発売日: 2008年7月7日
ジャンル: トリップホップ、オルタナティヴ・ヒップホップ、エレクトロニカ、ポストパンク
概要
『Knowle West Boy』は、Trickyが2008年にリリースした7作目のスタジオ・アルバムであり、自身の原点――イギリス・ブリストルの“Knowle West”地区――への回帰と再定義を掲げた作品である。
タイトルはTrickyの生まれ育った地域名から取られており、アルバム全体が過去と現在、個人的記憶と社会的視点、音楽的ルーツと現在のスタイルとの“橋渡し”をテーマとしている。
『Vulnerable』までの内省的で繊細な流れから一転、ここではより外向きで攻撃的なビート、ダンサブルなグルーヴ、ラップと歌の強調された対話が展開される。
プロダクションにはイタリア出身のエンジニア兼プロデューサー、Bernard Butler（元Suede）らも参加しており、サウンドにはロック、ダブ、パンク、ポップスの要素が複雑にブレンドされている。
また、長年のファンにとっても、Trickyという存在が再びシーンに帰ってきたことを強く印象づけた作品である。
全曲レビュー
1. Puppy Toy
女性ヴォーカルとの掛け合いによるキッチュなラブソング。
“犬のおもちゃ”に自分をなぞらえるアイロニーが、Trickyらしいユーモアと苦味を滲ませる。
2. Bacative
ダンスホールの影響が色濃く表れたトラック。
ジャマイカのポリティカル・ダブの空気を感じさせる中に、皮肉と快楽が入り混じる。
3. Joseph
Tricky自身の若き日を描いた自伝的な一曲。
「ジョセフ」という名は実父の名前であり、家庭環境や少年期のトラウマが詩的に描かれる。
4. Veronika
バルカン半島風の旋律とビートが印象的な実験的トラック。
異国的な音階とヨーロピアンなメロディラインの融合が、異彩を放つ。
5. C’mon Baby
ロック色の強いサウンドで、ギターが全面に出た力強いナンバー。
Trickyが“叫ぶ”ようにラップする様子が、従来のウィスパー系ヴォーカルとは一線を画す。
6. Council Estate
本作の核心にしてTricky初の“フル・シャウト・ヴォーカル”が炸裂する攻撃的なトラック。
労働者階級の住宅地である“Council Estate”での生活がテーマで、最もラウドでパンクな一曲。
Trickyの怒りと誇り、そしてルーツへの回帰が集約されている。
7. Past Mistake
女性ヴォーカルが主導するメランコリックなラブソング。
Trickyは裏方に回りつつ、ビートで静かに物語を支える。
8. Coalition
緊張感のあるリズムに政治的メッセージが込められた、社会派の短編詩。
「連立」というタイトルが、分断された現代社会を象徴している。
9. Cross to Bear
ゴスペル的な響きとインダストリアルなノイズが交錯するスピリチュアル・トラック。
「十字架を背負う」というメタファーが、罪と許し、過去との和解を意味する。
10. Slow
Kylie Minogueの楽曲の大胆なカバー。
原曲のセクシャルなムードをそのままに、ダークでスモーキーな音像に再構築している。
11. Baligaga
東欧調の旋律とサイケデリックなビートが混ざり合う、実験的なナンバー。
“どこでもない場所”を彷徨うような浮遊感が魅力。
12. School Gates
アルバムの締めくくりに相応しい、静かな語りとメロディで構成されたトラック。
学校の門をモチーフに、失われた青春と教育システムへの批判、家族との断絶が描かれる。
総評
『Knowle West Boy』は、Trickyが原点である「ブリストルの少年」に立ち返り、自分自身の存在と音楽性を再定義しようとした“セルフポートレート”的作品である。
ここでは“都市の霧”に隠れた囁きの詩人ではなく、シャウトし、暴れ、踊り、嘆く男としてのTrickyが描かれている。
サウンド面も変化しており、よりビートは前面に、ギターはエッジを増し、ヴォーカルは大胆に。
同時に、階級・暴力・家族・教育・アイデンティティといったテーマが、過去作以上にパーソナルかつ明確に提示されており、
それは単なる自己表現というより、“トリッキーという名の少年が都市の中でどう生き抜いたか”というサバイバルの記録のようでもある。
この作品は、“トリップホップの亡霊”として生きてきたTrickyが、再び“肉体を持った声”として蘇った瞬間でもある。
おすすめアルバム
- Roots Manuva / Run Come Save Me
UKにおけるラップとダブの融合という点で近似する音世界。 - Massive Attack / Heligoland
政治性と音響的実験性の交差する、2010年代の重層的作品。 - M.I.A. / Kala
グローバルとローカル、政治とダンスを融合させた強烈な表現。 - The Streets / A Grand Don’t Come for Free
英国労働者階級のリアルを独自の口語詩で描いた現代の叙事詩。 -
PJ Harvey / Let England Shake
個と国家の境界を問う、内面からの社会批評作品。
歌詞の深読みと文化的背景
『Knowle West Boy』のリリックには、Tricky自身の出自とブリストルの文化的・階級的背景が色濃く反映されている。
「Council Estate」では、社会福祉住宅で育ったTrickyの誇りと苦しみがストレートに語られ、
「School Gates」では、教育機関の冷たさや居場所のなさが、少年の視点から訴えられる。
また、ロンドン中心ではなく地方都市（ブリストル）を出自とするTrickyの視点は、
常に“中心にいない者”としての言葉であり、だからこそグローバルな文脈でも共感を生んできた。
『Knowle West Boy』は、単なる“地元回帰”ではなく、“どこにも属せなかった者の場所を、自らの声で作り直す”ためのプロジェクトなのである。
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