発売日: 2020年9月4日
ジャンル: トリップホップ、ミニマル・エレクトロニカ、エクスペリメンタル・ポップ
概要
『Fall to Pieces』は、Trickyが2020年にリリースした13作目のスタジオ・アルバムであり、彼自身の人生における最も深い喪失――娘Mina Mazyの死――と向き合った、最も私的で、最も沈黙に近い作品である。
タイトルの「Fall to Pieces（バラバラに崩れる）」という言葉は、文字通りTrickyの内面状態を映し出しており、
本作は悲しみと絶望の“その先”を模索するような、音楽というよりも呼吸や祈りに近い時間を刻んでいる。
サウンドは極限まで削ぎ落とされ、ミニマルなビート、断片的なメロディ、そしてポーランド人ヴォーカリスト Marta Złakowska の静謐な歌声を中心に展開される。
Tricky本人はほとんど“後景”に回り、音楽というメディウムを通して自らの痛みをそっと差し出すような姿勢が際立つ。
わずか30分ほどの短さながら、その濃度と余白の美しさにおいて、キャリアの中でも最も強烈な印象を残すアルバムである。
全曲レビュー
1. Thinking Of
Martaの薄氷のような歌声が、ピアノとビートに乗って揺れる。
「あなたのことを考えている」――その一言が、すべての始まりであり、終わりでもある。
2. Close Now
わずか1分台の短編トラック。
距離と時間が溶け合い、近づいたと思った瞬間にまた遠ざかる。愛と喪失の感覚が凝縮されている。
3. Running Off
ざらついたビートと囁く声が交差する、不安定な精神のスナップショット。
“逃げ出す”ことへの憧れと、それができない現実の狭間を描く。
4. I’m In The Doorway
オルタナティヴR&B的なスムースさと、不穏なコード感が交差する一曲。
感情の入口に立つ、という象徴的な位置づけが示される。
5. Hate This Pain
アルバムの中核をなす、Tricky自身による沈んだ語りが印象的な楽曲。
娘の死を直接的に言及した唯一の曲であり、その痛みの深さが淡々と、しかし重く響く。
6. Chills Me To The Bone
Martaの声が、凍てついた空気のように響く短編トラック。
「骨まで冷える」という表現が、感情の麻痺と孤立を強調する。
7. Fall Please
本作中、最も“キャッチー”でビート感のあるナンバー。
とはいえその背後には「落ちてしまいたい（Fall Please）」という深い絶望が潜んでいる。
8. Take Me Shopping
一見平凡なフレーズに込められた、「日常」を希求する願い。
買い物という行為が、喪失後の“生活を続けるという儀式”として提示される。
9. Like A Stone
まるで石のように感情を閉ざした存在を、Martaが柔らかく、しかし冷ややかに表現する。
Trickyらしい、物質的比喩と心理の重ね合わせが印象的。
10. Throws Me Around
「私をかき乱す」というフレーズが反復され、喪失によって揺らぐ自己が描かれる。
抑制されたリズムの中に、心のうねりが込められている。
11. Vietnam
ラストを飾るのは、短くも印象的な一曲。
ベトナム戦争ではなく、個人の内部にある“終わらない戦争”のメタファーとして聴くことができる。
総評
『Fall to Pieces』は、Trickyというアーティストが音楽という表現を通して“悲しみの静けさ”を刻んだ、葬送のようなアルバムである。
ここには怒りも反抗もない。
ただ、痛みを共有するために差し出された、音のかけらと沈黙の間がある。
Marta Złakowskaの透明な声は、亡霊のようでもあり、導き手のようでもあり、
Trickyの言葉にならない感情を、そっと代弁しているようにも聴こえる。
また、パンデミックと社会的孤立の時代にあって、本作は“個人の喪失と世界の不安”が共鳴する作品としても深く響く。
『Maxinquaye』のような革新性や、『Pre-Millennium Tension』の攻撃性はここにはない。
だが、このアルバムが放つ静かな光と暗さは、人生そのものの不可解さに寄り添う“最も人間的なTricky”の姿を映している。
おすすめアルバム
- Nick Cave & The Bad Seeds / Skeleton Tree
個人的喪失と音楽の儀式化というテーマで強く共鳴。 - Mount Eerie / A Crow Looked at Me
死を語ることの不可能性を、そのまま音楽に変えた痛切な記録。 - Low / Double Negative
沈黙とノイズ、抑制された情念の極限を提示した静謐な実験作。 - Fennesz / Endless Summer
壊れた音像の中に感情を封じ込めた、アンビエントの名作。 - Grouper / Ruins
ピアノと声だけで描かれる孤独と記憶の断片。
歌詞の深読みと文化的背景
『Fall to Pieces』の歌詞は、言葉としての完成度よりも“語れなさ”そのものを伝えるための媒体として機能している。
「Hate This Pain」では、Trickyが娘の死に直面し、
「痛みを嫌いながら、それでもそれを忘れたくない」という、矛盾した喪の感情が浮き彫りとなる。
また、「Take Me Shopping」や「Like A Stone」といった日常的なイメージは、
喪失の中で日常を取り戻そうとする行為＝再生の予兆として読み解くこともできる。
背景として重要なのは、本作がパンデミック下でのリリースであったこと。
世界中が孤立し、痛みを共有する方法を失ったこの時期において、
Trickyの“囁き”はある種の救済として作用したのかもしれない。
『Fall to Pieces』は、「音楽とは痛みの空白をなぞるものなのだ」と静かに告げる祈りのような作品である。
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