発売日: 1996年8月19日
ジャンル: トリップホップ、オルタナティヴ・エレクトロニカ、ダウンテンポ、インダストリアル・ポップ
概要
『Becoming X』は、イギリスのエレクトロニック・バンド Sneaker Pimps が1996年に発表したデビュー・アルバムであり、
90年代後半のトリップホップ／ビッグビート時代に登場した革新的かつ危うげな美学を体現した名作である。
最大の特徴は、女性ヴォーカリストのケリス・アリソン（Kelli Dayton, のちのKelli Ali）を前面に立てた妖艶で幻想的なヴォーカルと、
インダストリアル色の強いビート、アナログ感のあるシンセやギターが生み出す不穏な空気感の融合にある。
トリップホップを背景に持ちながら、Portisheadのようなジャズ寄りの叙情性ではなく、
よりポップかつアグレッシブ、そして性的緊張感を孕んだ音像を作り上げた点において、
このアルバムはMassive AttackやTrickyとは異なる独自路線を築いた。
「6 Underground」「Spin Spin Sugar」などのシングルヒットを生み出し、
当時のクラブシーンとオルタナティヴリスナーの両方から熱烈に支持された本作は、
“音で装飾された欲望と疎外感の肖像”とも言うべき、90年代UKアンダーグラウンドの金字塔である。
全曲レビュー
1. Low Place Like Home
重たいベースとパーカッシブなビートが印象的なオープニング。
“地元以上に落ちる場所はない”という自虐的ユーモアが、疎外感と憂鬱を告白する一曲。
2. Tesko Suicide
産業社会における消費と自己喪失を皮肉るタイトルが刺さる。
ノイジーなギターとビートが、インダストリアル×トリップホップの化学反応を起こしている。
3. 6 Underground
アルバム最大のヒット曲。
ジャジーなサンプリング、ダウナーなビート、そしてケリスの囁くようなヴォーカルが、夢と現実の狭間を浮遊させる名曲。
歌詞は“地上からの逃避”をテーマに、都会的閉塞感への抵抗を描いている。
4. Becoming X
アルバムタイトル曲にして、アイデンティティの構築と変容をテーマとする象徴的ナンバー。
ケリスの声は、強さと儚さを同時に帯び、変化への焦燥と希望を映し出す。
5. Spin Spin Sugar
クラブ／レイヴカルチャーの影響が色濃く出たエレクトロナンバー。
ハウスやビッグビートの影響を感じさせるビートがクセになる。
“砂糖を回し続ける”という比喩が、快楽と中毒のループを暗示する。
6. Post-Modern Sleaze
“ポストモダンの退廃”というテーマを掲げたラディカルなトラック。
快楽主義とアイロニーが入り混じる歌詞は、90年代文化批評の音楽的具現とも言える。
7. Waterbaby
柔らかく美しいサウンドの中に、脆さと不安が漂うバラード。
“水中の赤子”という比喩が、保護されていながらも不安定な存在を象徴する。
8. Roll On
シンプルなギターリフがループする、スローグルーヴの小品。
内面への沈潜を促すような、内省的なトランス感覚に満ちている。
9. Wasted Early Sunday Morning
タイトル通り、酩酊した静けさを描いたような退廃美の極み。
音数を抑えたミニマルな構成と、終末感のある詩情が心をざらつかせる。
10. Walking Zero
よりロック色の強い攻撃的なサウンド。
“ゼロ地点を歩く”というタイトルが示す通り、無からの出発をテーマとするパワフルなトラック。
11. How Do
エキゾチックな旋律と民族音楽的リズムを取り入れた、アルバム最後の実験的楽曲。
不協和と静寂の間に立つこの曲は、終わりなき問いをリスナーに投げかけて幕を閉じる。
総評
『Becoming X』は、1990年代後半のトリップホップ以降の音楽における“毒とポップの境界線”を大胆に横断した作品であり、
その独特の音像と美学は、今なお多くのアーティストに影響を与え続けている。
ケリス・アリソンの妖艶で中性的な歌声は、女性性の柔らかさとクールネスを併せ持ち、
その声が音の海に溶けることで、楽曲が“心象風景”として成立していく構造が実に見事である。
また、プロデューサーであるクリス・コーナーとリアム・ハウの手腕により、
クラブ／レイヴカルチャー、サイバーパンク的世界観、ポストモダンのアイロニーが見事に融合されたプロダクションが全編に渡って展開されている。
以降のSneaker Pimpsはケリスを脱退させ、男性ヴォーカル主体の内省的ロックに転じていくが、
本作の持つ“アーバンで退廃的なエレガンス”は、他のどの作品にもない一回性を持っている。
おすすめアルバム
- Portishead / Dummy
トリップホップの原点的名作として、感情の暗部を描く点で共鳴。 - Garbage / Version 2.0
女性ヴォーカル＋エレクトロ＋ロックの融合という意味で通じる。 - Goldfrapp / Felt Mountain
耽美で幻想的な音像の中に潜むエロティシズムと静けさ。 - Massive Attack / Protection
内省的でメランコリックな都市の夜を描いた作品。 -
Hooverphonic / A New Stereophonic Sound Spectacular
同時代のトリップホップ〜ドリームポップ系としての美的親和性。
歌詞の深読みと文化的背景
『Becoming X』のリリックは、アイデンティティの不安定さ、性的自己認識、都市生活への違和感、
そして快楽と孤独が同居する“90年代的メンタリティ”を映し出す鏡である。
「6 Underground」では、地下鉄やクラブといった空間が、社会から逃れる場所であると同時に、孤独を深める場所でもあることが示され、
「Spin Spin Sugar」では、中毒的な快楽がもたらす快感と破滅の二面性が浮き彫りになる。
また、アルバム全体を通して、女性の視点から描かれた“ポストフェミニズム的な自己”の表現が感じられ、
それがケリスの声と歌詞によってさらに立体化されている。
『Becoming X』は、ポップスでありながら、欲望と喪失、逃避と再構築という文学的テーマに迫った、極めて特異な音楽体験なのである。
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