
発売日:2019年8月9日
ジャンル:インディーフォーク、エクスペリメンタル・ポップ、アートポップ、エレクトロニカ、アンビエント、オルタナティヴR&B
概要
Bon Iverの4作目となるアルバム『i,i』は、Justin Vernonによるプロジェクトが、孤独なインディーフォークから共同体的な実験ポップへと到達したことを示す作品である。デビュー作『For Emma, Forever Ago』(2007年/2008年再発)が、ウィスコンシンの森の小屋で録音された内省と喪失のアルバムだったとすれば、2作目『Bon Iver, Bon Iver』(2011年)は、その孤独な声を広大な地理的・音響的風景へと拡張した作品だった。そして3作目『22, A Million』(2016年)では、声の断片化、電子処理、記号的なタイトル、サンプリング、宗教的・数学的なイメージが前面化し、Bon Iverはフォークの枠組みを大きく解体した。『i,i』は、その解体の後に生まれた、より開かれた統合のアルバムである。
タイトルの『i,i』は、非常に簡潔でありながら多義的である。“I”は英語の一人称単数であり、自己を意味する。しかし、それが二つ並ぶことで、単独の自我ではなく、反復、対話、分裂、共鳴、複数の自己を示すように響く。また小文字の“i”が使われている点も重要である。大文字の“I”が強い自我や主体を示すとすれば、小文字の“i”はより柔らかく、他者や共同体の中に置かれた自己を思わせる。『i,i』は、孤独な「私」のアルバムではなく、複数の声、複数の記憶、複数の関係の中で揺れる「私たちの中の私」を描いた作品である。
本作の大きな特徴は、Bon Iverがこれまでに獲得してきた要素が、より自然な形で共存している点にある。『For Emma, Forever Ago』のフォーク的な親密さ、『Bon Iver, Bon Iver』の広いアンサンブル、『22, A Million』の電子的な実験性、そしてJustin VernonがKanye West、James Blake、Francis and the Lights、The National周辺などとの共同作業を通して深めてきた声と音響への関心が、本作では一つの有機的な流れとして結びついている。
音楽的には、アコースティック・ギター、ピアノ、ホーン、シンセサイザー、電子処理されたヴォーカル、サンプリング、ゴスペル的なコーラス、断片的なビートが複雑に重なり合う。しかし『22, A Million』ほど尖った解体感はなく、全体としてはより温かく、柔らかく、共同体的である。Bon Iverの音楽において声は常に中心にあったが、本作ではJustin Vernon一人の声だけでなく、多くの参加者の声が重なり、個人の内面を超えた合唱的な空間が作られている。
アルバムの制作背景としても、『i,i』は共同制作の色が濃い。Brad Cook、Chris Messina、Jenn Wasner、Rob Moose、James Blake、Moses Sumney、Bruce Hornsby、Aaron Dessnerなど、Bon Iver周辺の広い音楽的ネットワークが関わり、作品全体は一人の孤独な告白ではなく、多人数による音楽的対話として成立している。これはBon Iverのキャリアにおいて重要な変化である。初期のBon Iverは、孤独な環境から生まれた声の音楽だった。しかし『i,i』では、孤独は消えないまま、他者の声と接続される。そこに本作の大きな意義がある。
季節のイメージで言えば、Justin VernonはBon Iverの作品群を季節と結びつけて語られることがある。『For Emma, Forever Ago』は冬、『Bon Iver, Bon Iver』は春、『22, A Million』は夏、そして『i,i』は秋のアルバムとして捉えられることが多い。秋は、成熟、収穫、変化、終わりの気配、そして次の冬への準備の季節である。本作にも、そうした成熟した光と影がある。音は温かいが、どこか寂しい。声は開かれているが、過去の傷や世界への不安は残っている。希望はあるが、それは無邪気なものではなく、痛みや矛盾を知った後の希望である。
