
発売日:2017年6月16日
ジャンル:インディー・ポップ、インディー・ロック、サーフ・ポップ、シンセ・ポップ、ドリーム・ポップ
概要
The Drumsの4作目のスタジオ・アルバム『Abysmal Thoughts』は、バンド名義で発表されているものの、実質的には中心人物Jonny Pierceによるソロ作品として位置づけられるアルバムである。The Drumsは、2009年のEP『Summertime!』、2010年のデビュー・アルバム『The Drums』によって、サーフ・ポップ、ポスト・パンク、インディー・ポップを軽やかに融合したバンドとして注目を集めた。初期の彼らは、The Beach Boys的な海辺の明るさ、The Smiths的な憂鬱なメロディ、New OrderやFactory Records周辺を思わせる硬質なリズム感を、簡潔でキャッチーなポップ・ソングへとまとめ上げていた。
しかし、The Drumsの音楽は最初から単なる夏向きのギター・ポップではなかった。きらびやかなメロディ、跳ねるリズム、クリーンなギターの裏側には、孤独、拒絶、失恋、性的アイデンティティ、家族との断絶、自尊心の揺らぎといった重いテーマが常に存在していた。明るい音像と暗い歌詞の対比こそが、The Drumsの大きな特徴である。『Abysmal Thoughts』は、その二面性をさらに極端な形で押し進めた作品であり、表面的には軽快なインディー・ポップでありながら、内容面ではJonny Pierceの個人的な崩壊と再構築を描いた非常に内省的なアルバムとなっている。
本作が制作された時期、The Drumsはバンドとして大きな転換点にあった。結成当初からのメンバーであったJacob Grahamが離れ、Jonny Pierceがほぼ単独でThe Drumsの名を背負うことになったためである。結果として『Abysmal Thoughts』は、過去作よりも私小説的な色彩が強く、バンド・アンサンブルの作品というより、Pierce自身の感情、記憶、トラウマ、愛への渇望が直接的に反映されたアルバムになっている。タイトルの「Abysmal Thoughts」は「どん底の思考」「底なしの暗い考え」といった意味を持ち、本作全体に漂う精神的な落ち込みや自己分析の深さを象徴している。
音楽的には、初期The Drumsの特徴であったサーフ・ロック風のギター、タイトなドラム・マシン、80年代的なシンセサイザー、乾いたベースライン、甘く切ないメロディが引き継がれている。一方で、サウンドの密度は過度に厚くならず、むしろ隙間の多いアレンジが目立つ。これは制作環境の変化とも結びついており、孤独な部屋の中で生まれたような親密さを作品に与えている。明るく跳ねるビートの上で、Pierceは自分の不安や痛みをほとんど隠さずに歌う。そのため、本作はダンスできる失恋アルバムであり、同時に自己告白としてのインディー・ポップでもある。
The Drumsが影響を受けた音楽的系譜としては、The Smiths、The Wake、Orange Juice、New Order、The Cure、The Beach Boys、さらにはC86周辺のジャングリーなインディー・ポップが挙げられる。『Abysmal Thoughts』では、そうした参照点が単なる懐古趣味ではなく、現代のクィアな感性やメンタルヘルスの主題と結びついている。特にJonny Pierceの歌詞は、恋愛の失敗を普遍的な失恋として描くだけでなく、自己肯定感を失った人間がどのように他者を求め、同時に他者を恐れるのかという問題へ踏み込んでいる。
キャリア上の位置づけとして、『Abysmal Thoughts』はThe Drumsの第二章を告げる作品である。デビュー時のバンド的な瑞々しさから離れ、Jonny Pierce個人の作家性が前面に出たことで、The Drumsは「インディー・ポップ・バンド」から「個人の痛みをポップの形式で表現するプロジェクト」へと変化した。本作以降のThe Drumsを理解するうえで、『Abysmal Thoughts』は極めて重要な転換点である。
全曲レビュー
1. Mirror
オープニング曲「Mirror」は、『Abysmal Thoughts』の中心的なテーマを冒頭から示す楽曲である。タイトルの「Mirror」は鏡を意味し、自己認識、自己嫌悪、自己確認といった要素を象徴している。The Drumsらしい軽快なビートとシンプルなギターの反復が曲を支えるが、歌詞の内容は明るさとは対照的に、自分自身と向き合う苦しさを描いている。
音楽的には、初期The Drumsを思わせるミニマルなインディー・ポップの構造がある。余計な装飾を避け、短いフレーズと反復によって感情を増幅していく手法は、バンドの持ち味である。しかし、この曲ではその軽さが幸福感ではなく、むしろ空虚さを強調する。鏡を見るという行為は、単に外見を確認することではなく、自分の内面に潜む不安や欠落を突きつけられる行為として機能している。
Jonny Pierceのボーカルは、甘さと脆さを同時に持つ。彼の声は決して力強く押し出されるものではないが、その不安定さが歌詞の心理状態と結びついている。「Mirror」は、本作が他者へのラブソングである以前に、自分自身との関係をめぐるアルバムであることを明確にする導入曲である。
2. I’ll Fight for Your Life
「I’ll Fight for Your Life」は、アルバム序盤の中でも特にエモーショナルな楽曲である。タイトルは「君の人生のために戦う」という強い言葉を含むが、The Drumsらしく、その決意は壮大なロック・アンセムとしてではなく、軽やかで切ないポップ・ソングとして表現される。明るいメロディと切迫した歌詞の対比が、この曲の大きな魅力である。
歌詞では、誰かを救いたい、支えたいという思いが語られる。しかし、その裏側には、相手を失うことへの恐怖や、自分自身が誰かの役に立てるのかという不安も見える。The Drumsのラブソングはしばしば、愛の幸福よりも、愛に伴う依存や不均衡を描く。この曲でも、愛する相手を守ろうとする姿勢は美しい一方で、語り手自身の孤独や必死さを浮かび上がらせている。
サウンド面では、ドラム・マシン的なリズムと明快なメロディが前面に出ており、シンセ・ポップ的な透明感も感じられる。単純に聴きやすい曲でありながら、感情の密度は高い。『Abysmal Thoughts』が持つ「明るい音で暗い感情を歌う」という構造を代表する一曲である。
3. Blood Under My Belt
「Blood Under My Belt」は、本作のリード・シングルとしても機能した楽曲であり、The Drumsのポップ・センスが最も端的に表れた曲のひとつである。イントロから軽快なギターと弾むリズムが印象的で、初期The Drumsの瑞々しさを思わせる。しかし、そのタイトルが示す通り、歌詞には傷、罪悪感、過去の失敗が刻まれている。
「Blood Under My Belt」という表現は、何か取り返しのつかないことを経験した後の重さを連想させる。ここでの血は、直接的な暴力というより、関係の中で負った傷や、相手を傷つけてしまった記憶の象徴として読むことができる。語り手は軽やかに振る舞おうとしながらも、過去の痛みを完全には振り払えない。
音楽的には、非常にキャッチーなインディー・ポップであり、短く整理された構成、耳に残るメロディ、シンプルなビートが特徴である。The Drumsの魅力は、深刻な感情を過度に重苦しい音楽へ変換しない点にある。この曲でも、聴き手は踊れるような軽さを感じながら、同時に歌詞の中の後悔と喪失に触れることになる。アルバム全体の入口として非常に重要な曲である。
4. Heart Basel
「Heart Basel」は、タイトルからアート・フェアのArt Baselを連想させる言葉遊びを含む楽曲である。アート、都市、恋愛、社交の場といったイメージが重なり、The Drumsらしい軽妙さと皮肉が感じられる。音楽的には、跳ねるビートと滑らかなメロディが特徴で、アルバムの中でも比較的ポップな印象を持つ。
歌詞では、恋愛関係の中での不安定さや、華やかな場所にいながら心が満たされない感覚が描かれる。アート・イベントのような洗練された空間は、外面的には魅力的だが、その中で人はしばしば孤独を深める。The Drumsはここで、都会的な華やかさと内面的な空虚を対比させている。
サウンドは軽やかで、80年代的なインディー・ポップの影響が感じられる。ギターの響きは硬すぎず、シンセの質感も淡く、全体として柔らかな色彩を持つ。しかし、その柔らかさは幸福の表現ではなく、不安を包み込む薄い膜のように機能している。アルバムのテーマである「表面の明るさと内面の暗さ」を、洗練された形で示す楽曲である。
5. Shoot the Sun Down
