
1. 歌詞の概要
『Tom Traubert’s Blues(Four Sheets to the Wind in Copenhagen)』は、Tom Waitsが1976年にリリースしたアルバム『Small Change』に収録された作品であり、彼のキャリアの中でも最も重く、最も美しく、最も痛烈な楽曲のひとつである。この楽曲は、“酔いどれ詩人”としてのTom Waitsのイメージを決定づけた象徴的なバラードであり、彼の詩的才能と情感の表現力が頂点に達した名作と評される。
曲の中心をなすのは、オーストラリアの民謡『Waltzing Matilda』の旋律とリフレインである。この伝統的なメロディに乗せて、Waitsは酒と孤独、失恋、異国での自己喪失を語る。語り手は、コペンハーゲンの街角で酔いつぶれ、人生の迷路に囚われながらも、かつての愛や希望を回想する。全体を覆うのは、退廃と哀愁、そして“どうにもならなかった人生”への乾いた達観である。
タイトルに含まれる「Blues」は、単なる音楽ジャンルとしての意味を超え、「魂の沈鬱」そのものを表現しており、この曲はまさに“失われたすべての者たち”のためのレクイエムである。鋭くリアルで、それでいてどこまでも詩的。Tom Waitsという語り部の真価が、ここには凝縮されている。
2. 歌詞のバックグラウンド
『Tom Traubert’s Blues』は、Waitsが実際に体験した北欧での放浪旅行をもとにしている。彼は当時、コペンハーゲンで一文無しとなり、飲酒と孤独に沈む中でこの曲を構想したとされる。タイトルにある“Tom Traubert”とは実在の人物ではなく、“架空の詩的アイデンティティ”であり、あるいは酔った自分自身の象徴でもある。
また、この曲に引用された『Waltzing Matilda』は、オーストラリアの非公式な国歌とも言える有名なバラッドであり、「流浪する労働者が社会から逸脱しながらも、自らの誇りを保って生きる姿」を描いたもの。Waitsはこの旋律を借りることで、“アメリカの都市に生きるアウトサイダー”という自身の物語を、より普遍的な“敗者の物語”へと昇華させている。
プロデュースはBones Howe、アレンジはJerry Yesterが手がけており、弦楽器とピアノの静かな伴奏が、Waitsのしわがれたボーカルを際立たせる。まさに“夜の酒場”の空気感がそのまま音に溶け込んでおり、酩酊と郷愁、詩情が交錯する、極めて映画的な楽曲となっている。
3. 歌詞の抜粋と和訳
Wasted and wounded, it ain’t what the moon did
酔い潰れ 傷だらけ――これは月のせいじゃないGot what I paid for now
結局、全部 自分で選んだことなんだ
冒頭のこのラインで、すでに語り手の疲弊しきった人生と、誰にも責任を押し付けない諦めのような自省が描かれている。
And I lost my St. Christopher now that I’ve kissed her
彼女にキスしてから、守護聖人のペンダントも失くしてしまったAnd the one-armed bandit knows
片腕のスロットマシンだけが、俺の運命を知ってるんだ
“St. Christopher”は旅人の守護聖人とされる存在。恋と同時に“守り”を失ったこと、そして人生を偶然に委ねるしかない境遇が示唆されている。
Waltzing Matilda, waltzing Matilda
ワルツィング・マチルダ、ワルツィング・マチルダよYou’ll go waltzing Matilda with me
一緒に踊ってくれるかい、マチルダよ
ここで繰り返される『Waltzing Matilda』のフレーズは、かつての恋人への呼びかけであると同時に、人生の喪失に対する哀歌のようにも響く。
引用元:Genius – Tom Waits “Tom Traubert’s Blues” Lyrics
4. 歌詞の考察
『Tom Traubert’s Blues』は、Tom Waitsの詩的世界観が最も深く結晶化された作品であり、単なる失恋ソングではない。語り手はただ一人の女性を失ったのではなく、自らの“人生の方向性”そのものを見失っている。そしてその“失われた何か”を、異国の街角で、酒に溺れながら思い出しているのだ。
重要なのは、語り手が誰かに怒りを向けていないという点である。すべては自分の選んだ道、だからこそその痛みは“潔い”。それでもなお彼が繰り返し「ワルツィング・マチルダ」と呼びかけるのは、どこかに微かに残っている希望、または人生に対する諦めきれない愛情の名残である。
また、“異国の酩酊状態”という設定も、この曲の詩的構造をより強固なものにしている。語り手は現実と幻想のあいだを揺れ動き、記憶の断片がモノローグとして浮かんでは消えていく。その語りは、ひとつの連続した物語ではなく、断章的な“内的風景”として展開され、まるで夜の港町を一人さまようような没入感を生み出している。
最も深い感情を、最もシンプルなフレーズで――それがTom Waitsの真骨頂であり、『Tom Traubert’s Blues』はその極致である。
5. この曲が好きな人におすすめの曲
- Famous Blue Raincoat by Leonard Cohen
過去と現在が交錯する手紙形式の名曲。失われた愛と人生の苦味を詩的に描く。 - Closing Time by Tom Waits
アルバム『Closing Time』収録の静かなバラード。Tomの原点を知るうえで不可欠。 - Bird on the Wire by Leonard Cohen
自由と矛盾、自己嫌悪と赦しが交錯する、魂の歌。 - Chelsea Hotel #2 by Leonard Cohen
過去の恋人との刹那的な関係を振り返る、痛みとユーモアに満ちた名曲。
6. “酔いどれのバラッド”としての極北
『Tom Traubert’s Blues』は、酒場の片隅で静かに流れるような曲だ。しかしその静けさの中には、人生の喪失、恋の余韻、そして世界に居場所を見出せない者の魂が、強く、深く、染み込んでいる。Tom Waitsはこの曲で、愛とは何か、記憶とは何か、詩とはどこから生まれるのかを、すべて音楽で語ってみせた。
「何もかもを失った男が、なおも誰かに語りかける」
それは人間の孤独の本質であり、そして音楽が果たす最大の役割かもしれない。『Tom Traubert’s Blues』は、そうした“人間の声”を、永遠に残すために生まれた名曲である。
歌詞引用元:Genius – Tom Waits “Tom Traubert’s Blues” Lyrics
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