歌詞の面では、Bon Iverらしく断片的で、明確な物語を語ることは少ない。しかし、信仰、共同体、身体、政治的な不安、愛、時間、自己の分裂、赦し、再生といったテーマが浮かび上がる。『22, A Million』では言葉が記号のように切断され、暗号化されていたが、『i,i』ではその抽象性を保ちながらも、より人間的で温度のある表現へと向かっている。言葉は完全に説明されないが、声と音響によって感情の輪郭が伝わる。このバランスこそが、本作の大きな魅力である。
2010年代後半の音楽シーンにおいて、『i,i』はジャンルを越えたインディー・ポップの一つの到達点といえる。フォーク、R&B、ゴスペル、エレクトロニカ、アンビエント、アートロック、ポップが自然に混ざり合い、どれか一つのジャンルに還元できない。Bon Iverは本作で、孤独なシンガーソングライターから、現代音楽的な感覚を持つコレクティヴへと完全に変貌した。その意味で『i,i』は、Bon Iverのディスコグラフィーにおける総合的な作品であり、2010年代の終わりにおけるインディー音楽の複雑な姿を映し出すアルバムである。
全曲レビュー
1. Yi
オープニングの「Yi」は、短い音響的イントロでありながら、『i,i』というアルバムの入口として重要な役割を果たしている。曲というより、断片、会話、空気の記録に近い。Bon Iverの作品では、アルバムの冒頭に置かれる音が、作品全体の空間を決定づけることが多いが、「Yi」もまさにその役割を担っている。
この短いトラックには、明確なメロディや伝統的な歌の構造はない。代わりに、声の断片、環境音的な響き、録音された場の気配が配置される。これは『22, A Million』以降のBon Iverに顕著な手法であり、アルバムを単なる楽曲集ではなく、音の空間として提示する方法である。
タイトルの「Yi」は、東洋的な響きや、音節としての抽象性を持っている。意味を固定するよりも、音の感触そのものが重要である。『i,i』全体が、明確な主語や物語ではなく、声と音の交差によって自己を描く作品であることを考えると、この導入は非常に象徴的である。
「Yi」は、聴き手をすぐに歌の世界へ導くのではなく、まずアルバムの空気に触れさせる。ここでは、音楽が始まる前の呼吸や、誰かが部屋に入ってくる気配のようなものが提示される。その曖昧な始まりによって、『i,i』は最初から開かれた共同体的な場として立ち上がる。
2. iMi
「iMi」は、本作の実質的なオープニング曲であり、『i,i』の音楽的な特徴を一気に示す重要曲である。タイトルの「iMi」は、左右対称のようにも見え、自己と他者、個人と反射、内側と外側が向かい合う構造を思わせる。『i,i』というアルバムのタイトルとも強く響き合い、自己が単独ではなく、他者や音の中で反射される存在であることを示している。
音楽的には、断片的なビート、柔らかなシンセサイザー、複数のヴォーカル、サンプリング的な音の配置が重なり合う。曲は一つの明確なリフやコード進行だけで進むのではなく、音の断片が集まり、少しずつ形を成していく。『22, A Million』の実験性を受け継ぎながらも、ここでは音の角が丸くなり、より温かい合唱的な質感がある。
Justin Vernonの声は、加工されながらも人間的な感触を失っていない。むしろ、声が複数の層に分かれることで、個人の内面が多声的に表現される。Bon Iverにおけるヴォーカル加工は、単に未来的な音を作るための技術ではなく、自己が一つではないことを示す表現手段である。この曲では、それが非常に自然に機能している。
歌詞は断片的で、意味を一つに固定することは難しい。しかし、そこには変化、回復、自己の揺らぎ、誰かとの関係の中で自分を測り直す感覚がある。「iMi」は、アルバム全体のテーマである、個人と共同体、孤独と接続、傷と再生を音として提示する楽曲である。
3. We
「We」は、タイトルそのものが本作の核心を示している。『i,i』が単独の“I”ではなく、複数の“i”の関係を描くアルバムであるなら、「We」はその思想を最も直接的に表す曲名である。Bon Iverの初期作品が孤独な個人の声を中心としていたことを考えると、この「We」という言葉は非常に重要な変化を示している。
