
- 発売日: 2021年6月25日
- ジャンル: インディー・ポップ、サイケデリック・ソウル、ドリーム・ポップ、ラウンジ・ポップ、オルタナティブR&B、ラテン・インディー
概要
The Maríasの『Cinema』は、2021年にリリースされた初のフル・アルバムであり、2017年の『Superclean Vol. I』、2018年の『Superclean Vol. II』で確立されたバンドの美学を、より大きな物語性と音響設計へ発展させた作品である。ロサンゼルスを拠点とするThe Maríasは、マリア・ザルドヤの柔らかく官能的なヴォーカルと、ジョシュ・コンウェイを中心とする洗練されたプロダクションを軸に、ラウンジ、サイケデリック・ポップ、ソウル、R&B、ジャズ、ラテン・ポップ、ドリーム・ポップを横断してきた。『Cinema』は、その混合的な音楽性を単なる雰囲気の集合ではなく、映画的なアルバム体験として提示した作品である。
タイトルの『Cinema』は、本作の性格を非常によく表している。The Maríasの音楽は以前から映像的だったが、本作ではその性質が明確なコンセプトへと引き上げられている。曲ごとに異なる場面、色彩、照明、距離感があり、聴き手はアルバムを通じて、一本の映画を観るように複数の感情の部屋を移動する。夜のバー、車の窓、薄暗い寝室、広い砂漠、古い映画館、夢の中のプールサイド、ネオンに照らされた都市。そのような視覚的イメージが、音の質感によって自然に浮かび上がる。
本作は、The Maríasの初期EPにあった「Superclean」な質感を保ちながら、より立体的な音作りへ進んでいる。『Superclean Vol. I』や『Vol. II』では、クリーンなギター、メロウなベース、柔らかなドラム、囁くようなヴォーカルが中心だった。『Cinema』ではその基本を引き継ぎつつ、低音の厚み、シンセサイザーの奥行き、ストリングス的な質感、スペイン語と英語の配置、曲間の流れがより緻密になっている。初期作品の親密さは残しながら、フル・アルバムとしての空間設計が強まったと言える。
マリア・ザルドヤのヴォーカルは、本作でも中心的な魅力である。彼女の声は大きく感情を爆発させるタイプではない。むしろ、囁き、息遣い、低い温度、柔らかな発音によって、聴き手を近くへ引き寄せる。英語で歌うときにはクールな距離感があり、スペイン語で歌うときにはより親密で甘い響きが生まれる。この二つの言語の間を自然に行き来する感覚が、The Maríasの大きな個性であり、『Cinema』ではそれが非常に洗練された形で表れている。
歌詞のテーマは、恋愛、欲望、別れ、記憶、幻滅、自己防衛、夢、孤独である。しかしThe Maríasの歌詞は、感情を説明しすぎない。恋愛の物語を細かく描くというより、断片的な言葉、反復されるフレーズ、甘い呼びかけ、突然の拒絶によって、関係の空気そのものを表現する。聴き手は、歌詞のストーリーを追うというより、曲ごとの温度や距離感を感じ取ることになる。この曖昧さが、アルバム全体の映画的な余白を作っている。
『Cinema』の重要性は、The Maríasが単なるチルなインディー・ポップ・バンドではなく、非常に明確な美意識を持ったポップ・アーティストであることを示した点にある。2010年代後半から2020年代初頭にかけて、インディー・ポップ、オルタナティブR&B、ラテン・ポップ、ネオソウルの境界は大きく溶け合っていった。Kali Uchis、Cuco、Omar Apollo、Men I Trust、Crumbなどが、それぞれ異なる形で多言語性、メロウなグルーヴ、レトロなサウンド、現代的なプロダクションを結びつけていた。The Maríasはその中でも、最も映画的で、最もラウンジ的で、最も音の質感にこだわる存在の一つとして位置づけられる。
日本のリスナーにとって『Cinema』は、シティポップ、ドリーム・ポップ、ネオソウル、ボサノヴァ、ラウンジ・ミュージック、チルウェイヴの感覚を横断して楽しめる作品である。派手なサビや強いロック的カタルシスは少ないが、音の余白、ベースの滑らかさ、声の近さ、夜のムードを味わう作品として非常に完成度が高い。『Cinema』は、The Maríasの初期EPで示された美学が、フル・アルバムという形式の中で最も自然に拡張された作品である。
