
1. 歌詞の概要
「Me & My Dog」は、Phoebe Bridgers、Lucy Dacus、Julien Bakerの3人によるインディ・ロック・ユニットboygeniusが2018年に発表したデビューEP『boygenius』に収録された楽曲であり、取り返しのつかない喪失、自己消失、そして逃避願望を静かに、しかし鋭く描き出した名曲である。
この楽曲の語り手は、恋人との関係や自分自身の感情が崩れていくなかで、「すべてから消え去ってしまいたい」という衝動を抱いている。しかしその願いは、死ではない。むしろ「宇宙に行ってしまいたい」「犬とふたりきりになりたい」といった非現実的な逃避=現実からの離脱を求めている。
「Me & My Dog」は、そのタイトルの通り、一匹の犬と自分だけの小さな宇宙を夢見ることで、どうしようもない現実から距離を取ろうとする心の動きを描いており、それはメンタルヘルスの危機、自己の空洞化、関係性における依存と崩壊を寓話のように表現した一編である。
2. 歌詞のバックグラウンド
この曲はPhoebe Bridgersがリードボーカルを務め、彼女自身が体験したある恋愛関係の終焉と、その後に訪れた無力感と離人感をもとに書かれたとされている。
Bridgersの曲にはしばしば「現実からの脱出」「身体の外に出る感覚」「夢のなかでしか自由でいられない自分」が現れるが、「Me & My Dog」ではそのテーマがboygeniusの3人によって**より普遍的な“人間の限界と切望”**として昇華されている。
特筆すべきは、曲の後半で展開するゆるやかなビルドアップとともに、ボーカルが三人のユニゾンからハーモニーへ、そして崩壊へと移行する構造であり、それがまさに「感情の臨界点」を音そのものに落とし込んでいる。
この楽曲はライブでも非常に人気が高く、彼女たちの間に流れる**感情の“共有”と“補完”**の美学を象徴する楽曲でもある。
3. 歌詞の抜粋と和訳
I had a dream that I was fine
I wasn’t crazy, I was divine
夢を見た 私は“普通”で
“おかしく”なんかなくて、むしろ神聖だった
I wanna be emaciated
I wanna hear one song without thinking of you
やせ細ってしまいたい
あの曲を、あなたを思い出さずに聴いてみたい
I’m not even singing for you
I’m singing for me
これはあなたのために歌ってるんじゃない
私自身のために歌ってるの
I wanna be alone
Together is too much
ひとりでいたい
“いっしょ”でいるのは、重すぎる
I wish I was on a spaceship
Just me and my dog and an impossible view
宇宙船に乗って
犬とふたりで、ありえない景色を見ていたい
歌詞引用元:Genius – boygenius “Me & My Dog”
4. 歌詞の考察
「Me & My Dog」は、現実のなかで傷つくことに疲れ切った人間の、最後の逃避と自己回復の想像を描いた非常にパーソナルでありながら、広く共感を呼ぶ作品である。
「I wanna be alone, together is too much」という一節は、まさに**“つながることが重荷になる瞬間”**を的確に言い表しており、恋愛や友情、家族関係など、あらゆる人間関係に疲弊した人にとって深く刺さる言葉である。
この曲では「犬」が、唯一無条件で寄り添ってくれる存在として描かれている。人間関係の複雑さや期待、圧力から解放され、ただ“存在を認め合える”関係を象徴しているのだ。
そして「宇宙船」は、現実から最も遠い場所、誰の声も届かない“完全なる距離”の象徴であり、そこに“犬とふたり”というイメージを重ねることで、どこにもなじめなかった人が最後に夢見る理想の空間が浮かび上がる。
また、「歌っているのはあなたのためじゃない。自分のためだ」というフレーズは、依存からの離脱と自己主体性の回復を示す非常に重要な転換点であり、これはboygeniusの活動理念そのもの——痛みを共有しながらも、自分自身のために声を上げること——を象徴している。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Chinese Satellite by Phoebe Bridgers
信仰と現実逃避、孤独と憧れが交差する夢想的なバラード。 - Night Shift by Lucy Dacus
恋愛の終わりとその後の感情の再生を、時間の経過とともに描いた名作。 - Appointments by Julien Baker
“自分自身を好きになれない”という感情と、それでも生きようとする強さを描く繊細な曲。 -
Funeral by Phoebe Bridgers
死や喪失の感覚を日常の中に溶かし込んだ、静かな告白のような楽曲。 -
Georgia by Phoebe Bridgers
依存的な愛の中で崩れていく自分を、美しいメロディに乗せて描く悲しきラブソング。
6. “どこにも行き場のない自分”を抱きしめるうた
「Me & My Dog」は、現実から遠く離れた場所を夢見ることで、現実をなんとか生き延びようとする人間のうたである。それは、ただの逃避ではなく、自分の壊れそうな心を守るための「最後の避難所」としての想像力なのだ。
「誰かと一緒にいることがつらい。でもひとりでいるのもつらい」——この相反する感情に対して、boygeniusは逃げることなく、三人の声を重ねて向き合う。その声は決して重なりきらない。だからこそ、それぞれの孤独がそのまま音として浮かび上がる。
そしてその音は、「私もそうだったよ」と静かにリスナーの肩に触れてくる。
「Me & My Dog」は、誰かを愛したことで自分が見えなくなった人、あるいはどこにもなじめなかった感覚をずっと抱えてきた人にとって、特別な意味を持つ楽曲である。
それは自分の痛みと距離を取りながらも、決してその存在を否定しない。そして犬とふたり、宇宙船で見ている“ありえない景色”のなかに、ようやく誰にも邪魔されない自分だけの静けさがある——その景色を、boygeniusはきっと、私たちに見せたかったのだ。
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