音楽的には、低くうねるベース、硬質なリズム、電子音、そして重なり合う声が特徴である。曲にはどこか政治的、社会的な緊張があり、単なる個人的な内省に留まらない広がりがある。ビートは重く、やや不穏で、アルバム全体の中でも現実世界の圧力を強く感じさせる楽曲である。
歌詞では、「私」ではなく「私たち」という視点が重要になる。Bon Iverの音楽はしばしば抽象的だが、この曲では共同体や社会への意識が比較的強く感じられる。個人の問題は、もはや個人だけの中で完結しない。政治、環境、社会的分断、集団の責任。そうした大きなテーマが、断片的な言葉の奥に響いている。
「We」は、Bon Iverが内面的なフォーク・プロジェクトから、現代社会の不安を含むアートポップへと広がっていることを示す曲である。ただし、それはスローガン的な政治ソングではない。むしろ、個人の声が複数化され、共同体の声へ変化していく音響そのものが、この曲のメッセージとなっている。
4. Holyfields,
「Holyfields,」は、タイトルに宗教的な響きを持つ楽曲である。“Holy fields”は聖なる野、聖域、祈りの場所を連想させる。しかし末尾にカンマが付いていることで、言葉が完結せず、何かが続いていくような印象を与える。Bon Iverの曲名には記号や句読点が重要な役割を果たすことがあり、この曲でもタイトルの未完性が、楽曲の感覚と結びついている。
サウンドは、柔らかなピアノやシンセサイザー、加工された声、淡いリズムが重なり合い、静かでありながら複雑な音響空間を作る。宗教的な荘厳さを大きなオーケストラで表現するのではなく、断片的な電子音と声の重なりによって、現代的な祈りの場を作っている点が特徴的である。
歌詞には、信仰、疑い、身体、土地、浄化のようなイメージが浮かぶ。Bon Iverの音楽における宗教性は、明確な教義の表明ではなく、言葉では扱いきれない感情や存在の不確かさを受け止める空間として現れる。この曲でも、聖なるものは遠くの天上ではなく、音の断片や声の震えの中に宿っている。
「Holyfields,」は、『i,i』の中でも特に繊細な楽曲であり、共同体的な大きさよりも、祈りのような内向きの空気が強い。しかしその祈りは一人だけのものではなく、多くの声や音によって支えられている。ここにも本作の特徴である、個人と共同体のあいだの感覚が表れている。
5. Hey, Ma
「Hey, Ma」は、『i,i』の中でも最も親しみやすく、広く知られる楽曲のひとつである。タイトルの「Hey, Ma」は、母親への呼びかけとして聞こえる。Bon Iverの音楽では、これまで恋愛や孤独、精神的な葛藤が中心にあったが、この曲では家族、記憶、成長、帰属といったテーマが柔らかく前面に出る。
音楽的には、温かいシンセサイザー、穏やかなビート、広がりのあるコーラスが印象的である。『22, A Million』の複雑な電子処理を経た後のBon Iverが、より開かれたポップ・ソングへ到達した曲といえる。実験的な要素は残っているが、メロディは非常に明快で、感情の流れも掴みやすい。
歌詞では、若い頃の自分、母親との関係、過去への呼びかけ、時間の経過が描かれる。母への呼びかけは、単なる家族愛の表現ではない。そこには、かつての自分を見ていた存在、帰る場所、記憶の起点への問いが含まれている。成長することは、家から離れることであり、同時に家の意味を後から理解することでもある。
「Hey, Ma」は、『i,i』の中で最も人間的な温度を持つ曲のひとつである。Bon Iverの複雑な音響実験が、ここでは非常に素直な感情と結びついている。母への呼びかけという普遍的なテーマを、現代的な電子音と合唱的なサウンドで包むことで、この曲はBon Iverの新しいポップ性を象徴している。
6. U(Man Like)
「U(Man Like)」は、本作の中でも特にピアノと声の存在感が強い楽曲である。タイトルには“U”と“Man Like”という言葉が含まれ、個人への呼びかけ、男性性、人間性、そして道徳的な問いが重なっている。Bon Iverの歌詞は抽象的でありながら、この曲では比較的はっきりと社会的・倫理的な視線が感じられる。
音楽的には、ピアノを中心にしたゴスペル/ソウル的な質感がある。そこに複数の声が重なり、曲全体に共同体的な温かさが生まれる。参加ヴォーカルの存在も大きく、Justin Vernon一人の内省ではなく、多くの声による対話として楽曲が成立している。これは『i,i』全体の方向性を象徴する要素である。
