1. 歌詞の概要
「Vicky’s Box（ヴィッキーズ・ボックス）」は、Throwing Musesが1988年にリリースしたセカンド・アルバム『House Tornado』の終盤に収録された楽曲であり、Kristin Hershの描く“内なる物語”のなかでも最も詩的で神話的な一篇である。この曲の世界は、明確な物語構造を持たない一方で、断片的なイメージが連鎖し、聴く者をどこか異界へと誘うような幻覚的な美しさをたたえている。
タイトルにある「ボックス」は、おそらくはギリシャ神話に登場する“パンドラの箱”のように、開けてはならないもの、開けたことで苦しみや秘密が溢れ出す象徴的なオブジェクトである。そして“Vicky”とは誰なのか――彼女自身なのか、彼女の中に宿る別人格なのか、あるいは語り手が投影した“女神”あるいは“犠牲者”なのかは明示されない。その多義性こそがこの曲の核心を形作っている。
歌詞は断片的な語りで構成されており、暴力、秘密、性、子供時代の記憶、死といったテーマが浮上しては沈んでいく。まるで箱の中から次々に飛び出す影のように、感情が不安定に揺れる。だが、それらは混乱ではなく、Kristin Hershならではの“詩的秩序”の中に収められている。聴き手は、理解するのではなく、ただ「感じる」ことを求められるのだ。
2. 歌詞のバックグラウンド
「Vicky’s Box」が収録された『House Tornado』は、Throwing Musesが英国のレーベル4ADとともに制作した最初のフルアルバムであり、より完成度の高いスタジオワークと、Hershの文学的・幻視的な詩作が融合した重要作である。このアルバム全体に漂うのは、家庭や身体、精神という“閉じられた空間”の中で起こる歪みと痛みであり、「Vicky’s Box」はその象徴としての“箱”を具体化した楽曲でもある。
Kristin Hersh自身は、この時期、躁鬱の症状に苦しんでおり、自らの心の状態を楽曲の中に刻み込むことで、“言葉にならないもの”を言葉にしようとしていた。彼女にとって音楽とは、感情を表現するツールというよりも、“心のなかの現象を可視化する儀式”であり、「Vicky’s Box」はその儀式のひとつの到達点と言える。
3. 歌詞の抜粋と和訳
Vicky’s box is open, I’m in
ヴィッキーの箱は開いている 私は中にいるVicky’s box is open, I’m in it
ヴィッキーの箱は開かれて 私はその中で生きているHer knees are cut, her wrists are open
彼女の膝は裂けて 手首は開かれているVicky’s box is full of nothing
ヴィッキーの箱の中は 何もないものでいっぱい
※ 歌詞引用元：Genius – Throwing Muses “Vicky’s Box”
この歌詞は明確な物語を語らないが、想起されるイメージは圧倒的に暴力的で静謐である。“箱の中”とは精神的な閉じ込めを象徴し、それが“空っぽ”であることは、語り手の喪失感や感情の枯渇を示している。「何もないものでいっぱい」という逆説的な表現は、虚無そのものが存在感を持つという倒錯した状態を詩的に描いている。
4. 歌詞の考察
「Vicky’s Box」は、Kristin Hershの楽曲の中でも特に象徴性が高く、かつ聴き手に対して明確な“意味の提示”を拒む曲である。その分、語り手の声には圧倒的なリアリティがある。実際に起こったことかどうかではなく、“起こったかもしれないことの記憶”が、まるで夢の中のように断片化されて流れていく。
“箱”というモチーフには、女性の身体、秘密、記憶、トラウマ、あるいは家庭といった複数の意味が重ねられており、そのなかで「ヴィッキー」という名前は実在の人物ではなく、“語り手のもうひとつの顔”としても読み取ることができる。つまり、これは自己との対話であり、自分自身を箱の中に閉じ込め、開けることによって崩壊する内的均衡の物語なのだ。
「Her knees are cut, her wrists are open」という描写は衝撃的だが、それを激情ではなく囁き声のようなトーンで歌うHershのボーカルが、この曲の狂気をよりリアルに響かせている。“美しさと暴力の混在”は、Hershの歌詞世界に常に通底しているが、この曲ではそれが極限にまで達している。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Into Dust by Mazzy Star
感情が音とともに崩れていくような、繊細な喪失の歌。 - Teclo by PJ Harvey
愛と死を抱き合わせたような静かなエレジー。 - Mother by Tori Amos
母性と自己喪失のはざまで揺れる幻想的なピアノバラード。 - Your Ghost by Kristin Hersh
“存在しない誰か”との対話を描いた、静かな狂気と哀しみのデュエット。 - Kim’s Watermelon Gun by The Flaming Lips
現実と幻覚、暴力とユーモアが交錯する音の万華鏡。
6. “箱”のなかで生きるということ：ヴィッキーの沈黙
「Vicky’s Box」は、Throwing Musesが音楽という形式で語り得た最も暗く、最も詩的な瞬間のひとつである。この曲における“箱”は、心の奥深くに存在する開けてはならない場所であり、そこには言葉にできない記憶や痛み、欲望が詰まっている。そして、Kristin Hershはその箱をこじ開けることを恐れず、その中に飛び込む。
だが、彼女はそこに意味を求めない。理解を求めない。ただ、その“痛みの風景”を、ひとつの詩として提示する。それがHershのスタイルであり、Throwing Musesの音楽が“誰にも似ていない理由”でもある。
「Vicky’s Box」は、語りかけるのではなく、“見せつける”曲だ。
それは語り手の内面が燃え尽きる音であり、聴き手の無意識に刺さる鏡でもある。
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