
発売日:2020年6月23日
ジャンル:オルタナティヴ・ロック、スペース・ロック、シューゲイズ、ポスト・メタル、ヘヴィ・ロック
概要
Humの『Inlet』は、1998年の『Downward Is Heavenward』以来、およそ22年ぶりに発表されたスタジオ・アルバムであり、再結成作品という言葉だけでは到底片づけられない、異様な完成度と重力を備えた作品である。Humというバンドは、1990年代オルタナティヴ・ロックの文脈でしばしば“知る人ぞ知る重要バンド”として語られてきた。一般的な知名度では「Stars」を収録した『You’d Prefer an Astronaut』が代表作と見なされやすいが、実際のHumは、重いギター・リフと宇宙的な浮遊感、シューゲイズ的な音の拡散、ポスト・ハードコア由来の緊張感、そしてマット・タルボットの不器用で親密なヴォーカルが結びついた、極めて独自性の高いバンドだった。彼らの影響はむしろ2000年代以降にじわじわと広がり、Deftones、Cave In、Nothing、Narrow Head、Spotlights、Cloakroomなど、“重さと夢見心地を同時に鳴らす”後続バンドの文脈を通して、あらためて評価が高まっていった。
そうした流れの中で登場した『Inlet』は、単なるノスタルジアの回収ではなく、Humの音楽が時間の経過によっていっそう巨大化し、深度を増したことを証明する作品となった。普通、20年以上の空白を経たバンドの新作には、過去の焼き直しか、現代的アップデートのぎこちなさか、どちらかの危うさがつきまとう。だが『Inlet』はそのどちらにも陥っていない。むしろ驚くべきことに、このアルバムはHumの過去作と確かにつながりながら、同時に彼らのキャリアで最も重く、最も深く、最も一貫した作品として響く。これは“昔のHumが戻ってきた”というより、“Humというバンドが時間そのものを抱え込んで帰ってきた”作品である。
タイトルの『Inlet』もきわめて示唆的だ。地形的には入り江、水の流入口、あるいは何かが流れ込んでくる通路を意味する言葉であり、このアルバムの音楽にもまさにそうした感覚がある。ここでの音は、派手に噴出するというより、ゆっくりと、しかし圧倒的な質量を持って押し寄せてくる。Humの初期作には、ヘヴィなギターが空間へ拡散していく独特の軽さがあったが、『Inlet』ではその空間がさらに深く、暗く、水圧のようなものを伴っている。音は広いが、明るくはない。むしろ深海や夜の水面、星空というより巨大な闇の内部にいるような感覚が強い。この“重いのに開いている”“広いのに息苦しい”という逆説的な音響が、『Inlet』最大の魅力のひとつである。
音楽的に見ると、本作はHumのこれまでの要素を極端に引き伸ばし、凝縮した作品といえる。『Electra 2000』にあった荒削りな重さ、『You’d Prefer an Astronaut』のメロディと浮遊感、『Downward Is Heavenward』の複雑で揺らいだ構築性。それらがすべてここに流れ込んでいるが、決して寄せ集めではない。サウンドの重心はさらに低く、テンポも全体にゆったりしており、リフはこれまで以上に地層のような厚みを持っている。同時に、ギターの壁の奥では繊細なコードの揺れや残響が絶えずうごめいており、単なるスラッジ/ポスト・メタル化には終わっていない。Humの本質はあくまで、“重さを圧迫ではなく距離の表現に変えること”にある。その点で『Inlet』は、ポスト・メタル的なスケール感を持ちながらも、依然としてHumでしかない。
マット・タルボットのヴォーカルも、このアルバムの重要な核である。彼の声は若い頃のような頼りなさを完全に失ったわけではないが、ここではむしろ年齢を重ねたことで、諦念と静かな確信が同居する響きになっている。叫ばず、誇示せず、しかし轟音の中で確かな存在感を持つその歌は、このアルバムにおいて非常に人間的な軸となっている。Humの歌詞は昔から、宇宙、距離、身体、光、異物感、疎外といったモチーフを扱いながら、それを明快な物語にはせず、感覚の断片として配置することが多かった。本作でもその傾向は変わらないが、若い頃のロマンティックな遠心力よりも、もっと大きな時間や不可逆性が背後に感じられる。つまり『Inlet』の歌は、宇宙を夢想するというより、巨大な無関心の中でなお感覚を保とうとする歌として響く。
2020年という時代背景も、このアルバムには無視できない文脈を与えている。発表当時は世界的にパンデミック下にあり、閉塞、不安、時間感覚の歪み、社会の静止といった空気が広がっていた。『Inlet』がそれを直接主題化しているわけではないにせよ、その孤絶感、巨大な圧力、ゆっくりと迫る不安、そしてそれに対抗するための持続的な音のあり方は、あの時代の感覚と強く共鳴した。結果としてこのアルバムは、単にHumの復帰作というだけでなく、2020年前後のロックにおける“重さ”の意味を更新した作品としても受け取られた。轟音はここで、攻撃のためではなく、世界の圧力に対して自己の輪郭を保つための壁のように機能している。
