発売日: 2021年3月5日
ジャンル: オルタナティブヒップホップ、ファンク、ポストパンク、エクスペリメンタルR&B
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概要
『Smiling With No Teeth』は、ガーナ出身・オーストラリア育ちのアーティスト Genesis Owusu が2021年にリリースしたデビュー・アルバムであり、精神疾患、人種差別、自己像の分裂といった複雑な主題を、怒り・ユーモア・踊れるグルーヴで包み込んだ、爆発的かつ詩的な音楽的マニフェストである。
アルバムタイトル「歯のない笑顔」は、社会的な仮面、心の闇、抑圧された感情を示唆する多層的なメタファー。
実際、本作を貫くのは「The Black Dog(黒い犬)」という比喩的存在であり、それは鬱病の象徴でもあり、人種差別という構造的暴力の化身でもある。
Genesis Owusu は、このテーマをポップな形にまとめることなく、ジャンルを越境しながら身体的なビートと知的なリリックで“聴く者に体験させる”という手法を取っている。
その結果として、本作はヒップホップ、ファンク、パンク、ジャズ、ニューウェーブを横断する“闇と踊りの交差点”のような音楽作品に仕上がっている。
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全曲レビュー
1. On the Move!
爆発的な幕開け。ファンク×パンクの混血的グルーヴが、抑え込まれてきた怒りを一気に解放する。
テーマは「生き抜くために動き続けること」——それは逃走であり、反撃でもある。
2. The Other Black Dog
アルバムの中核的なコンセプトトラック。
「2匹の黒い犬」とは、鬱と差別——その両方が主人公を蝕む様子が、ダンサブルなトラックに乗せて描かれる。
心の闇を“ノレる形”で描くという点で本作の象徴。
3. Centrefold
R&B的な滑らかさと、仄かなエロスを纏ったナンバー。
愛されるために“見せかけの自分”を演じる感覚が、センシュアルかつ不穏に表現される。
4. Waitin’ on Ya
静かな怒りと諦念が交差するファンク・バラード。
自己肯定と他者依存のせめぎ合いを、緩やかで重いビートに乗せて展開。
5. Don’t Need You
反転的ラブソング。
「お前なんかいらない」という一見攻撃的な言葉の裏に、“自分を取り戻す”という主体性が滲む。
パンクとソウルのハイブリッド。
6. Drown (feat. Kirin J Callinan)
エモーショナルなギターと歪んだビートが印象的な、ニューウェーブ風の一曲。
「溺れる感覚」が、比喩ではなく身体的に響いてくる構成。
7. Gold Chains
本作中最もポップな楽曲。
ラグジュアリーやステータスに対する皮肉が込められており、表層の煌びやかさと内面の虚無が並置される。
「黄金の鎖」は、自由ではなく“囚われ”の象徴。
8. Smiling With No Teeth
タイトル曲にして最大の問題提起。
“笑っているように見せる”ことと、“実際には何もない”という感情の断絶が、非常にストイックに描かれる。
ビートも最小限で、リリックの切実さが浮き彫りになる。
9. Whip Cracker
最もラディカルで政治的なトラック。
「誰が鞭を握っているのか?」という問いは、奴隷制の記憶から現代の支配構造までを貫く。
怒りが言葉とサウンドで炸裂する。
10. Easy
本作の中で最も軽やかなビートを持つ楽曲。
だが歌詞は、自己欺瞞と逃避に満ちており、聴きやすさの裏に鋭い問いが仕掛けられている。
11. A Song About Fishing
一転してミニマルでフォーキーな構成。
釣りというモチーフを通して、「待つこと」「期待しないこと」の哲学が語られる。
異色だが極めて深い内省的トラック。
12. No Looking Back
過去を断ち切る決意を、エネルギッシュなグルーヴで表現。
感情の“切断”が快楽と共に鳴る、不思議な快感に満ちた一曲。
13. Bye Bye
次章への序章とも言える短編。
「さよなら」という言葉が持つ自由と不安を、子供のような声と音で描く。
14. Bye Bye (Bonus Track)
ラストはメランコリックなアンコール。
夢と現実のあわいをさまようような音像が、アルバムの余韻を深くする。
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総評
『Smiling With No Teeth』は、現代の黒人アーティストによる最も重要なデビュー作のひとつであり、「音楽で語るマニフェスト」であり「踊れる詩集」でもある。
その中心にあるのは「黒い犬」=鬱と差別という二重の痛み。
だが Genesis Owusu はそれを、被害者的に語るのではなく、自らの身体性と美意識で捉え返し、“痛みの美学”を成立させている。
音楽的にもジャンルを横断しており、ファンク、ヒップホップ、パンク、ニューウェーブ、フォーク、R&Bを自在に行き来する。
それは単なる“ミックス”ではなく、個人のアイデンティティの分裂を音楽として体現する方法論なのだ。
また、「笑顔」と「無」、この相反するものをタイトルに並べることで、Owusuはリスナーにこう問うている——
“その笑顔の裏に、本当に歯はあるか?”
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おすすめアルバム(5枚)
- Kendrick Lamar『To Pimp a Butterfly』
黒人性、政治、アイデンティティを音楽的に革新した金字塔。 - Childish Gambino『”Awaken, My Love!”』
ファンクとR&Bの再構築によるアフロ・フューチャリズム。 - Yves Tumor『Heaven to a Tortured Mind』
官能とノイズ、ソウルとロックのハイブリッド。 - TV on the Radio『Return to Cookie Mountain』
ポストパンクとソウルの融合、黒人ロックの進化形。 - Arca『Kick I』
アイデンティティと身体性を音響で構築する先鋭的アプローチ。
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7. 歌詞の深読みと文化的背景
『Smiling With No Teeth』のリリックは、極めて象徴的かつ身体的であり、黒人であること、移民であること、精神疾患を持つこと、そしてそれを“語らなければならないこと”の重みを正面から扱っている。
「The Other Black Dog」で鬱を、「Whip Cracker」で植民地主義を、「Smiling With No Teeth」で自己否定の社会的構造を、それぞれ比喩的に、しかし生々しく描き出す。
また、“笑顔”という社会的ジェスチャーへの不信もテーマのひとつ。
表面的な幸福感を強要する文化に対して、「本当の自分はどこにあるのか?」という問いが繰り返される。
Genesis Owusu はこの作品で、自分の黒さを悲劇にせず、逆にポエティックに、そしてパフォーマティブに昇華する。
それは一種の“黒いサイバーパンク”、あるいは“ブラック・ノワールの未来形”とも言える試みである。
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