全曲レビュー
1. Just a Feeling
「Just a Feeling」は、アルバムの幕開けとして非常に象徴的な楽曲である。タイトルは「ただの感覚」という意味を持ち、The Maríasの音楽全体に通じる、言葉になりきらない感情の曖昧さを示している。恋愛や記憶、別れの兆しは、はっきりした出来事として現れる前に、まず感覚として訪れる。この曲は、その不確かな感情の入口を静かに開く。
音楽的には、淡いシンセサイザー、柔らかなリズム、近い距離のヴォーカルが中心となり、アルバム全体の映画的な空間を準備する。大きな展開はなく、むしろ短い導入部のように機能する。聴き手は、ここで現実の時間から少し離れ、『Cinema』という作品の中へ入っていく。
マリアのヴォーカルは、最初から非常に親密である。彼女は感情を断定するのではなく、軽く触れるように歌う。そのため、曲は明確な宣言ではなく、予感として響く。アルバムが恋愛の物語や感情の連続である前に、まず「feeling」そのものから始まるという構成は、The Maríasらしい選択である。
「Just a Feeling」は短いながら、アルバムのトーンを決定づける。ここでは、強いドラマよりも、薄い膜のような空気、感情の兆し、夜が始まる直前の静けさが重要である。『Cinema』のオープニングとして、聴き手をゆっくりと映像的な音の世界へ誘導する楽曲である。
2. Calling U Back
「Calling U Back」は、アルバム序盤でThe Maríasのポップな魅力を明確に示す楽曲である。タイトルは「あなたに電話をかけ直す」という意味を持ち、現代的な恋愛における距離、連絡、未練、曖昧な関係性を象徴している。電話をかける、かけ直す、出ない、待つ。そのような小さな行為が、感情の大きな揺れにつながる。
音楽的には、軽やかなベースラインと滑らかなギター、抑えられたドラムが心地よいグルーヴを作る。The Maríasらしいラウンジ的な雰囲気は保たれているが、曲は比較的明るく、フックも分かりやすい。インディー・ポップとしての親しみやすさと、R&B的なメロウさが自然に融合している。
歌詞では、相手との関係を完全には断ち切れない感覚が描かれる。電話をかけ直すという行為は、未練であり、期待であり、同時に自分から関係を再び動かしてしまう危うさでもある。The Maríasの恋愛表現では、感情は常に曖昧で、愛しているのか、離れたいのか、相手を求めているのか、自分を守ろうとしているのかが簡単には分からない。この曲にもその曖昧さがある。
マリアの歌唱は、ここで軽やかでありながら、どこか距離を置いている。彼女は強い未練を叫ぶのではなく、少し冷静な表情で歌う。そのため、曲は感情的に重くなりすぎず、夜の街を歩きながら相手の番号を見つめているようなクールなムードを保っている。
「Calling U Back」は、『Cinema』の中でThe Maríasのポップ・センスをよく示す曲である。親しみやすいメロディと洗練されたグルーヴの中に、現代的な恋愛の連絡不全と未練をさりげなく描いている。
3. Hush
「Hush」は、『Cinema』の中でも特に強い印象を残す楽曲であり、The Maríasのクールで攻撃的な側面を示している。タイトルの「Hush」は「黙って」「静かにして」という意味を持ち、柔らかなバンド・イメージとは対照的に、拒絶や境界線の提示を含む言葉である。この曲では、The Maríasの官能性が単なる甘さではなく、冷たい強さを持つことが明確になる。
音楽的には、低音の効いたベースとタイトなビートが中心で、初期EPよりもよりシャープで現代的なプロダクションが感じられる。ギターやシンセは必要以上に広がらず、曲全体は引き締まっている。グルーヴは滑らかだが、そこには緊張がある。甘いラウンジ・ポップではなく、ダークでミニマルなオルタナティブR&Bにも近い質感である。