歌詞では、特権、責任、男性性、社会的な不正への視線が読み取れる。Bon Iverはここで、直接的な政治的スローガンを掲げるのではなく、個人が社会の中でどのように振る舞うべきかを問いかけている。“Man like you”という呼びかけには、批判と期待の両方が含まれている。人はどのように他者に向き合うべきか。自分の力や立場をどう使うべきか。その問いが、穏やかなピアノの響きの中で提示される。
「U(Man Like)」は、Bon Iverの音楽が個人的な精神世界から、より広い倫理的・社会的な領域へ広がっていることを示す重要曲である。美しいバラードでありながら、その中に現代社会への問いが含まれている点が、本作らしい。
7. Naeem
「Naeem」は、『i,i』の中でも特に力強い楽曲であり、アルバムの感情的なピークのひとつである。タイトルは人名を思わせ、実際に個別の存在や具体的な他者への呼びかけのように響く。Bon Iverの作品では、抽象的な記号や地名的なタイトルが多く用いられるが、「Naeem」はより人間的な固有性を持つタイトルである。
サウンドは、静かな導入から徐々に高まり、後半では大きな合唱的展開へ向かう。ドラム、ピアノ、ホーン、声が重なり、アルバムの中でも特に開放的な力を持つ。ここでのBon Iverは、もはや孤独なファルセットのフォークではなく、ゴスペル的な共同体のエネルギーを持つバンド/コレクティヴとして鳴っている。
歌詞では、助けを求める声、支え合うこと、変化への願いが感じられる。Bon Iverの歌詞は断片的だが、「Naeem」には非常に強い人間的な切実さがある。誰かに届こうとする声、自分だけでは立てないことを認める声、しかしそれでも前へ進もうとする声が重なっている。
この曲の力は、個人の不安や痛みを、合唱的なエネルギーへ変換する点にある。『For Emma, Forever Ago』では孤独な声が多重録音によって自分自身と重なっていたが、「Naeem」では声は明確に他者と結びついている。これはBon Iverの大きな変化であり、『i,i』というアルバムの核心でもある。
8. Jelmore
「Jelmore」は、本作の中でも特に不穏で、電子的な質感が際立つ楽曲である。タイトルは造語のようで、明確な意味を持たない分、音の印象が強く残る。Bon Iverは『22, A Million』以降、タイトルを意味の記号としてだけでなく、音響の一部として扱うようになったが、この曲もその流れにある。
音楽的には、シンセサイザーの揺らぎ、断片的なビート、加工されたヴォーカルが中心で、曲全体に乾いた不安が漂う。温かく開かれた「Hey, Ma」や「Naeem」とは対照的に、「Jelmore」はより荒涼とした風景を描く。電子音は美しいが、同時にどこか壊れかけているようにも聞こえる。
歌詞では、環境への不安、社会の不安定さ、未来の見えなさが感じられる。具体的なメッセージとして明確に整理されているわけではないが、曲全体の空気には、気候変動や現代社会の疲弊を思わせる不穏さがある。Bon Iverの音楽は、ここで個人的な内省だけでなく、世界そのものの不安へと接続されている。
「Jelmore」は、『i,i』の中で暗い影を担う楽曲である。本作は全体として温かく共同体的な方向へ開かれているが、その背景には世界への危機感がある。この曲は、その危機感を美しくも不安定な電子音として提示している。
9. Faith
「Faith」は、タイトルが示す通り、信仰、信頼、信じることを主題にした楽曲である。Bon Iverの音楽における信仰は、宗教的な枠組みに限定されない。誰かを信じること、共同体を信じること、音楽を信じること、自分が変われる可能性を信じること。そうした広い意味での“faith”が、この曲には込められている。
サウンドは、明るく開放的で、アルバムの中でも特に肯定的なエネルギーを持つ。ギター、シンセサイザー、ドラム、ホーン、コーラスが重なり、曲は徐々に広がっていく。Bon Iverの音楽において、これほどはっきりと前向きな響きを持つ曲は多くない。しかし、その明るさは単純な楽観主義ではなく、疑いを経た後の信頼として響く。