「Shoot the Sun Down」は、The Drumsの中でもやや陰影の濃い楽曲であり、タイトルからして破壊的なイメージを持つ。「太陽を撃ち落とす」という言葉は、本来なら希望や光を象徴するものを否定する行為であり、アルバム全体の暗い心理状態を象徴している。
音楽的には、シンプルなビートと淡いシンセ、反復的なメロディが組み合わされている。曲全体に過度な盛り上がりはなく、一定の温度で感情が持続する。その抑制された構成が、かえって歌詞の虚無感を強めている。Jonny Pierceの歌声は、ここでも感情を爆発させるというより、諦めや疲労を含んだ声として響く。
歌詞のテーマは、失望、自己破壊、希望への不信として解釈できる。太陽は通常、再生や未来を象徴するが、それを撃ち落とそうとする語り手は、光そのものに耐えられない精神状態にある。『Abysmal Thoughts』というタイトルが示す「底なしの暗い思考」が、この曲では象徴的なイメージとして表れている。
6. Head of the Horse
「Head of the Horse」は、Jonny Pierceの家庭環境や宗教的背景を想起させる非常に重要な楽曲である。The Drumsの音楽において、家族、信仰、抑圧、クィア・アイデンティティはしばしば暗黙のテーマとして存在してきたが、この曲ではそれがより直接的に表現されている。タイトルは奇妙で寓話的な印象を与え、子ども時代の記憶や悪夢のような映像を連想させる。
音楽的には、アルバムの中でも特に内省的で、明るいサーフ・ポップの要素は後退している。音数は抑えられ、ボーカルと言葉が前面に出る。The Drumsの魅力である軽快なリズムはここでは控えめで、代わりに語り手の脆さが露出している。
歌詞では、親子関係、精神的な傷、過去の抑圧が浮かび上がる。特に、宗教的に保守的な環境で育った人物が、自分の欲望や存在を否定されることによって受ける痛みが背景にあると考えられる。この曲は、単なる失恋ソングではなく、Pierceの人格形成に深く関わる傷を扱っている。そのため、『Abysmal Thoughts』の中でも特に重い意味を持つ楽曲である。
7. Under the Ice
「Under the Ice」は、タイトル通り氷の下に閉じ込められたような感覚を持つ楽曲である。表面は冷たく、外部からは見えにくいが、その下では感情が動いている。The Drumsの音楽によく見られる「見えるもの」と「見えないもの」の対比が、この曲では氷というイメージによって表現されている。
サウンド面では、冷たいシンセの質感と抑制されたリズムが印象的である。ギター・ポップとしての親しみやすさは残しつつも、全体には閉塞感が漂う。リズムは軽いが、空間は狭く、歌声はどこか遠くから聞こえるように配置されている。
歌詞のテーマは、感情の麻痺、孤立、沈黙である。氷の下にいるという状態は、他者から見えず、声も届きにくい状況を意味する。語り手は完全に死んでいるわけではないが、自由に動くこともできない。この曖昧な生存感覚は、うつ状態や深い孤独を思わせる。The Drumsはここで、ポップ・ソングの形式を用いながら、精神的な凍結状態を描き出している。
8. Are U Fucked
「Are U Fucked」は、タイトルからして挑発的で、アルバム中でも直接的な言葉遣いが目立つ楽曲である。The Drumsの持つ甘いインディー・ポップのイメージとは対照的に、ここでは混乱、苛立ち、関係の破綻がむき出しになっている。表記に「U」を用いることで、現代的なメッセージのような軽さも加わり、深刻さと軽薄さが同時に存在している。
音楽的には、ビートがはっきりしており、短いフレーズの反復によって緊張感を生み出している。曲は感情を大きく展開させるというより、同じ問いを繰り返すことで、関係の中にある不安を増幅させていく。相手に対する問いかけは、同時に自分自身への問いでもある。
歌詞では、相手の状態を心配しているようでありながら、その言葉には攻撃性や諦めも混じっている。The Drumsの恋愛表現では、優しさと残酷さがしばしば隣り合う。この曲でも、関係を修復したい気持ちと、すでに壊れてしまったことを認めざるを得ない感覚が交錯している。アルバムの中盤に置かれることで、作品の精神的な混乱を強める役割を果たしている。
9. Your Tenderness