キャリア全体で見るなら、『Inlet』はHumの最終到達点の一つであり、しかも異例なことに“後期作でありながら最高傑作候補”と呼べるほどの説得力を持つ。若さの閃きではなく、時間を経てもなお残った美学を、ここまで深く純化できるバンドはそう多くない。Humはこの作品で、自分たちの影響力を証明したのではない。むしろ、影響を与えた後続のすべてを静かに追い越してみせた。『Inlet』は、再結成作品という枠ではなく、21世紀のヘヴィ・ロック/シューゲイズ/スペース・ロックの最重要作の一つとして語られるべきアルバムである。
全曲レビュー
1. Waves
アルバムの幕開けを飾る「Waves」は、『Inlet』という作品全体の美学を一曲で提示する見事なオープナーである。タイトルの“波”が示す通り、この曲の音は一撃で襲いかかるのではなく、巨大なうねりとして何度も押し寄せてくる。低く重いギターは、Humの過去作以上に密度を増しているが、その重さは閉塞ではなく広がりと結びついている。つまりこの曲では、音の壁がリスナーを押し潰すためではなく、どこまでも続く巨大な空間を体感させるために使われている。マット・タルボットのヴォーカルはその上に慎ましく置かれ、支配的になることなく、音の内部から滲み出るように響く。Humが2020年に戻ってきたことを告げるにふさわしい、圧倒的な導入である。
2. In the Den
「巣穴で」「ねぐらの中で」といったニュアンスを持つこの曲は、アルバム全体の内向性をさらに深める。リフは分厚く、ドラムも重心が低いが、ただ威圧的なだけではない。むしろ何かの内部に潜り込み、外界のノイズを遮断するような感覚がある。Humの音楽は昔から距離や宇宙性で語られがちだったが、この曲ではむしろ“こもる”こと、“閉じた空間の中で感覚が過剰になる”ことが主題化されているように聴こえる。轟音の中にある妙な親密さ、重さとぬくもりの逆説的な共存が印象的で、『Inlet』が単なる巨大音響アルバムではないことを示している。
3. Desert Rambler
本作の中でもひときわ存在感のある長尺曲であり、アルバムのハイライトの一つ。タイトルの“砂漠をさまよう者”というイメージは、Humの音楽に昔からあった孤独や遠景感覚を思い出させるが、この曲ではそれがさらに拡大されている。砂漠という空虚で広大な空間と、Hum特有の重量級サウンドの組み合わせはきわめて効果的で、音は重いのに視界はどこまでも開けている。曲の展開は急激な起伏より、持続と反復によって徐々に熱量を高めるタイプであり、その過程でリスナーは時間感覚を奪われていく。ここでのHumは、もはや90年代オルタナの延長というより、ポスト・メタルやドゥーム以降の時間操作まで自然に取り込んでいる。しかし、その中核には依然としてメロディの気配と切なさが残っている点が重要だ。
4. Step Into You
アルバムの中では比較的“歌”の輪郭が見えやすい曲であり、Humのメロディ感覚がしっかり残っていることを確認させる一曲。もっとも、その歌心はラジオ・ロック的な即効性としてではなく、轟音の霧の中に浮かぶかすかな輪郭として現れる。タイトルの“君の中へ踏み込む”という表現は、Humらしい距離の詩学をよく表している。近づこうとする意志がある一方で、その接近は決して単純な親密さにはならない。サウンドは非常に分厚く、少しでも油断すると曲全体が塊のように聴こえるが、その中で微細に揺れるコードやボーカルの線が、感情の複雑さを支えている。Humが重さのバンドであると同時に、距離のバンドでもあることを再確認させる楽曲だ。
5. The Summoning
タイトルからして儀式的・神秘的な響きを持つこの曲は、『Inlet』の中でも特に不穏さと荘厳さが強い。リフは粘度が高く、ドラムも地鳴りのように鳴り、全体として何かを呼び寄せるような緊張感が持続する。Humの重さはしばしば“宇宙的”と形容されるが、この曲ではむしろ、地中や深海から何かが浮上してくるような感覚がある。つまり上方向の広がりではなく、下方向の深度が前面に出ている。その深さの中で、ヴォーカルは叫ぶことなく存在を保ち続ける。この抑制が非常に効いていて、曲は大仰なドラマではなく、じわじわと逃れられない圧力として響く。アルバム中盤の重力を決定づける重要曲である。
6. Cloud City
タイトルは『スター・ウォーズ』的連想も呼ぶが、Humにおいてこうしたイメージは単なるSF趣味ではなく、距離、浮遊、人工的な孤独のメタファーとして働くことが多い。この曲でも、音は重く地に足がついているのに、タイトルが示す風景は浮遊都市であり、そのズレが非常にHumらしい。サウンドは『Inlet』の中でも比較的空間処理が印象的で、ギターの厚みの向こうに薄く光るような成分がある。いわばアルバムの中の“光源”のひとつであり、完全な明るさではないが、闇の中にぼんやりと都市の輪郭が見えるような曲だ。重さが単なる鈍色一色ではなく、そこにかすかな煌めきを混ぜるHumの巧さがよく出ている。