歌詞では、相手に対して黙るよう促す姿勢が描かれる。これは、恋愛や関係の中で自分の主導権を取り戻す言葉として機能する。The Maríasの楽曲では、相手に惹かれる感覚が多く描かれる一方で、「Hush」では相手の言葉や態度を遮断する力が表れる。ここでの語り手は、受け身ではない。
マリアのヴォーカルは、この曲で非常にクールである。彼女は怒鳴るのではなく、低い温度で相手を制する。その抑制がかえって強い圧力を生む。声は柔らかいが、内容は鋭い。このギャップが「Hush」の魅力である。
「Hush」は、『Cinema』の中で重要な転換点となる曲である。The Maríasがただ夢見心地で甘い音楽を作るバンドではなく、欲望、拒絶、支配、自己防衛を洗練されたポップとして表現できることを示している。
4. All I Really Want Is You
「All I Really Want Is You」は、タイトルが示す通り、非常に直接的なラブソングである。「本当に欲しいのはあなた」というシンプルな言葉は、The Maríasの中では珍しく感情を明確に表しているように見える。しかし、曲のムードは単純な告白ではなく、欲望と不安、甘さと影が混ざり合っている。
音楽的には、柔らかなギターとゆったりしたリズムが中心で、The Maríasらしいメロウな空気が広がる。初期の「Cariño」や「I Don’t Know You」に通じる、親密で穏やかなサウンドがある。音は非常に滑らかで、聴き手をゆっくりと引き込む。過度なドラマを避け、夜の部屋の中で静かに感情が膨らむような曲である。
歌詞では、相手への欲望が率直に語られる。ただし、「あなたが欲しい」という言葉は、安心した愛の表現であると同時に、相手が完全には手に入らないことを示す言葉でもある。欲しいと言わなければならない時点で、そこには欠落がある。この曲は、その欠落を甘いメロディの中に包んでいる。
マリアのヴォーカルは、ここで特に柔らかい。彼女の声は、相手に近づくようでありながら、少し夢の中から響くようでもある。欲望が直接的な言葉で歌われても、声の質感によって曲は過度に生々しくならず、幻想的なラブソングとして成立している。
「All I Really Want Is You」は、『Cinema』の中でThe Maríasのロマンティックな側面を最も分かりやすく示す楽曲である。シンプルな愛の言葉を、淡いサイケデリック・ソウルの質感で包み込んだ一曲である。
5. Hable con Ella
「Hable con Ella」は、スペイン語のタイトルを持つ短いインタールード的な楽曲であり、アルバムの映画的な構成を強める役割を持つ。タイトルは「彼女と話した」という意味であり、Pedro Almodóvarの映画『Hable con ella』を連想させる言葉でもある。The Maríasの作品において、映画的参照やスペイン語の響きは重要な要素であり、この曲はその美学を象徴している。
音楽的には、曲というよりも場面転換に近い。声、音の余白、短いフレーズによって、聴き手は別の部屋へ移動するような感覚を得る。『Cinema』というアルバム・タイトルを考えると、このような短い断片は、映画におけるカットや挿入ショットのように機能している。
スペイン語の響きは、アルバムに親密さと別の色彩を与える。The Maríasの音楽では、英語とスペイン語が単に切り替わるのではなく、感情の温度を変化させる。スペイン語の柔らかく丸い響きは、英語のクールさとは異なる、より内側に近い感覚をもたらす。
「Hable con Ella」は短いが、アルバム全体の流れにおいて重要である。ここで音楽はポップ・ソングの連続から一度離れ、映画的な空白を作る。この空白によって、次の楽曲群がより深いムードを持って響く。
6. Little by Little
「Little by Little」は、少しずつ変化していく感情や関係を描く楽曲である。タイトルの「少しずつ」という言葉は、The Maríasの音楽に非常に合っている。彼らの曲は大きな劇的転換よりも、微細な感情の変化、距離の変化、ムードの変化を重視する。この曲も、急激な爆発ではなく、ゆっくりと進む心の動きを表している。