歌詞では、信じることの難しさと、それでも信じようとする姿勢が描かれる。信仰は、疑いのない状態ではない。むしろ、疑いがあるからこそ、信じるという行為が意味を持つ。この曲では、その複雑な信頼の感覚が、開かれたメロディと合唱的なサウンドによって表現されている。
「Faith」は、『i,i』の精神的な中心のひとつである。孤独や不安を経た後、Bon Iverはここで他者や世界への信頼を歌う。ただし、それは強い断言ではなく、揺れながらも信じようとする声である。その慎重な肯定が、この曲を非常に感動的なものにしている。
10. Marion
「Marion」は、本作の中でも比較的アコースティックで、初期Bon Iverのフォーク的な親密さを思わせる楽曲である。タイトルは人名のようでもあり、場所や記憶の名前のようでもある。短く素朴な響きがあり、アルバム後半において一度音の密度を下げ、静かな空間を作る役割を持つ。
音楽的には、アコースティック・ギターと声を中心にした簡素な構成である。『i,i』は電子音や合唱的なアレンジが多いアルバムだが、「Marion」ではその複雑さが一時的に引き、歌の骨格が前面に出る。これは『For Emma, Forever Ago』を思い出させる瞬間であるが、声の響きや録音の感触には、これまでの経験を経た成熟がある。
歌詞は短く、断片的で、過去の記憶や誰かへの静かな呼びかけのように響く。大きな感情を直接的に語るのではなく、少ない言葉の中に余韻を残す。Bon Iverの初期から続く、言葉の隙間に感情を宿す手法がここで再び現れている。
「Marion」は、『i,i』の中で非常に重要なバランスを担っている。複雑な実験や共同体的な合唱の中にあっても、Bon Iverの根本には、静かなギターと声の歌がある。この曲は、その原点を短く、しかし確かに思い出させる。
11. Salem
「Salem」は、タイトルが持つ歴史的・宗教的な響きが印象的な楽曲である。Salemという地名は、アメリカの魔女裁判の記憶や、宗教的な共同体、恐れと裁きのイメージを連想させる。Bon Iverの曲名はしばしば場所や言葉の歴史を曖昧に取り込み、感情の風景として機能させるが、この曲もその一例である。
音楽的には、比較的明快なリズムとメロディを持ち、アルバム終盤に軽やかな推進力をもたらす。シンセサイザーやコーラスが柔らかく重なり、曲全体には明るさがある。しかしタイトルの持つ不穏さと重なり、単純な軽快さにはならない。明るい音の中に、過去の影や共同体の緊張が潜んでいる。
歌詞では、変化、責任、過去の記憶、そして共同体の中で生きることへの問いが感じられる。Bon Iverはここでも、個人の感情を社会や歴史の広がりの中に置いている。Salemという言葉が持つ集団的な記憶は、曲に深い陰影を与えている。
「Salem」は、『i,i』の中でポップ性と歴史的な重さが交差する楽曲である。聴きやすいメロディの背後に、共同体が抱える不安や過去の影が見える。この二重性が、Bon Iverの後期作品らしい複雑さを生んでいる。
12. Sh’Diah
「Sh’Diah」は、本作の中でも特に静かで、深い余韻を持つ楽曲である。タイトルは“Shittiest Day in American History”の略ともされ、非常に重い政治的・社会的な含意を持つ言葉として受け取ることができる。しかし曲自体は、怒りを大音量で爆発させるのではなく、疲労、悲しみ、祈りに近い質感を持つ。
音楽的には、ゆったりとしたテンポ、柔らかなエレクトリック・ピアノ、ホーンの響き、深い空間処理が特徴である。ジャズやゴスペルの影響も感じられ、アルバムの中でも特に夜のような静けさを持つ。Justin Vernonの声は抑制され、感情を大きく叫ぶのではなく、世界の重さを受け止めるように響く。
歌詞では、政治的な失望、社会への疲労、それでも何かを信じようとする姿勢が感じられる。Bon Iverはここで、怒りを直接的な抗議の言葉としてではなく、沈黙に近い音楽の中で表現している。そのため曲は、個人的な悲しみと社会的な悲しみが重なったものとして響く。
「Sh’Diah」は、『i,i』の中で最も成熟した曲のひとつである。世界への失望を抱えながらも、音楽は崩壊しない。むしろ、非常に柔らかな音でその重さを包み込む。この静かな強さが、本作の終盤に深い陰影を与えている。