7. Folding
アルバム終盤に置かれたこの曲は、タイトルの“折りたたむ”“折り重なる”というニュアンスどおり、時間や感情や空間が層になって重なるような印象を与える。『Inlet』全体が持つ地層的なサウンドを最もよく言い表す一曲かもしれない。リフはこれまで同様重いが、ここでは重量そのものよりも、持続によって生じる圧が強い。聴いているうちに音が外側へ広がるのではなく、むしろ内側へ内側へ折り込まれていく感覚がある。Humの音楽は、轟音を使いながら非常に内省的だが、「Folding」はその性質を端的に示している。アルバムが終盤へ向かう中で、感情が整理されるのではなく、より深い層へ沈んでいくのが印象的だ。
8. Shapeshifter
ラストを飾る「Shapeshifter」は、『Inlet』の締めくくりとしてきわめてふさわしい。タイトルの“変身する者”は、Humというバンド自身のあり方にも重なる。彼らは昔の自分たちをなぞるのではなく、同じ本質を保ったまま別の質量と時間感覚をまとって戻ってきたからだ。楽曲自体もまた、固定された一つの形というより、同じモチーフが少しずつ相貌を変えながら進んでいく。ギターは最後まで圧倒的に重いが、その重さは絶望の壁というより、変形し続ける巨大な雲のようにも響く。アルバムを聴き終えたあとに残るのは、明確な解決や解放ではない。むしろ、音がまだどこかで変化を続けているような感覚であり、その余韻が『Inlet』という作品を単なる“復活作”から、深く残響する体験へと引き上げている。
総評
『Inlet』は、Humの再結成作であると同時に、彼らの美学がもっとも巨大で、もっとも純化された形で結晶した作品である。若い頃のHumには、轟音とロマンティックな距離感が同居する独特の魅力があったが、本作ではそのロマンティシズムがより重く、暗く、深く沈んでいる。ここにはもはや90年代的な若さの閃きはない。その代わりにあるのは、時間を生き延びた音だけが持つ説得力だ。ギターはより厚く、曲はより長く、感情はより言葉になりにくくなっている。しかし、そのすべてがHumというバンドの本質から自然に導かれているため、まったく無理がない。
音楽的には、シューゲイズ、スペース・ロック、ポスト・メタル、オルタナティヴ・ロックの境界をまたぐ作品だが、ジャンル名で説明するには足りない豊かさがある。『Inlet』の重さは単なるヘヴィネスではなく、距離、記憶、時間、孤独を物理的に感じさせるためのものだ。その点で、このアルバムは“重いギター・アルバム”でありながら、同時にきわめて感情的な作品でもある。感情を直接言語化せず、巨大な音響の中に封じ込める。その手法はHumの昔からのやり方だが、本作ではそれが極限まで深化している。
また、この作品の価値は、後続への影響が見えすぎることにもある。Humが長い不在の間に、多くのバンドが彼らの美学を継承してきた。しかし『Inlet』は、それらのフォロワー的潮流を意識して若返るのではなく、逆に“本家がいま鳴らすとこうなる”という圧倒的な深みを見せつけた。その結果、このアルバムは懐古ではなく、現役の最前線として受け取られた。これは非常に稀なことだ。
Humのディスコグラフィの中でどれを最高傑作とするかは意見が分かれるだろう。『You’d Prefer an Astronaut』のフックと象徴性を推す声も、『Downward Is Heavenward』の複雑さを愛する声もあるはずだ。しかし『Inlet』は、そのどれとも違う場所で、同等かそれ以上の重みを持つ。これは帰還ではなく、沈殿の完成形である。轟音の中に時間が沈み込み、孤独が広がり、それでもなお音が生きている。そうしたHumの核心を、これほど深く、巨大に鳴らした作品は他にない。21世紀のヘヴィ・ロックの中でも、特別な一枚である。
おすすめアルバム
- Hum『Downward Is Heavenward』
『Inlet』の直接的な前作にあたり、より複雑で揺らぎのあるHumの成熟が聴ける名作。『Inlet』の深度の源流を知るうえで重要。
– Hum『You’d Prefer an Astronaut』
代表曲「Stars」を収録した出世作。よりフックが明快で、Humのロマンティックな宇宙感覚が強く表れている。
– Failure『Fantastic Planet』
宇宙的イメージ、重量感、メロディと閉塞の共存という面で『Inlet』と深く響き合う、90年代オルタナティヴの大傑作。
– Nothing『The Great Dismal』
シューゲイズの霞とヘヴィ・ロックの質量を同時に鳴らす現代的名盤。『Inlet』の重さと拡散感を好むリスナーに強く勧められる。
– Spotlights『Love & Decay』
ポスト・メタル的な重さとドリーミーな広がりを高度に両立した作品。Humが開いた領域の現代的継承として非常に近い感触を持つ。

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