
発売日: 2009年2月4日
ジャンル: シンセ・ポップ、エレクトロ・ポップ、オルタナティヴ・ポップ、アコースティック・ポップ
概要
『It’s Not Me, It’s You』は、リリー・アレンが2009年に発表した2作目のスタジオ・アルバムであり、“ポップ・アイドル”から“シリアスな作詞家”へと進化した彼女の野心が、華やかかつ毒々しく結実した作品である。
デビュー作『Alright, Still』がレゲエやスカといったオーガニックな音作りに支えられていたのに対し、本作ではGreg Kurstin(ザ・バード・アンド・ザ・ビー)とのタッグにより、
より洗練されたシンセ・ポップ~80s風エレクトロのテクスチャーへと移行。
しかし、音がポップになればなるほど、歌詞の棘は鋭さを増し、
恋愛、性、薬物、家族、宗教、政治、そして自意識に至るまで――すべてを軽やかに、しかし真顔で射抜いていくリリックが並ぶ。
**「見た目はキュート、中身は猛毒」**というスタイルが、ここで一つの完成形を迎えたと言ってよい。
UKチャートで初登場1位を獲得し、以降の女性ポップ・アーティストたちに決定的な影響を与えたアルバムである。
全曲レビュー
1. Everyone’s at It
薬物問題をテーマにしたアルバムの幕開け。
「みんなやってるじゃん?」という軽妙なフレーズに隠された、薬物乱用の社会的偽善への鋭い皮肉が光る。
シンセ主体のミドルテンポで、“社会派ディスコ”という新境地を切り開く。
2. The Fear
空虚な物質主義と自己承認欲求のループをテーマにした代表曲。
「金と名声が欲しい」「でも怖い」――インスタ時代を先取りした自己批評の金字塔。
キラキラしたポップ・サウンドとの対比が見事。
3. Not Fair
カントリー調のギターリフに乗せて、“セックスは最高じゃないと意味ない”と歌い放つ。
その裏にあるのは、女性の性的欲望と失望の正当な主張。
MVの60年代風演出も含め、ポップ史における異色のフェミニズム賛歌。
4. 22
「22歳はもう若くない」と言われる女性の悲哀を描く。
切実なテーマを、淡々と、しかし優しく歌い上げる視点の高さが印象的。
女性のライフコースを取り巻く“見えない圧力”を象徴する1曲。
5. I Could Say
元恋人への心残りと未練を、チルで柔らかなサウンドに包み込んだエレクトロ・バラード。
感情を爆発させず、“言わないことで伝える”という成熟した表現が際立つ。
6. Back to the Start
家族、特に姉との関係修復をテーマにした爽やかなポップ・ナンバー。
“謝りたいけど、どうすれば?”という不器用さに共感を誘う。
7. Never Gonna Happen
恋の駆け引きと冷静な自己分析を描いた一曲。
ラテン・ポップ風のリズムで、“軽やかな諦め”を踊るように表現する。
8. Fuck You
ブッシュ政権や差別主義者への痛快なアンチ・アンセム。
**「愛と笑顔で“くたばれ”を言う」**という姿勢は、ユーモアと抵抗の理想形。
ピアノポップの軽快さと、歌詞の毒が絶妙に共鳴。
9. Who’d Have Known
“つきあってみたら意外とハマった”というゆるい恋愛を綴ったバラード。
Take Thatの「Shine」を下敷きにした美しいメロディと、愛の自然発生を描く視点が愛おしい。
10. Chinese
「今夜は中華でも食べて、テレビを観よう」という、ごく日常の幸せを描く一曲。
そのささやかさに、“完璧じゃない愛のかたち”が息づいている。
11. Him
“もし神様がいたら、ゲイを嫌うだろうか?”という問いかけから始まる宗教観の探求。
柔らかなピアノに乗せて、社会の二項対立への疑念をそっと投げかける。
12. He Wasn’t There
ジャズ風のサウンドで綴る、父への想い。
語られなかったこと、存在しなかった関係性を、肯定でも否定でもなく、受け止めるという静かな強さがある。
総評
『It’s Not Me, It’s You』は、リリー・アレンが“鋭い観察者”としての才能を全面に押し出しながら、ポップ・ソングのフォーマットを使って日常・政治・社会・心情を等価に語った稀有なアルバムである。
彼女の真骨頂は、“怒り”や“迷い”を、ユーモアと旋律によって日常に溶かし込むことにある。
そしてその作業を、スラングではなく“話し言葉”で、ラップではなく“歌”で届けるという新たな手法で行った点が画期的だった。
ポストAmy Winehouse時代のUKで、**自己破壊にも耽溺にも向かわず、毒を笑いに変えてサバイブする“賢い女の自己主張”**を提示した本作は、
その後のLordeやBillie Eilish、さらには日本のあいみょんやYOASOBIにも通じる、
“等身大のリアルを詩とポップで描く”表現の起点となったと言える。
おすすめアルバム(5枚)
- Lorde『Melodrama』
自己分析とポップ表現の融合。内面の複雑さを大胆に描いたアルバム。 - Marina and the Diamonds『Electra Heart』
フェイクな自己像と現実のギャップをテーマにしたコンセプト・ポップ。 - Kate Nash『Girl Talk』
パンク以降のガーリズムとDIY精神が詰まった、攻撃的かつ正直な1枚。 - Charli XCX『Sucker』
ポップ・アグレッションと社会批評を融合させた、破壊的エレクトロ・ポップ。 - Regina Spektor『Far』
ユダヤ系女性SSWによる、神と愛と違和感を静かに歌ったピアノ・ポップ集。
歌詞の深読みと文化的背景
『It’s Not Me, It’s You』は、**2000年代後半のポスト・フェミニズム的文脈を背景に、ポップ・ソングで語りにくかったテーマを次々に扱った“静かな革命”**である。
「The Fear」ではSNS以後の承認欲求と女性像の歪みを先取りし、
「Not Fair」ではセクシャルな不均衡への怒りを笑いに包みながら発信。
「Him」では宗教観と性、社会的道徳を問い直し、
「Chinese」や「He Wasn’t There」では、完璧でない関係性を肯定的に受け入れる視点を提示する。
これらの曲に共通するのは、“断罪”ではなく“自覚”の姿勢。
リリー・アレンは、自分の痛みや他者の問題を笑いと美しさで“届ける”ことの倫理と強さを持った表現者なのである。
『It’s Not Me, It’s You』――
それは、**“あなたのせいじゃない、でも私のせいでもない”**と歌いながら、
この時代のすべての矛盾と共に生きる私たちのためのポップ・アルバムなのだ。
コメント