「Your Tenderness」は、タイトルが示す通り「優しさ」や「柔らかさ」を主題にした楽曲である。しかし、The Drumsにおける優しさは、安定した愛情というより、失われたもの、あるいは手に入りそうで手に入らないものとして描かれることが多い。この曲でも、相手の優しさへの渇望が、同時に孤独や不安を浮かび上がらせている。
音楽的には、穏やかでメロディアスな構成が特徴である。派手なアレンジはなく、シンプルな音の重なりによって感情を支えている。Jonny Pierceのボーカルは非常に繊細で、強く歌い上げるのではなく、言葉をこぼすように響く。そのため、歌詞の中の弱さや依存がより明確に伝わる。
歌詞では、愛する相手の優しさが救済として求められている。しかし、その優しさに頼ることは、同時に自分の不安定さを露呈する行為でもある。The Drumsはここで、恋愛を癒やしとしてだけではなく、自己の欠落を映し出す鏡として描いている。アルバム全体の私的な痛みを、比較的柔らかな音像で表現した楽曲である。
10. Rich Kids
「Rich Kids」は、The Drumsの皮肉な視点が表れた楽曲である。タイトルの「Rich Kids」は、裕福な若者たち、あるいは特権的な環境にいる人々を指す。The Drumsは過去にも、若さ、消費、恋愛、都市生活に潜む空虚をポップな形で描いてきたが、この曲では階級的な視点が加わっている。
サウンドは軽快で、曲調だけを聴けば明るいインディー・ポップとして成立している。しかし、歌詞には羨望、軽蔑、疎外感が入り混じる。裕福な人々が持つ無邪気さや自由さは、外部にいる者にとっては魅力的であると同時に、残酷なものでもある。語り手はその世界に入りたいのか、拒絶したいのか、明確には定まらない。
この曖昧さが「Rich Kids」の核心である。The Drumsは、社会批判を大きなスローガンとして提示するのではなく、個人的な劣等感や違和感の中に社会的な構造を忍ばせる。結果として、この曲は階級差と自己価値の問題を、短く鋭いポップ・ソングとして表現している。
11. If All We Share Means Nothing
「If All We Share Means Nothing」は、タイトルからも分かる通り、関係の意味が失われる瞬間を描いた楽曲である。「共有してきたものがすべて無意味だとしたら」という問いは、恋愛だけでなく、友情、家族、バンド、過去の記憶にも当てはまる。『Abysmal Thoughts』全体が喪失と自己再編のアルバムであることを考えると、この曲は非常に重要な位置にある。
音楽的には、メロディの切なさが前面に出ている。The Drumsらしい簡潔な構成を持ちながら、歌詞の重さによって曲全体に深い影が差している。過去に意味があったはずのものが、現在の破綻によって無効化されてしまう感覚は、多くの失恋ソングに共通するテーマだが、Pierceの歌唱はそれを非常に個人的な痛みとして提示する。
この曲では、過去をどう扱うかという問題が問われている。関係が終わったとしても、共有した時間は本当に無意味になるのか。それとも、痛みを伴ってでも記憶として残り続けるのか。The Drumsは明確な答えを出さず、問いそのものをメロディに乗せている。
12. Abysmal Thoughts
表題曲「Abysmal Thoughts」は、アルバムの核心を言葉にした楽曲である。タイトルが示す「底なしの暗い思考」は、本作全体を貫く精神状態であり、Jonny Pierceが抱える孤独、不安、自己嫌悪、過去の傷を集約している。表題曲でありながら、過度に壮大な作りにはなっておらず、むしろThe Drumsらしいシンプルなポップ・ソングとして提示される点が特徴である。
音楽的には、明るさと陰りのバランスが絶妙である。メロディは耳に残りやすく、リズムも軽快だが、歌詞の内容は沈んでいる。この対比こそがThe Drumsの本質であり、悲しみを悲しい音だけで表現しないところに、彼らのポップ・ミュージックとしての強度がある。
歌詞では、思考から逃れられない状態が描かれる。人は外部の問題から一時的に離れることはできても、自分の頭の中からは逃げられない。特に、自己否定や過去の記憶が反復されるとき、それは底なしの穴のように感じられる。この曲は、アルバムのタイトルを単なる暗い言葉としてではなく、現代的なメンタルヘルスの感覚として提示している。
13. I’m Tired of Being Alone