13. RABi
ラスト曲「RABi」は、『i,i』の締めくくりとして、穏やかで人間的な余韻を残す楽曲である。タイトルは人名、略語、あるいは謎めいた記号のように響くが、曲そのものは本作の中でも特に温かく、生活に近い感覚を持つ。ここでBon Iverは、抽象的な実験や社会的な不安を通過した後、非常に柔らかな肯定へと着地する。
音楽的には、穏やかなリズム、明るいギター、柔らかなシンセサイザー、自然な声の重なりが特徴である。大きなクライマックスを作るのではなく、アルバムはゆっくりと日常の光の中へ戻っていくように終わる。これは『22, A Million』のような謎めいた終わり方とは異なり、より開かれた結末である。
歌詞では、生きること、時間が過ぎること、老いること、日々を続けることが描かれているように響く。Bon Iverの音楽はしばしば抽象的だが、「RABi」には非常に現実的な感触がある。人は世界の不安や自分の傷を完全に解決できない。それでも朝は来て、日々は続き、誰かと共に生きることができる。この曲は、その静かな事実を肯定している。
「RABi」は、『i,i』というアルバムの結論として非常に重要である。本作は、孤独、共同体、信仰、政治的な不安、記憶、家族、自己の揺らぎを扱ってきた。そして最後に残るのは、壮大な答えではなく、日常を続けることへの穏やかな受容である。その意味で「RABi」は、Bon Iverのキャリアの中でも特に温かい終曲といえる。
総評
『i,i』は、Bon Iverのディスコグラフィーにおいて、非常に重要な統合作である。『For Emma, Forever Ago』の孤独なフォーク、『Bon Iver, Bon Iver』の地理的で広大なアンサンブル、『22, A Million』の電子的解体。そのすべてを通過した後、本作ではそれらがより自然で共同体的な形へと結びついている。これは後退ではなく、実験の後に到達した成熟である。
本作の中心にあるのは、「私」と「私たち」の関係である。タイトルの『i,i』が示すように、ここでの自己は一つではない。自分の中に複数の声があり、自分は他者との関係の中で形作られ、個人の不安は社会の不安とつながっている。Bon Iverはこのアルバムで、孤独を消し去るのではなく、孤独を他者の声と重ねる方法を提示している。
音楽的には、非常に複雑でありながら、聴感は温かい。電子音、サンプリング、ヴォーカル加工、断片的なビート、アコースティック・ギター、ホーン、ピアノ、コーラスが入り混じるが、全体は過度に難解にはならない。『22, A Million』が鋭く断片化された実験作だったのに対し、『i,i』はその実験性を共同体的なポップへと開いている。複雑な音響の中に、歌の温度が戻ってきている点が重要である。
歌詞の面では、Bon Iverらしい曖昧さが残る。明確な物語や説明を求めると、本作は掴みにくいかもしれない。しかし、その曖昧さは欠点ではなく、むしろ現代的な感情のあり方を反映している。個人の不安、社会の緊張、家族の記憶、政治的な失望、信仰への問い、日常の継続。それらは一つの物語に整理できるものではない。『i,i』は、その整理できなさを、声と音の重なりとして受け止めている。
本作における共同制作の感覚も重要である。Bon IverはもはやJustin Vernon一人の孤独なプロジェクトではなく、多くの音楽家、声、楽器、録音の場が交差するコレクティヴ的な存在になっている。ただし、その中心には依然としてJustin Vernonの声と感性がある。彼の声は加工され、分裂し、他者と重なりながらも、作品全体の核として機能している。
『i,i』の魅力は、希望を安易に提示しない点にもある。「Faith」や「RABi」には明るさがあるが、それは無邪気な楽観ではない。「Jelmore」や「Sh’Diah」には世界への不安や失望がある。つまり本作は、暗さを否定せず、暗さの中で他者と共に声を出すアルバムである。その姿勢が、2010年代後半の社会的・個人的な不安の中で強く響く。
日本のリスナーにとって、『i,i』はBon Iverの作品の中でも、最初は全体像を掴みにくいアルバムかもしれない。『For Emma, