発売日: 1975年7月31日
ジャンル: アートロック、プログレッシブ・ロック、グラムロック、バロック・ポップ
概要
『Mental Notes』は、ニュージーランド出身のアートロック・バンド、Split Enzが1975年に発表したデビュー・アルバムであり、狂気とユーモア、幻想と耽美が交錯する“演劇的ロック”の金字塔である。
のちにポップ路線で世界的成功を収めるバンドが、その前段階として提示したのは、精神の迷宮とシュールレアリスムをサウンドと詞世界で立体化した野心的作品だった。
Split Enzの初期サウンドを牽引していたのは、フィル・ジャッドとティム・フィンの2人のソングライター。
この時期のバンドはRoxy Music、Genesis、10cc、そしてKing Crimsonなどからの影響が色濃く、クラシック音楽的な構成美とグラム的な装飾性、さらには演劇的カオスが重層的に混ざり合っている。
加えて、ニュージーランド出身ならではの孤立した視点、風変わりなユーモア、地理的距離からくる文化的屈折が作品全体にユニークな色彩を与えている。
プロデュースはDavid RussellとSplit Enz自身によって手がけられ、鍵盤、弦楽器、木管、変拍子、語りといった“ロックの枠を越えた要素”が過剰なまでに詰め込まれている。
このアルバムは聴きやすさとは無縁だが、1970年代プログレッシブ/アートロックの最もエキセントリックな一端を記録する歴史的ドキュメントである。
全曲レビュー
1. Walking Down a Road
オープニングから不穏なピアノと変拍子で始まる、Split Enzの美学が凝縮された一曲。
“道を歩く”という普遍的なモチーフに、狂気や迷走のメタファーが重ねられ、現実と幻想が錯綜する。
ヴォーカルの語り口はオペラ的で演劇的。
2. Under the Wheel
細かく刻まれるリズムと劇伴のようなキーボード、そして夢遊病的なヴォーカル。
“車輪の下で潰される”というタイトルは社会の抑圧や自己否定の寓意。
展開は複雑ながらも緻密で、Split Enz流King Crimson的ファンタジーが展開される。
3. Amy (Darling)
メロディは美しいが、そこに乗るリリックは神経症的で危うい。
“エイミー”という女性像は現実か幻想か。
バロック調の構成とパントマイムのようなアレンジが恋愛の不安定さと幻影性を強調する。
4. So Long for Now
チェンバーポップ的なアプローチが印象的な短編的楽曲。
別れと再会の狭間で揺れる感情を、不穏なコード進行とハーモニーで包み込む。
耽美でありながら乾いた視線があるのは、初期フィン作品の特徴。
5. Stranger Than Fiction
本作のハイライト。
現実よりも奇妙な“虚構”を讃えるようなこの曲は、アートロックとしてのSplit Enzの精神を最も端的に伝える。
サーカスのような展開、スリリングなリズムチェンジ、奇怪な合唱――まるでダリが描いたミュージカル。
6. Time for a Change
アルバム中もっとも静かでメロウな一曲。
シンプルなピアノとフィンの感傷的なヴォーカルが、混沌のなかにある静寂=“変化の予兆”を象徴する。
のちのポップ路線の原型がすでに見え隠れする。
7. Maybe
不安定なメロディと語り口調のボーカルが、迷いや自己疑念をそのまま音にしたような楽曲。
“たぶん”という言葉の不確かさが、楽曲構造と完全に一致している。
Split Enzにしか表現できない“疑念のポップ”。
8. Titus
マーチング調のリズムに乗せて、象徴的なキャラクター「タイタス」を描くファンタジー的トラック。
寓話と神話、そして心理劇が交差するような詩世界。
物語的構造が強く、Split Enzの劇場性と物語力を堪能できる。
9. Spellbound
鍵盤の旋律と複雑なリズムが交錯する、アルバム最終曲にふさわしい儀式的ナンバー。
“呪縛”というテーマは、芸術や愛、狂気などあらゆる執着への暗示。
夢と現実の境界が完全に曖昧になり、出口のない迷宮にリスナーを残したまま幕が下りる。
総評
『Mental Notes』は、Split Enzが音楽、演劇、詩、視覚芸術を融合させた“異形の総合芸術”を目指した出発点であり、1970年代アートロック史においても異彩を放つ作品である。
この作品を理解するには、耳だけでなく想像力、そしてある種の“精神の柔軟性”が求められる。
それは整ったポップ・アルバムではなく、無意識下の夢日記のような構造を持つ“音の劇場”なのだ。
後年のSplit Enzがポップ路線で成功を収めたことを知るリスナーにとって、本作はまるで別バンドのようにすら感じられるかもしれない。
だがその混沌、過剰、奇妙さこそが、彼らの表現欲求の源泉であり、出発点だったことを忘れてはならない。
おすすめアルバム(5枚)
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Roxy Music / For Your Pleasure
演劇性と耽美主義が共存する、Split Enzの美学に強く影響を与えた作品。 -
10cc / Sheet Music
ひねくれたポップとスタジオ実験の融合。ユーモアと構成力の共通点が多い。 -
Genesis / The Lamb Lies Down on Broadway
物語性と音楽的複雑さが交差する、“演じるプログレ”の金字塔。 -
Sparks / Kimono My House
グラム・ポップの狂騒とファルセットによる変態的美学が類似。 -
Gentle Giant / Octopus
変拍子と多声部コーラスによる知的アヴァン・プログレの代表格。
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