「I’m Tired of Being Alone」は、非常に直接的なタイトルを持つ楽曲である。孤独に疲れたという言葉は、The Drumsの作品全体を貫く主題のひとつであり、本作でも重要な意味を持つ。ここでは、孤独が美化されることなく、単純に耐えがたい状態として表現されている。
音楽的には、The Drumsらしいメロディの親しみやすさがあり、曲調は暗すぎない。しかし、その軽さが逆に孤独の痛みを際立たせる。明るいリズムに乗せて「一人でいることに疲れた」と歌うことで、感情の切実さがより強く伝わる。
歌詞は複雑な比喩よりも、率直な感情表現を重視している。The Drumsの魅力は、時に非常に簡単な言葉で、誰もが抱える不安を鋭く突く点にある。この曲は、アルバム終盤において、これまで散りばめられてきた自己嫌悪、失恋、家族の傷、社会的疎外を、孤独という一語へ集約する役割を果たしている。
14. I Will Love Again
「I Will Love Again」は、タイトルからして再生の予感を含む楽曲である。「再び愛するだろう」という言葉は、本作の暗い流れの中で希望を示すものに見える。しかし、The Drumsの音楽における希望は、完全な救済ではなく、不安を抱えたまま前へ進むための小さな意志として表れる。
音楽的には、明快なメロディと軽やかなリズムが印象的で、アルバムの中でも比較的開かれた雰囲気を持つ。だが、その明るさは単純な幸福ではない。語り手はすでに深い傷を負っており、愛が再び自分を救うかどうか確信しているわけではない。それでも「また愛する」と言うことは、傷つく可能性を引き受けることでもある。
この曲は、『Abysmal Thoughts』における数少ない前向きな宣言として機能している。ただし、それは勝利の歌ではなく、回復の途中にある人間の小さな決意である。The Drumsのポップ・ソングとしての美しさは、このような脆い希望を過剰に飾らず、シンプルなメロディで提示する点にある。
15. A Million Miles Away
「A Million Miles Away」は、距離をテーマにした楽曲である。タイトルの「百万マイル彼方」は、物理的な距離だけでなく、心理的な隔たりを示している。愛する人との距離、過去の自分との距離、望んでいた人生との距離。そうした複数の隔たりが、曲全体に漂う寂しさを生み出している。
サウンドは控えめで、アルバム終盤らしい余韻を持つ。The Drumsの音楽は、しばしば短く簡潔であるが、この曲ではその簡潔さが感情の空白を表現している。音数が多すぎないため、歌詞の孤独がよりはっきりと浮かび上がる。
歌詞では、近くにいたはずの人が遠くなってしまう感覚が描かれる。恋愛において、相手が実際に遠くへ行ったわけではなくても、心が離れた瞬間、人は途方もない距離を感じる。この曲は、その心理的距離をポップ・ソングの中に落とし込んでいる。『Abysmal Thoughts』の終盤に置かれることで、アルバム全体の孤独感をさらに深める役割を果たしている。
16. Tiny Boat
クロージング曲「Tiny Boat」は、アルバムの最後にふさわしい静かな楽曲である。タイトルの「小さな船」は、広大な海や不安定な世界の中で頼りなく漂う自己の比喩として機能している。The Drumsの初期イメージには海辺やサーフ・ポップの要素が強かったが、この曲における海は明るい夏の象徴ではなく、不安と漂流の場である。
音楽的には、派手な結末を避け、穏やかな余韻を残す構成になっている。アルバム全体を通じて描かれてきた自己嫌悪、失恋、家族の痛み、孤独は、この曲で完全に解決されるわけではない。むしろ、語り手は小さな船に乗ったまま、まだ不安定な水面を進んでいる。
しかし、「Tiny Boat」は絶望だけで終わる曲ではない。小さくても船があるということは、沈まずに進む手段が残されているということでもある。大きな救済ではなく、かすかな持続。これが『Abysmal Thoughts』の結末である。The Drumsは、暗い思考から完全に抜け出す物語ではなく、その中でなお生き延びようとする人間の姿を描いてアルバムを閉じる。
総評
『Abysmal Thoughts』は、The Drumsのキャリアにおいて大きな分岐点となった作品である。初期のThe Drumsは、バンドとしての瑞々しいエネルギー、サーフ・ポップ的な軽さ、ポスト・パンク的なリズム感によって評価された。しかし、本作ではそのバンド的な外枠が後退し、Jonny Pierce個人の内面が前面に出ている。その意味で『Abysmal Thoughts』は、The Drumsという名前を用いたセルフ・ポートレイトに近い。
