
発売日: 2021年6月25日
ジャンル: エクスペリメンタルソウル、サイケデリックポップ、アンビエントR&B
概要
『Fatigue』は、ブルックリンのアーティスト、L’Rain(本名:Taja Cheek)が2021年に発表したセカンドアルバムであり、悲しみ、喜び、怒り、再生という複雑な感情を緻密に織り上げた意欲作である。
デビュー作『L’Rain』に続き、ジャンルを越境するサウンドアプローチはさらに深化。
ソウル、アンビエント、エクスペリメンタルポップ、ジャズ、フィールドレコーディングを自在に横断しながら、
極めて個人的な体験を普遍的な物語へと昇華している。
『Fatigue』というタイトルが示すように、本作は精神的・肉体的な”疲弊”を出発点としながら、
その疲労を認め、そこから再生へと向かうプロセスを描いている。
2020年代初頭の社会情勢──パンデミック、人種問題、政治的不安定さ──も背景にあり、
個人の感情と社会的現実が交錯する、鋭くも優しいアルバムとなっている。
リリース直後から各メディアで絶賛され、Pitchforkの「Best New Music」に選ばれるなど、
L’Rainのアーティストとしての地位を決定づけた作品である。
全曲レビュー
1. Fly, Die
フィールドレコーディング音と、ささやくようなボーカルで幕を開ける。
生と死、飛翔と墜落という二極のテーマを暗示する短いイントロダクション。
2. Find It
重層的なコーラスと、ずっしりとしたベースラインが特徴。
「探し続けること」をテーマに、不安と希望を織り交ぜた歌詞が胸に迫る。
3. Round Sun
温かなギターリフと、エフェクトのかかったボーカルが、陽だまりのような安心感をもたらす。
一方で、その裏には微かな哀しみも潜んでいる。
4. Blame Me
切実な感情を、ミニマルなサウンドで研ぎ澄ました一曲。
自己責任論への疑問や、他者との関係における苦悩がテーマになっている。
5. Black Clap
突如現れるポエトリーリーディング調の楽曲。
アフロディアスポラ文化への敬意と、ブラックコミュニティに対する連帯を強く感じさせる。
6. Suck Teeth
アルバムのハイライトのひとつ。
不満や苛立ちを「チッ」という歯吸い音(suck teeth)で表現する文化的背景を巧みに引用し、
抑えきれない怒りを静かに、しかし強烈に伝える。
7. Love Her
わずか30秒ほどの短いインタールード。
タイトルに反して、どこか切ない空気が漂う。
8. Kill Self
破壊的な衝動と、それに抗う希望が交錯する、緊張感あふれるトラック。
ディストーションギターとフィードバック音が混じり合う、エクスペリメンタルな一曲だ。
9. Need Be
静けさと美しさが共存するバラード。
「必要なものはすべて、すでに自分の中にある」というメッセージが柔らかく響く。
10. Walk Through
アコースティックギター主体のシンプルな楽曲。
傷ついたまま歩き続ける強さと孤独を、淡々と描き出している。
11. Two Face
不安定なリズムとサイケデリックなシンセが印象的。
人間関係における裏切りや、自己分裂をテーマにしている。
12. Take Two
どこかジャジーな質感を持つ短いインタールード。
「やり直し」や「再生」を示唆する静かな祈りのようなトラック。
13. I V
アルバム終盤の大きなピーク。
重層的なハーモニーと、感情の爆発が交錯し、聴く者を深い感情の渦へと引き込む。
14. Needed It
ラストを飾る、美しくも穏やかなエピローグ。
“痛みも疲れも、すべてが必要だった”──そんな受容のメッセージが、優しく響く。
総評
『Fatigue』は、単なるコンセプトアルバムではない。
これは、Taja Cheekという一人の人間が、自身の経験と社会の現実を織り交ぜながら、
“疲労”という普遍的な感情を静かに、しかし力強く描き切った叙事詩なのである。
サウンドの面では、ソウル、アンビエント、ポストロック、ヒップホップ、実験音楽を縦横無尽に行き来しながら、
それらを単なるパッチワークに終わらせず、一つの流れるような叙情へとまとめ上げている。
歌詞は断片的でありながら、聴き進めるごとに浮かび上がるテーマ──
自己受容、連帯、愛、怒り、癒し──が、静かなストーリーラインを形成していく。
この作品の最大の魅力は、”癒されること”だけを目的とせず、
“癒されないことさえ受け入れる”ような、誠実で深いまなざしにある。
『Fatigue』は、静かな革命のようなアルバムだ。
傷つき、疲れ、しかしまだ歩き続けるすべての人に、そっと寄り添う力を持っている。
おすすめアルバム(5枚)
- Moor Mother『Analog Fluids of Sonic Black Holes』
ブラックカルチャーと実験音楽の融合という点で強い共鳴がある。 - Tirzah『Colourgrade』
ミニマルでありながら深い感情を呼び起こす音楽性が近い。 - Jamila Woods『HEAVN』
ブラック・フェミニズム的な視点と、ソウルフルな表現が重なる。 - Adrianne Lenker『songs』
内省的なテーマを、親密な音像で表現する姿勢に共通点がある。 - Solange『When I Get Home』
ポストR&B的アプローチと、アート性の高い構成が響き合う。
歌詞の深読みと文化的背景
『Fatigue』の多くの楽曲に見られるのは、”ブラック・アメリカンの身体性”と”疲労”の密接な関係性である。
Cheekは、個人的な疲弊感だけでなく、歴史的・社会的な背景におけるブラックコミュニティの重荷──
日々の差別、抑圧、過剰な期待──にも意識を向けている。
それゆえ、本作は単なる個人の苦悩の記録ではない。
集合的な痛みと、そこから立ち上がる小さな連帯の物語でもある。
また、”suck teeth”といった文化的コードの使用や、フィールドレコーディングを取り入れたサウンドデザインによって、
個人的な記憶と社会的記憶が有機的に織り交ぜられている点が、本作に独特のリアリティと重層性を与えているのだ。
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