美しい追悼の歌である。この曲は、Bonoの親しい友人であり、U2のスタッフでもあったGreg Carrollの死に捧げられている。タイトルはニュージーランドのオークランドにある丘の名前であり、個人的な記憶と場所の感覚が結びついている。
音楽的には、透明感があり、徐々に感情が高まっていく。リズムには軽い躍動感があるが、曲全体には深い悲しみが流れている。The Edgeのギターは、広い空と記憶の中の風景を描くように鳴る。Bonoの歌唱は、哀悼でありながら、完全に沈み込むのではなく、空へ向かって開いていく。
歌詞では、死、記憶、自然、友情、再会への希望が描かれる。U2の歌詞において、死はしばしば終わりであると同時に、信仰的な問いを開くものでもある。この曲でも、失われた友人への悲しみは深いが、それは完全な絶望ではなく、どこか祈りへ向かっている。
「One Tree Hill」は、『The Joshua Tree』後半の感情的な中心である。大きな政治的テーマから離れ、具体的な一人の死を歌うことで、アルバムに個人的な深みを与えている。U2の壮大さが、個人への悼みと結びついた名曲である。
10. Exit
「Exit」は、『The Joshua Tree』の中で最も暗く、危険な楽曲である。殺人者の心理や暴力への引力を描いた曲とされ、アルバム全体の中でも異質な緊張感を持つ。ここでは、信仰や希望ではなく、人間の内側にある闇が前面に出る。
音楽的には、静かな導入から徐々に不穏な緊張が高まり、最終的に暴力的な爆発へ向かう。Adam Claytonのベースは低くうねり、Larry Mullen Jr.のドラムは抑制されたまま圧力を増す。The Edgeのギターは鋭く、曲全体に危険な空気を与える。Bonoのヴォーカルは、語り、叫び、祈りの境界を行き来する。
歌詞では、神を求めながらも暴力へ向かってしまう人物の心理が描かれる。ここで重要なのは、U2が人間の闇を外部の悪としてではなく、内側に潜むものとして扱っている点である。『The Joshua Tree』には信仰と希望があるが、その対極として、救いを見失った人間の破壊性も描かれる。
「Exit」は、アルバム終盤において非常に重要な役割を果たす。ここまで広大な理想、信仰、政治的怒り、個人的な喪失が描かれてきたが、この曲ではすべてが暗い内面へ沈む。人間は救いを求める存在であると同時に、暴力へ堕ちる存在でもある。その緊張が、この曲の核心である。
11. Mothers of the Disappeared
ラスト曲「Mothers of the Disappeared」は、本作を静かに、しかし非常に重い余韻で締めくくる楽曲である。タイトルは「消えた人々の母たち」を意味し、ラテンアメリカの軍事独裁政権下で行方不明になった人々と、その母親たちの運動を背景にしている。『The Joshua Tree』の最後にこの曲が置かれることは、アルバム全体の倫理的な結論として極めて重要である。
音楽的には、非常に抑制されている。リズムは儀式的で、シンセやギターは広い空間に静かに響く。ここには、派手なクライマックスはない。むしろ、失われた人々の不在を、そのまま音の余白として残している。大きな声で怒るのではなく、静かに悼む曲である。
歌詞では、子どもを奪われた母親たちの悲しみと、その記憶が描かれる。政治的暴力は、ニュースや歴史の中では数字として語られがちだが、この曲はそれを母親の視点から捉える。失踪した人々は単なる犠牲者ではなく、誰かの子であり、家族であり、記憶の中に残り続ける存在である。
「Mothers of the Disappeared」は、『The Joshua Tree』を大きな勝利のアルバムとして終わらせない。むしろ、世界にはまだ解決されていない悲しみがあることを示して終わる。この静かな終幕によって、本作は単なるロックの成功作ではなく、歴史と倫理に向き合う作品となっている。
総評
『The Joshua Tree』は、U2のキャリアにおける最重要作であり、1980年代ロックを象徴するアルバムのひとつである。ポスト・パンクから出発したバンドが、アンビエント的な音響、アメリカ音楽への接近、政治的問題意識、信仰的な問い、大規模なロック・アンセムを統合し、世界的なスケールへ到達した作品である。
本作の最大の魅力は、広大さと欠落の共存にある。音楽は大きく、風景は広く、歌は天へ向かう。しかし、歌詞の中心には常に「まだ見つからないもの」がある。「Where the Streets Have No Name」では分断のない場所を求め、「I Still Haven’t Found What I’m Looking For」では救済を求め、「With or Without You」では満たされない愛を歌う。アルバム前半の代表曲群は、いずれも希望を持ちながら、その希望がまだ完全には実現していないことを示している。
一方で、本作は単なる精神的な探求のアルバムではない。「Bullet the Blue Sky」や「Mothers of the Disappeared」では、政治的暴力への怒りと悼みが明確に表れている。「Red Hill Mining Town」では労働者階級の苦境が描かれ、「Running to Stand Still」では都市の貧困と依存症の問題が扱われる。U2の理想主義は、現実から目を背けるものではなく、現実の痛みを見たうえでなお希望を求める姿勢である。
