
発売日: 2023年10月13日
ジャンル: インディーフォーク、ドリームポップ、シンガーソングライター
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概要
『the rest』は、Phoebe Bridgers、Julien Baker、Lucy Dacusの3人によるスーパートリオ・boygeniusが、フルアルバム『the record』に続いて発表した4曲入りのEPであり、“余白”の美学を静かに追求した、言葉と沈黙のあいだを漂う作品である。
“the rest”というタイトルは、『the record』の延長に位置づけられた「残りもの」や「続き」としての意味を持ちながらも、同時に「休息」や「静寂」のニュアンスを含んでいる。
まるで、喧騒のあとに残された心のさざなみのような楽曲群。
プロデュースには再びboygenius自身とTony Berg、Ethan Gruskaが参加しており、ミニマルで親密なサウンドスケープを構築。
各メンバーのソロ的感性がより前面に出た構成となっており、ユニットとしての結束と、それぞれの声の個性がより自由に交錯している。
わずか4曲ながら、アルバム一枚分の余韻と詩情をたたえる小品である。
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全曲レビュー
1. Black Hole
Julien Baker主導のアンビエント・フォーク的トラック。
重力に引きずられるようなサウンドと、すべてを飲み込む「ブラックホール」という比喩が重なり、自己崩壊寸前の精神状態を描写する。
「何もかもが消えていくけど、私はまだここにいる」——そんな感情のきらめきが滲む。
2. Afraid of Heights
Lucy Dacusが歌う、静かなギターと語りが印象的なナンバー。
高所恐怖症は比喩であり、「人生の選択肢を前にしたときの臆病さ」や「飛び込めなかった恋」の象徴として描かれる。
いつもの優しい口調の裏にある、深い諦念と慈しみ。
3. Voyager
Phoebe Bridgersがリードを取る、夢幻的なサウンドのバラード。
NASAの探査機「ボイジャー」の名を借りて、「自分自身の内側を探る旅」へと変換する詩的構造。
空間の広がりと、孤独の静けさが共鳴する一曲で、ブリジャーズのソロ作に最も近い感触。
4. Powers
EPを締めくくるのは、3人の声が交錯する壮大な終曲。
「何が私をここに連れてきたのか?」という問いが繰り返され、宇宙的規模のメタファーと、極私的な記憶が混じり合う。
ラストにふさわしい余韻と余白が残される、スピリチュアルな小宇宙。
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総評
『the rest』は、boygeniusというユニットが“静寂を共有する”ことにどれほど長けているかを示す作品である。
前作『the record』が友情と感情の結束を祝う“祝祭”だったとすれば、本作はそのあとに訪れる“沈黙のあたたかさ”である。
4曲すべてが低いテンションで統一されており、叫びや爆発の代わりに、内面に降り積もる感情の温度をじっくりと描いていく。
各メンバーの声はひときわ親密に録られており、まるで耳元で語りかけてくるような錯覚を覚える。
“残りもの”というにはあまりにも豊潤で、むしろこれは「感情の余白を歌にした」作品なのだ。
静かで、少し寂しくて、それでいて限りなく優しい。
boygeniusはこのEPで、「何も起きない時間」にこそ本当の音楽が宿ることを証明している。
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おすすめアルバム(5枚)
- Phoebe Bridgers『Punisher』
夢と死と孤独が共存する静かな傑作。『Voyager』との親和性が高い。 - Julien Baker『Sprained Ankle』
声とギターだけで構築された、沈黙を愛する名盤。 - Lucy Dacus『No Burden』
日常の感情を詩的に昇華する語り口に、共通する温かさ。 - Sufjan Stevens『Carrie & Lowell』
家族と死を静かに語る、フォーク・ミニマリズムの極致。 - Aldous Harding『Designer』
抽象的な感情を音で刺繍する、聴く詩集のような作品。
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7. 歌詞の深読みと文化的背景
『the rest』の4曲には、時間、重力、宇宙、記憶といった抽象的かつ普遍的なモチーフが繰り返し登場する。
それは日常的な感情を超えた場所で、「私とは誰か」「なぜここにいるのか」といった根源的な問いを投げかけている。
特に「Voyager」や「Powers」では、科学的・天文学的イメージを通じて、個人の内面を“宇宙的スケール”にまで拡大して描いており、これはboygeniusが単なる“私的ポップ”の枠を超え、「自己の哲学化」を試みていることの証でもある。
また「Afraid of Heights」のように、ごくシンプルな恐怖やためらいが、語られることで共有され、救いへと変換されていく様子は、彼女たちの“歌の連帯”という本質を象徴している。
『the rest』は、“語るべきことがもうない”ときに、それでも歌が生まれてしまうことの奇跡を記録した、小さな宇宙なのだ。
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