発売日: 2003年6月23日
ジャンル: トリップホップ、エレクトロニカ、ポストパンク、ポップ
概要
『Vulnerable』は、Trickyが2003年に発表した6作目のスタジオ・アルバムであり、「傷つきやすさ(Vulnerability)」という言葉を真正面から掲げ、より内省的かつ親密な音像を提示した作品である。
前作『Blowback』では多くのスターを招いてポップかつ多彩なアプローチを試みたTrickyだったが、今作ではスウェーデン人ヴォーカリストCostanza Francavillaを全面的に起用し、男女の二重構造を通して、孤独や欲望、再生の物語を描く方向へと舵を切っている。
アルバムタイトルの「Vulnerable(脆さ、無防備さ)」は、Trickyが築いてきた冷たくダークな仮面を一枚剥ぎ取ったような意味合いを持ち、作品全体を通じて“守りのない語り口”が貫かれている。
また、サウンド面ではローファイなトリップホップの美学を維持しながら、ポストパンクやアコースティック、エレクトロニカの要素を混在させ、過去作とは異なる開かれた質感を生み出している。
全曲レビュー
1. Stay
柔らかなアコースティックギターとCostanzaの繊細な声が溶け合う静謐なオープニング。
「ここにいて」というシンプルなフレーズに、孤独と祈りが込められている。
2. Antimatter
トリッキー節炸裂のダーク・トラック。
“反物質”というタイトルの通り、実体のない怒りや感情がビートの合間にうごめく。
3. Ice Pick
不穏なエレクトロニック・ビートとささやくようなラップが交錯する、内省と挑発の曲。
音数を抑えたアレンジが、逆に精神の荒れ模様を際立たせている。
4. Car Crash
車の衝突をメタファーにした衝撃的なトラック。
恋愛、アイデンティティ、破壊願望が交錯する不穏なバラード。
5. How High
抑えたテンポの中に、不安定なリズムと浮遊感が漂う。
「どこまで高く行けるのか」という問いは、成功や逃避への欲望とも読める。
6. Moog Bruiser
その名の通り、Moogシンセの重量感ある音が印象的。
アブストラクトなインスト的要素も強く、Trickyのプロデューサー的感覚が際立つ一曲。
7. Wait for God
“神を待つ”というタイトルに反して、音像はミニマルで俗世的。
精神的な救済への期待と諦念の交錯が、Costanzaのヴォーカルで切実に響く。
8. Where I’m From
出自と過去への再訪。
ダブ的なビートの上でTrickyが呟くように語る、自伝的な一曲。
9. The Lovecats(The Cure カバー)
意外な選曲だが、トリッキーの手にかかると、気だるくねじれたアート・ポップへと変貌。
Costanzaのヴォーカルが妖しくも可憐。
10. Search, Search, Survive
アルバムの核ともいえる一曲。
「探せ、生き延びろ」というフレーズが、孤独と自己保存のモチーフを印象づける。
トリップホップ的な影と、パンク的な切実さが同居している。
11. Shoulda Woulda Coulda
後悔をタイトルに冠した内省トラック。
語られることの少ない感情の“あとさき”を、淡々としたビートの上に綴る。
12. Stay (Remix)
冒頭曲のリミックス。
ビートが増し、より洗練された音像になっているが、オリジナルの儚さも残している。
総評
『Vulnerable』は、Trickyという存在が一度“素顔をさらす”ことを選んだ、ある種のセラピー的作品である。
それまでの彼の作品が“仮面をつけた囁き”であったとすれば、今作は“目を伏せながらも語りかける”ような誠実さと、傷を認めた上での音楽的再出発を感じさせる。
Costanza Francavillaの存在も大きく、彼女の柔らかな歌声が、Trickyの不安定でざらついた世界に呼吸を与えている。
また、サウンド面では実験性を保ちつつも、リスナーとの距離を一歩縮めたような感触があり、Trickyのディスコグラフィーの中でも“最も親密なアルバム”といえるだろう。
破壊衝動でも攻撃性でもなく、“脆さ”というテーマに真っ直ぐ向き合った本作は、アンダーグラウンドの闇に根ざしたアーティストが、光と再生を探る旅路の一断面なのである。
おすすめアルバム
- Massive Attack / Protection
静かで親密なトリップホップの名作。 - FKA twigs / LP1
官能と不安定さ、そして脆さを芸術に昇華した傑作。 - Martina Topley-Bird / Anything
Trickyの元パートナーによる、繊細で内省的なソロ作。 - Portishead / Dummy
音の隙間と感情の沈黙に焦点を当てた、90年代トリップホップの象徴。 -
Cigarettes After Sex / Cry
現代的な“静かなる情熱”を描いたドリーム・ポップの逸品。
歌詞の深読みと文化的背景
『Vulnerable』のリリックは、詩的というよりも“感情の断面”に近く、具体的な物語ではなく感覚の再現に重きが置かれている。
「Car Crash」や「Shoulda Woulda Coulda」では、壊れていく人間関係や、言葉にできなかった過去の痛みが、
日常の言葉で静かに語られており、自己開示のアルバムとしての強さがにじむ。
また、イラク戦争後の2003年という背景も無視できず、“世界の不安定さ”と“個の不安定さ”が同期した時代感覚も読み取ることができる。
Trickyは世界に対して何かを訴えるよりも、“自分という世界”の内部を丁寧に描こうとした。
『Vulnerable』は、傷つくことを恐れず、その傷に耳を澄ませることが“音楽になる”ことを証明した一枚である。
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