発売日: 2020年6月23日
ジャンル: オルタナティブロック、スペースロック、ポストメタル、シューゲイザー
概要
『Inlet』は、HUMが長らくの沈黙を破って2020年にリリースした5作目のスタジオ・アルバムであり、『Downward Is Heavenward』（1998）以来22年ぶりとなる復活作にして、彼らの“音響的美学”が極限まで純化された、静かなる傑作である。
突如Bandcampにて公開されたこのアルバムは、事前の予告もプロモーションもなく現れたにもかかわらず、コアなファンのみならずポストロック・メタル・シューゲイザーの各界から熱狂的な支持を受けた。
“水の入口”を意味する『Inlet』というタイトル通り、本作はHUMの音楽が再び静かに“流れ込んでくる”感覚そのものを体現しており、轟音の中に微細な揺らぎと感情の陰影を孕んだ、成熟のロックである。
全8曲、全体で55分を超える構成は、時間と空間の感覚を揺さぶり、リスナーをゆっくりと“内なる宇宙”へと引き込む。
全曲レビュー
1. Waves
荘厳なギターの重なりで幕を開ける大作。
“波”というタイトルが象徴するように、音の層が寄せては返すように押し寄せ、轟音のなかに浮遊感が広がる。
アルバム全体の“入水”を誘うような導入。
2. Drone
その名の通り、持続する轟音と歪みの中でリズムが細かく揺れ動く、ポストメタル的な構成美を見せる楽曲。
静寂と爆発のコントラストが強烈。
3. Step into You
比較的短く、メロディックでキャッチーな一曲。
しかしその歌詞と音には、“誰かの深層へ足を踏み入れること”の不安と渇望がにじむ。
4. Desert Rambler
10分超えの本作最長トラック。
乾いたギターと深く沈むようなベースラインが、“砂漠を彷徨う”という孤独な旅の感覚を音響で描き出す。
叙事詩的ともいえる展開力を持つ名曲。
5. The Summoning
タイトル通り、音の儀式のような反復と厚みで構成された重厚なミドルテンポのナンバー。
ゆっくりと呼び出されるようなリズムと不穏なメロディが、深淵を覗かせる。
6. In the Den
密室的な音響処理が印象的なトラック。
“巣穴”という題名の通り、閉ざされた空間での孤独や記憶を描く。
7. Cloud City
スペーシーなギターと穏やかなテンポが、“空中都市”という幻想的イメージを現実のように立ち上げる。
ファンタジーとポストハードコアの融合点。
8. Shapeshifter
アルバムを締めくくる“変容するもの”の歌。
轟音の波が徐々に薄れていき、音と感情、自己と他者の境界が溶けていくような余韻が深い。
浄化的なエンディング。
総評
『Inlet』は、“沈黙が語るもの”を音に変換したような、22年越しの静かなる声明文であり、HUMというバンドの存在理由をあらためて証明する作品である。
決して時代に迎合することなく、彼らの音響美学はかつてよりもさらに深く、重く、透明に響いている。
音の密度、リリックの余白、サウンドの引き伸ばし方、どれをとっても“HUMらしさ”が極まっており、それでいてまったく古びていない。
むしろ現代のリスナーにとっては、情報過多な時代に“減速”と“没入”を提供する、癒しと覚醒のアルバムとして機能するだろう。
おすすめアルバム
- Caspian / On Circles
情緒と重量感を融合させたポストロックの到達点。 - Deafheaven / Infinite Granite
メロディと轟音の間で揺れる現代的シューゲイザー。 - Slowdive / Slowdive
空間と感情を穏やかに繋ぐサウンドの美学。 - Pelican / Forever Becoming
インストゥルメンタル主体ながら、同じく“重量と浮遊”を描くポストメタル。 - Failure / Wild Type Droid
テクノロジーと人間性の間で響く、轟音の哲学。
歌詞の深読みと文化的背景
HUMのリリックは、もともと科学用語、自然現象、孤独、逃避、自己喪失といったテーマを、比喩と断片で繋ぐ散文詩的表現に特徴があったが、本作ではさらにその傾向が抽象化され、“言葉が無言の余韻を残す”ような詩性が極まっている。
“波”、“巣”、“砂漠”、“雲”、“変身者”——
いずれも自然や幻想に根差しながら、人間存在の輪郭をそっとなぞるモチーフであり、聴き手はそれらに自身の記憶や感情を重ねていく。
『Inlet』とは、静かに満ちていく音の入口であり、リスナーそれぞれの“内なる宇宙”への導線なのだ。
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