音楽的には、柔らかなグルーヴと浮遊感のある音響が中心である。ベースは滑らかに動き、ドラムは控えめに曲を支え、ギターやシンセが淡い色彩を加える。The Maríasらしい余白のあるアンサンブルで、曲は軽く揺れながら進む。
歌詞では、関係が少しずつ変わっていく感覚が描かれる。愛が深まるのか、離れていくのか、完全には分からない。しかし、その変化は突然ではなく、日々の小さな違和感や期待の積み重ねとして起こる。The Maríasは、その微妙な感情の濃淡を音で表現することに長けている。
マリアのヴォーカルは、ここでも抑制されている。強く訴えるのではなく、感情をゆっくりと吐き出すように歌う。そのため、曲は非常に自然に流れ、聴き手は気づかないうちにムードの中へ沈んでいく。
「Little by Little」は、『Cinema』の中でThe Maríasの繊細なソングライティングを示す楽曲である。劇的な物語ではなく、少しずつ変わる関係の温度を、メロウなインディー・ポップとして表現している。
7. Heavy
「Heavy」は、『Cinema』の中でも特に内省的で、重い感情を扱う楽曲である。タイトルは「重い」という意味を持ち、心の重さ、身体の重さ、関係の重さ、感情の沈み込みを示している。The Maríasの音楽はしばしば軽やかで浮遊感があるが、この曲ではその浮遊感の裏にある重力が前面に出る。
音楽的には、ゆったりとしたテンポと低い温度の音作りが印象的である。曲は明るく開けることなく、沈んだムードの中で進む。シンセやギターはぼんやりと空間に広がり、リズムは控えめに脈打つ。音の余白が大きいため、マリアの声の寂しさがよく伝わる。
歌詞では、精神的な疲れや、何かに押しつぶされるような感覚が描かれる。The Maríasはこの重さを大げさに表現しない。むしろ、淡々と歌うことで、日常の中に沈んでいる憂鬱を表現する。感情の重さは、劇的な悲劇としてではなく、静かに続く状態として描かれる。
マリアのヴォーカルは、この曲で特に近く、脆い。彼女の声は大きく揺れないが、その抑制された響きの中に深い疲労がある。聴き手は、声の強さではなく、声の隙間に感情を感じ取ることになる。
「Heavy」は、『Cinema』の中で重要な影の部分を担う楽曲である。The Maríasの音楽が単なるチルな心地よさではなく、沈み込むような精神状態も表現できることを示している。
8. Un Millón
「Un Millón」は、スペイン語で「百万」を意味するタイトルを持つ楽曲であり、『Cinema』の中でも特にラテン的な色彩が鮮やかに表れた一曲である。The Maríasのバイリンガルな魅力が最も自然に発揮されており、甘さ、リズム、官能性が美しく結びついている。
音楽的には、柔らかなラテン・ポップ/ラウンジのグルーヴが中心である。リズムは軽やかで、ギターやベースの響きには温かみがある。過度に派手なラテン・ポップではなく、The Maríasらしくクールに抑制されたサウンドである。踊れるが、熱狂的ではない。身体をゆっくり揺らすような音楽である。
歌詞では、愛や欲望がスペイン語の響きによって甘く表現される。「Un Millón」という言葉は、相手への思いや感情の大きさを示す。英語で歌われる曲に比べ、スペイン語の曲ではマリアの声がより柔らかく、親密に響く。言語そのものが、楽曲の温度を変えている。
この曲の魅力は、The Maríasがラテン的な要素を自然に取り込んでいる点である。ラテン音楽を記号的に使うのではなく、自分たちの音楽の一部として鳴らしている。そのため、「Un Millón」はアルバムの中で異質に浮くことなく、むしろThe Maríasの本質の一つとして機能している。
「Un Millón」は、『Cinema』の中で最も甘く、軽やかな楽曲のひとつである。スペイン語の響き、メロウなグルーヴ、ラウンジ的な洗練が一体となり、The Maríasのバイリンガル・ポップとしての魅力を鮮やかに示している。
9. Spin Me Around
「Spin Me Around」は、相手に振り回される感覚、陶酔、回転、恋愛のめまいを描く楽曲である。タイトルは「私を回して」という意味を持ち、ダンスの動きであると同時に、感情が制御できなくなる状態を連想させる。The Maríasの恋愛表現における甘さと危うさがここにもある。
音楽的には、ゆったりとしたリズムと柔らかな音の層が特徴である。曲は激しく踊らせるのではなく、ゆっくりと回転するように進む。ベースとドラムは控えめにグルーヴを作り、ギターとシンセがその上に夢のような空間を重ねる。まさにタイトル通り、聴き手を軽く回転させるような音楽である。
歌詞では、相手に惹かれることで自分の感覚が揺らぐ様子が描かれる。恋愛は安定ではなく、方向感覚を失わせるものとして表れる。The Maríasは、その不安定さを苦痛だけでなく、甘い陶酔としても描く。この二面性が曲の魅力である。
マリアのヴォーカルは、ここで非常に滑らかで、少し夢見心地である。彼女の声は相手に身を任せるように響きながらも、どこか冷静な距離も保っている。完全に感情へ飲み込まれないクールさが、The Maríasらしさを保っている。
「Spin Me Around」は、『Cinema』の中で恋愛のめまいを柔らかく表現した楽曲である。音楽そのものがゆっくり回転し、聴き手をThe Maríasの夢のような空間へ引き込む。
10. The Mice Inside This Room
「The Mice Inside This Room」は、アルバムの中でも特に奇妙で、短編映画のようなタイトルを持つ楽曲である。「この部屋の中のネズミたち」という言葉は、閉ざされた空間、見えない気配、小さな不安、夜の静けさを連想させる。The Maríasの映画的な想像力が強く表れた曲である。
音楽的には、アンビエント的な質感や実験的な空気があり、通常のポップ・ソングというより、場面描写に近い。音は控えめで、空間の中に小さな気配が動いているように感じられる。アルバムの流れの中では、物語の中盤から終盤へ向かう不穏な幕間として機能している。
タイトルにあるネズミは、実際の動物であると同時に、心の中に潜む不安や、部屋の隅に隠れた記憶の象徴としても読める。恋愛や孤独の歌が続く中で、この曲はより心理的な空間を開く。部屋の中にいるのは自分と相手だけではなく、言葉にならない気配や過去も同居している。
マリアの声は、この曲で非常に幽霊的に響く。はっきりと前に出るというより、部屋の空気の中に溶けている。The Maríasの音楽において声はしばしば楽器の一部となるが、この曲では特にその性質が強い。
「The Mice Inside This Room」は、アルバムの中で実験的な余白を作る楽曲である。ポップなフックを求める曲ではなく、『Cinema』というタイトルにふさわしい、奇妙で静かな映像的場面として機能している。
11. To Say Hello
「To Say Hello」は、挨拶、再会、距離の確認をテーマにした短い楽曲である。タイトルは「こんにちはと言うために」という意味を持ち、非常に日常的でささやかな行為を示している。しかし、The Maríasの音楽において、こうした小さな行為はしばしば大きな感情の入口になる。
音楽的には、短く、控えめで、インタールードに近い性格を持つ。アルバム終盤に置かれることで、激しい感情の整理や場面転換の役割を果たしている。『Cinema』はフル・アルバムとして、こうした短い曲や断片を使いながら、映画の編集のように流れを作っている。
歌詞やタイトルから感じられるのは、誰かにもう一度声をかけることの難しさである。「こんにちは」と言うだけでも、過去の関係や未練、気まずさ、期待が含まれることがある。The Maríasは、そうした小さな接触の緊張を、短い音楽の中に置いている。
「To Say Hello」は目立つ曲ではないが、アルバムの空気を整える重要な断片である。The Maríasの映画的な構成感を支え、次の楽曲へ静かにつなぐ役割を持っている。
12. Fog as a Bullet
「Fog as a Bullet」は、タイトルからして非常に詩的で不穏な楽曲である。「弾丸としての霧」という表現は、柔らかく曖昧なものが、実は危険な力を持つことを示している。霧は視界を奪い、弾丸は身体を傷つける。この二つのイメージが結びつくことで、見えないまま傷つけられる感覚が生まれる。
音楽的には、アルバムの中でも暗く、浮遊感があり、不穏な質感を持つ。音はぼんやりと広がり、リズムははっきりとした推進力よりも、心理的な揺れを作る。The Maríasのサイケデリックな側面が強く表れており、聴き手は霧の中を歩くような感覚を得る。
歌詞では、関係の中で見えない痛みや、曖昧なまま迫ってくる感情が描かれているように響く。The Maríasの恋愛表現は、しばしば明確な出来事よりも、空気や気配を重視する。「Fog as a Bullet」は、その極端な形であり、見えないものがどのように人を傷つけるかを音で表現している。
マリアのヴォーカルは、霧の中に浮かぶように配置されている。声は近いが、完全にはつかめない。ここでは、声そのものが霧の一部であり、同時に弾丸のような痛みを持つ。柔らかさと危険が同時に存在する。
「Fog as a Bullet」は、『Cinema』の終盤に不穏な深みを与える楽曲である。美しいが安心できない音像によって、The Maríasのサイケデリックで心理的な側面を強く示している。
13. Talk to Her
「Talk to Her」は、タイトル通り「彼女に話しかけて」という意味を持つ楽曲であり、アルバム全体に流れる会話、沈黙、距離のテーマをまとめるような位置にある。『Cinema』には「Calling U Back」「Hable con Ella」「To Say Hello」など、誰かと連絡する、話す、呼びかけることに関わる曲名が多い。この曲はその流れの中で非常に重要である。
音楽的には、The Maríasらしい柔らかなグルーヴと、終盤らしい落ち着いたムードがある。曲は大きなクライマックスを作るというより、静かに感情を整理していく。声と楽器の距離は近く、聴き手は最後の場面に立ち会っているような感覚を得る。
歌詞では、直接的な会話の必要性が示される。関係の中で沈黙が続くと、誤解や距離は広がっていく。話すことは簡単なようでいて、最も難しい行為でもある。The Maríasの音楽は、しばしば沈黙や余白の美しさを描くが、この曲ではその沈黙を越えて相手に向かうことが示されている。
マリアのヴォーカルは、ここで穏やかでありながら、どこか切実である。彼女は強く迫るのではなく、静かに促すように歌う。その声には、もう遅いかもしれないという諦めと、それでも話すべきだという願いが同時にある。
「Talk to Her」は、『Cinema』の終盤にふさわしい楽曲である。恋愛や関係の中で曖昧にされてきた言葉を、最後にもう一度相手へ向ける。アルバム全体の会話と沈黙のテーマを静かに回収している。
総評
『Cinema』は、The Maríasの初フル・アルバムとして、バンドの美学を最も明確に拡張した作品である。『Superclean Vol. I』『Superclean Vol. II』で示されたクリーンでメロウなインディー・ポップ、英語とスペイン語を行き来するヴォーカル、ラウンジ的なムード、夜の空気、恋愛の曖昧さが、本作ではより大きな構成と映画的な流れを持って提示されている。
本作の最大の魅力は、アルバム全体が一つの映像体験として設計されている点である。曲ごとに独立したポップ・ソングとして聴ける一方で、短いインタールードや場面転換的な楽曲が配置され、全体として夜の映画のような質感を持つ。『Cinema』というタイトルは単なる飾りではなく、音の作り方、曲順、言語の使い方、ヴォーカルの距離感にまで反映されている。
音楽的には、The Maríasのサウンドは非常に洗練されている。ベースは丸く、ドラムは控えめながら正確で、ギターは柔らかく、シンセサイザーは薄く空間を彩る。音数は多すぎず、各楽器が余白を残して配置されている。そのため、曲は過密にならず、聴き手は音の隙間に入り込むことができる。これはThe Maríasの大きな特徴であり、現代のチルなインディー・ポップの中でも特に完成度が高い。
マリア・ザルドヤのヴォーカルは、本作の中心である。彼女の声は派手に技巧を誇示しないが、その抑制によって強い存在感を持つ。囁くようでいて冷たく、官能的でありながら距離があり、英語ではクールに、スペイン語ではより親密に響く。この声の使い分けが、『Cinema』の色彩を豊かにしている。The Maríasの音楽において、ヴォーカルは感情を説明するものではなく、空間を作る要素でもある。
