発売日: 2022年3月4日
ジャンル: インディーロック、オルタナティヴ・ポップ、トリップホップ、アートロック
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概要
『Painless』は、Nilüfer Yanyaが2022年に発表したセカンド・アルバムであり、デビュー作『Miss Universe』に続いて、自己の内面と都市の孤独、感情の硬直と解放を、さらに抽象的かつ繊細に掘り下げた作品である。
本作では、よりミニマルで直接的なアレンジにシフトし、ギター、リズム、声が主役となる構成を採用。イギリスのプロデューサーWilma Archer(Sudan ArchivesやJessie Wareの作品でも知られる)との共同制作により、冷たくもダイナミックなサウンドが全編を貫いている。
タイトルの「Painless(無痛)」は、文字どおり“痛みがない”状態を示すが、ここではむしろ「痛みすら感じられない麻痺した感覚」への問いが内包されている。その問いは、喪失、親密さ、自己防衛といったテーマを軸に、静かに、だが強く響いてくる。
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全曲レビュー
1. The Dealer
アルバム冒頭を飾る、タイトで冷静なギターリフが印象的な曲。感情に距離を置きながら、何かを“取引”するように人と接する姿勢を描く。
2. L/R
左右(Left/Right)に揺れ続ける思考と感情の分断を、反復的なリズムで体現。インナービートが次第に神経を刺激する構造。
3. Shameless
抑圧された欲望と自意識のせめぎ合いを、幽玄なギターと繊細なボーカルで表現。低音の効いたトラックが耳に残る。
4. Stabilise
本作のハイライトの一つ。ビートは硬質でアグレッシブ、歌は都会の孤独と生き抜くための自己確立を高らかに告げる。MVも話題に。
5. Chase Me
タイトルの“追いかけて”という言葉とは裏腹に、リズムは一定で冷静。恋愛や関係における距離の取り方へのメタファー。
6. Midnight Sun
最もエモーショナルなナンバーのひとつ。夜の果てに太陽が昇るという逆説的なイメージを、徐々に高揚していくサウンドで描く。
7. Trouble
タイトル通り、感情の摩擦や混乱をテーマにした楽曲。ストリングスのようなギターと、ドライなドラムが不安定な情緒を支える。
8. Try
淡々としたビートの中で、関係を修復しようとする試みに疲れきった語り。どこか希望のない「努力」が胸に残る。
9. Company
孤独の中に誰かを求める気持ちを、パーカッシブなリズムとミニマルなコード進行で表現。終盤にかけてビートが崩れていく構成も見事。
10. Belong With You
“誰かといたい”という直球の願いが、Nilüferらしい抑えたボーカルで逆に鋭く響く。ポップさと切なさの同居。
11. The Mystic
終盤を彩る内省的トラック。人との距離、自分の中にある霊的な“不在”について静かに問いかける。
12. Anotherlife
アルバムのクロージングにふさわしい幻想的なトラック。もうひとつの人生=「痛みのない世界」への願望を、美しいギターと残響で包む。
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総評
『Painless』は、Nilüfer Yanyaというアーティストの“余白”と“抑制”を極限まで研ぎ澄ませたアルバムであり、前作の持っていたコンセプト性から、より純粋な「音楽と感情」のミニマルな関係へと到達した作品である。
多文化的な出自を持つYanyaが、ジャンルに縛られず、自分の声、ギター、リズムという限られた要素でどこまで表現できるかに挑戦しており、そのストイックな姿勢がかえって聴く者の感情を深く揺さぶる。
“無痛”というテーマは、痛みを取り除くことではなく、痛みを感じないことへの恐れであり、そこには現代人の感情の麻痺や希薄化が反映されている。Yanyaはそれを暴力的に叫ぶのではなく、ほとんど独り言のように、音の波に紛れさせて歌う。それがかえって、強く心に残る。
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おすすめアルバム(5枚)
- Big Thief『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』
感情とフォークの繊細さが共鳴する傑作。 - Adrianne Lenker『songs』
ミニマルで私的な空間性が『Painless』の静謐さと重なる。 - Sharon Van Etten『Remind Me Tomorrow』
内省とロックの力強さが交差する作品。 - Aldous Harding『Designer』
抽象的リリックとアンニュイな音像の親和性。 - Arlo Parks『My Soft Machine』
現代的な感性と抑えたエモーションが、Yanyaと通じ合う。
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歌詞の深読みと文化的背景
『Painless』における歌詞は、都市生活における断片的な人間関係、自己との距離、愛と孤独、そして痛みに対する感覚麻痺を中心に描かれている。
“Stabilise”では、都市に生きる者がどう「正常」を保ち続けているかに疑問を投げかける。“Midnight Sun”では、壊れかけた自己が見た最後の光のような希望が描かれる。
痛みを“感じない”というテーマは、トラウマや鈍化した感受性の暗喩でもあり、Yanyaはそれをドラマティックにではなく、繊細なバランスで表現することで、誰にも訪れる感情の「止まり方」に寄り添っているのだ。
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