音楽的には、The Edgeのギター・サウンドが本作の風景を決定づけている。彼のギターは、ブルース的なソロやハードロック的なリフとは異なり、反復、残響、空間によって曲を形作る。これは、U2を他のロック・バンドと分ける大きな要素である。ギターが風景を作り、ベースとドラムがその地面を支え、Bonoの声が空へ向かって伸びる。この組み合わせが、本作の広大な音響を生んでいる。
Brian EnoとDaniel Lanoisのプロダクションも、本作の完成度に大きく貢献している。彼らはU2を過剰に装飾するのではなく、音の余白を活かした。砂漠のような広さ、教会のような残響、夜明け前の静けさ、遠い雷鳴のようなギター。それらが、アルバム全体に独特の空気を与えている。この空気感がなければ、『The Joshua Tree』は単なる壮大なロック・アルバムにとどまっていた可能性がある。
歌詞面では、Bonoの大きな言葉が最も説得力を持った時期の作品といえる。後年、U2の壮大なメッセージ性は時に過剰に受け取られることもあるが、本作ではその真摯さが音楽と強く一致している。信仰、政治、愛、死、自由、暴力といった大きなテーマが、抽象的な理念ではなく、具体的な声、場所、人間の痛みとして歌われている。
ただし、本作の成功はU2にとって大きな転機であると同時に、重荷にもなった。『The Joshua Tree』によって、U2は「真面目で壮大なロック・バンド」として世界中に認識された。そのイメージを打破するために、彼らは次の本格的なスタジオ・アルバム『Achtung Baby』で、皮肉、ノイズ、ダンス・ミュージック、都市的な退廃へ向かうことになる。つまり『The Joshua Tree』は、一つの完成であると同時に、その完成を壊す必要を生んだ作品でもある。
日本のリスナーにとって、『The Joshua Tree』はU2入門として最も重要なアルバムの一つである。「Where the Streets Have No Name」「I Still Haven’t Found What I’m Looking For」「With or Without You」という冒頭3曲だけでも、U2の魅力が非常に分かりやすく伝わる。しかし、アルバム全体を聴くと、後半にはより暗く、政治的で、内省的な曲が多く含まれていることが分かる。本作の本質は、ヒット曲だけでなく、後半の重い余韻まで含めた流れにある。
総合的に見て、『The Joshua Tree』は、ロックが個人的な感情、宗教的な探求、政治的な怒り、世界的なスケールを同時に引き受けることができた時代の代表的な作品である。美しく、壮大で、真摯でありながら、決して単純な勝利のアルバムではない。探し続け、傷つき、怒り、祈り、なお前へ進もうとする。その姿勢こそが、『The Joshua Tree』を時代を超える名盤にしている。
おすすめアルバム
1. U2『The Unforgettable Fire』
1984年発表のアルバム。Brian EnoとDaniel Lanoisをプロデューサーに迎え、U2がポスト・パンク的な直線性から、アンビエント的な音響と抽象的な表現へ進んだ転換作である。『The Joshua Tree』の広大なサウンドと精神性の前段階として重要であり、「Pride」や「Bad」などを収録している。
2. U2『Achtung Baby』
1991年発表のアルバム。『The Joshua Tree』で完成された真摯で壮大なU2像を意図的に破壊し、オルタナティヴ・ロック、インダストリアル、ダンス・ミュージック、アイロニーを取り入れた作品である。本作の後にU2がどのように自己更新したかを理解するうえで欠かせない。
3. Bruce Springsteen『Born in the U.S.A.』
1984年発表のアルバム。アメリカ的なロック・サウンド、労働者階級へのまなざし、国民的イメージとその裏側にある痛みを扱った作品である。U2の『The Joshua Tree』がアメリカを外側から見たアルバムだとすれば、本作はアメリカの内側からその矛盾を描いた作品として比較できる。
4. R.E.M.『Document』
1987年発表のアルバム。アメリカのオルタナティヴ・ロックが政治性とバンド・サウンドを結びつけた重要作である。U2ほど壮大なスケールではないが、1980年代後半のロックが社会的な問題意識をどう表現していたかを理解するうえで関連性が高い。
5. The Waterboys『This Is the Sea』
1985年発表のアルバム。大きなスケールのロック・サウンド、詩的な歌詞、スピリチュアルな高揚感を持つ作品であり、U2の80年代中期の音楽性と共鳴する部分が多い。『The Joshua Tree』の壮大で精神的なロック表現を別の角度から理解するために適した一枚である。

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