
発売日: 1990年11月13日
ジャンル: ハードロック、インダストリアル・ロック、ポストパンク、ゴシック・ロック
『Vision Thing』は、The Sisters of Mercyが1990年に発表した3作目のスタジオ・アルバムであり、
エレガントなゴシック・ロックから一転、政治批判とアメリカ文化への皮肉を帯びたハードなロック作品へと転化した異色の一枚である。
タイトルの「Vision Thing」とは、当時アメリカ大統領だったジョージ・H・W・ブッシュが口にした曖昧な政治スローガンを皮肉ったもので、
このアルバムはエルドリッチの反米・反権力的視線を軸に据えた、最も社会的メッセージ色の強い作品となっている。
音楽面では、前作『Floodland』の壮麗なシンフォニック性を脱ぎ捨て、
ギター中心のハードでドライなアンサンブルへとシフト。
リズムは引き続きドラムマシン“Doktor Avalanche”が担いつつ、よりロック寄りで骨太なサウンドが展開されており、
それはエルドリッチのボーカルと歌詞にさらなる“鋼鉄の説得力”を与えている。
ゴシックな耽美から一歩引き、社会風刺と暴力性を強めたこの作品は、
The Sisters of Mercyの中でも最も“異端”でありながら、90年代的な重層的ロックの先取りとしても再評価されるべきアルバムである。
全曲レビュー
1. Vision Thing
冒頭からアメリカン・ハードロック風のギターリフが炸裂するタイトル曲。
“1990年の地獄”を描くような歌詞で、エルドリッチが自らの政治的立場を皮肉たっぷりに提示する。
まるでブラックレザーに身を包んだ預言者のように、彼は“お前の夢は誰の夢だ?”と問いかける。
2. Ribbons
激情的なギターとミッドテンポのビートが支配するナンバー。
“目の前にあるものがすべてではない”という哲学的な暗喩が込められた歌詞は、
神話的ヴィジュアルと暴力の詩学が交錯する。
3. Detonation Boulevard
サイレンのようなギターと不穏なリズムで展開する、近未来的都市の崩壊図。
“爆風通り”という比喩のもとに、退廃と快楽主義が共存するサウンドトラックのような一曲。
4. Something Fast
アルバム中で唯一、アコースティック・ギターを中心とした静かなバラード。
“何か速いものがほしい”という切実な願望が、逃避と救済の両方として機能している。
夜の都市にぽつりと残された魂の独白のよう。
5. When You Don’t See Me
ドライでメロディアスなギターが印象的なポップ寄りのロックナンバー。
だが歌詞には「見えないからといって、いないとは限らない」というゴシックな存在論が潜む。
まるで亡霊のように愛と怒りが漂う。
6. Dr Jeep
インダストリアル風のギターとメカニカルなビートが光る攻撃的ナンバー。
タイトルの“Dr Jeep”はアメリカ軍産複合体の象徴とされ、兵器と女性性が奇妙に混ざり合ったメタファーが登場。
エルドリッチの政治的反逆精神が全開のトラック。
7. More
『Floodland』時代の壮大さを部分的に受け継いだ唯一の楽曲。
ジム・スタインマン(Meat Loafのプロデューサー)による共作で、
“もっと、もっと”という欲望と喪失を歌い上げる壮麗なアンセム。
ゴシック・バロックとヘヴィ・ロックの融合とも言えるスケール感。
8. I Was Wrong
締めくくりを飾るメランコリックなミッドテンポのロック・バラード。
「俺は間違っていた」と自省的に語る歌詞が、アルバム全体の皮肉と怒りを静かに回収していく。
エルドリッチの声が、ここでは初めて“人間の弱さ”として聴こえる。
総評
『Vision Thing』は、The Sisters of Mercyというバンドが、耽美の殻を破り、現実と対峙する鋼のゴスロックへと変貌した記録である。
エルドリッチの詩的かつ政治的なリリックは、もはや神秘主義や内面世界にとどまらず、
アメリカ的価値観、冷戦後の世界秩序、メディア構造といった“現代性の矛盾”へと鋭く切り込んでいる。
その一方で、サウンド面ではクラブ寄りではなく、むしろハードロックやヘヴィ・ロック的な肉体性を獲得し、
これまでの“ゴシックは観念”という構図に“痛みと拳”を与えたことは重要である。
『Floodland』が都市の終末を讃美歌として描いたとすれば、
『Vision Thing』はその瓦礫の上で叫ぶ“鋼鉄の説教”であり、
90年代以降のゴス、インダストリアル、さらにはメタルにまで繋がる美学の更新だったのだ。
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