歌詞のテーマは、恋愛と距離である。電話をかけ直すこと、黙らせること、相手を欲しがること、話しかけること、挨拶すること、沈黙すること。『Cinema』には、コミュニケーションに関するモチーフが多く登場する。これは、現代の恋愛が言葉、連絡、既読、沈黙、距離によって成り立っていることを示している。The Maríasはそれを説明的に描くのではなく、ムードとして表現する。
また、本作では英語とスペイン語の使い分けが非常に重要である。「Un Millón」や「Hable con Ella」のような楽曲では、スペイン語が単なるアクセントではなく、感情の質を変えるものとして機能している。The Maríasのバイリンガル性は、ジャンル的な特徴であるだけでなく、感情の複数性を表す方法でもある。言語が変わることで、距離、甘さ、親密さ、記憶の響きが変化する。
『Cinema』は、派手なアルバムではない。強烈なサビや大きなロック的爆発を求める作品ではなく、細部の音色、声の温度、曲間の余白、夜のムードを味わう作品である。そのため、何度も聴くことで魅力が増していく。最初は滑らかで心地よいアルバムとして聴こえるが、聴き込むほど、恋愛の不安、精神的な重さ、言葉にならない沈黙が見えてくる。
日本のリスナーにとっては、シティポップ、ラウンジ、ネオソウル、ドリーム・ポップ、ボサノヴァ的な雰囲気に親しんでいる場合、非常に自然に受け入れやすい作品である。特に、音の余白や夜のムードを重視するリスナーには深く響くだろう。The Maríasは、強い主張よりも、感覚の精度によって聴き手を引き込むバンドである。
総じて『Cinema』は、The Maríasが初期EPの魅力をフル・アルバムへと見事に拡張した作品である。クリーンでありながら湿度があり、甘くありながら冷たく、レトロでありながら現代的で、英語とスペイン語が自然に交差する。一本の映画のように、愛、沈黙、欲望、孤独、夢の断片が連なっていく。The Maríasの代表作として、2020年代インディー・ポップの重要な一枚である。
おすすめアルバム
1. The Marías – Superclean Vol. I(2017)
The MaríasのデビューEPであり、「I Don’t Know You」「Only in My Dreams」などを収録した初期重要作。『Cinema』に比べるとより素朴で淡い音像だが、バンドの核となるドリーム・ポップ、ラウンジ、バイリンガルな感性がすでに明確に表れている。
2. The Marías – Superclean Vol. II(2018)
『Superclean Vol. I』に続くEPで、「Ruthless」「Cariño」「Over the Moon」などを収録。『Cinema』の前段階として、よりグルーヴが明確になり、楽曲ごとのキャラクターも強まっている。初期The Maríasの完成形に近い作品である。
3. Kali Uchis – Isolation(2018)
ラテン、R&B、ソウル、ファンク、ポップを横断する現代的な名作。The Maríasと同じく、英語とスペイン語を自然に行き来し、レトロな音楽性を現代的なプロダクションで再構築している。『Cinema』の官能的でバイリンガルなポップ感覚と強く響き合う。
4. Men I Trust – Oncle Jazz(2019)
柔らかなベースライン、抑制されたヴォーカル、チルなインディー・ポップの質感が魅力のアルバム。The Maríasよりもさらに淡くミニマルだが、夜に聴くメロウな音像、余白のあるアンサンブルという点で親和性が高い。
5. Crumb – Jinx(2019)
サイケデリック・ポップ、ジャズ、インディー・ロックを融合した作品。The Maríasよりも不穏で実験的な質感を持つが、浮遊感のあるヴォーカル、柔らかなグルーヴ、夢の中のようなサウンドに共通点がある。『Cinema』のサイケデリックな側面を深めて聴くための関連作である。

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