本作の最大の特徴は、明るい音楽的形式と極めて暗い歌詞内容の対比である。軽快なビート、キャッチーなメロディ、透明感のあるギターやシンセは、聴き手に親しみやすさを与える。しかし、その上で歌われるのは、失恋、孤独、家族からの傷、自己嫌悪、階級的な疎外、愛への渇望である。この対比はThe Drumsの初期から存在していたが、『Abysmal Thoughts』ではより私的で露骨なものになっている。
音楽的には、The SmithsやNew Order、The Cure、The Beach Boys、C86系インディー・ポップの影響を感じさせながらも、過去のスタイルを単に再現しているわけではない。むしろ、80年代的なギター・ポップやシンセ・ポップの語法を、2010年代の個人的で告白的なポップ表現へ接続している。特に、クィアな視点、メンタルヘルスへの意識、家庭や宗教的抑圧の記憶が、サウンドの軽さと結びついている点は重要である。
『Abysmal Thoughts』は、完璧に整った大作というより、傷ついた感情がそのままポップ・ソングの形を取ったアルバムである。曲によっては意図的にラフで、同じ感情を繰り返し見つめるような構成もある。しかし、その反復こそが本作のリアリティである。暗い思考は一度で消えるものではなく、何度も戻ってくる。その循環を、The Drumsはシンプルなメロディと軽快なリズムの中に閉じ込めている。
本作は、The Drumsの初期作品にあった即効性のあるインディー・ポップを期待するリスナーにも届く要素を持ちながら、より深く聴くほどJonny Pierceの個人的な痛みが見えてくる作品である。失恋ソング、クィア・インディー、80年代由来のギター・ポップ、メランコリックなシンセ・ポップに関心のあるリスナーに適している。また、明るい曲調の中に暗い感情を忍ばせるポップ・ミュージックの魅力を理解するうえでも重要な一枚である。
『Abysmal Thoughts』は、孤独から完全に抜け出すアルバムではない。むしろ、孤独を抱えたまま、それを歌に変換することでかろうじて前進するアルバムである。The Drumsにとって本作は、バンドの終わりではなく、Jonny Pierceの個人的な表現として再出発するための作品だった。暗く、軽く、切なく、踊れる。その矛盾した性質こそが、本作の本質である。
おすすめアルバム
1. The Drums『The Drums』
2010年発表のデビュー・アルバム。サーフ・ポップ、ポスト・パンク、インディー・ポップを融合した初期The Drumsの魅力が最も分かりやすく表れている。『Abysmal Thoughts』の暗い歌詞と明るい音像の原型を知るために重要な作品である。
2. The Drums『Portamento』
2011年発表のセカンド・アルバム。デビュー作の軽快さを引き継ぎながら、より内省的でシンセ・ポップ色の強いサウンドへ進んだ作品である。Jonny Pierceの個人的な不安や孤独がより明確になり、『Abysmal Thoughts』への流れを理解しやすい。
3. The Smiths『The Queen Is Dead』
The Drumsのメランコリックなギター・ポップ感覚を理解するうえで欠かせない作品。明るく流麗なギターと、孤独や自己嫌悪を含む歌詞の対比は、『Abysmal Thoughts』にも通じる。インディー・ポップにおける悲しみとユーモアの関係を知るための重要作である。
4. New Order『Power, Corruption & Lies』
ポスト・パンクからシンセ・ポップへ移行する過程を象徴するアルバム。冷たい電子音、ダンサブルなリズム、感情を抑えたメロディは、The Drumsのサウンドにも影響を感じさせる。踊れる音楽の中に孤独を宿す方法論という点で関連性が高い。
5. Wild Nothing『Nocturne』
2012年発表のドリーム・ポップ/インディー・ポップ作品。80年代的なギターの響き、淡いシンセ、内省的なメロディが特徴で、『Abysmal Thoughts』の持つ透明感やメランコリーと共鳴する。The Drumsよりも夢幻的で柔らかなサウンドだが、同時代のインディー・ポップの文脈で比較しやすい作品である。

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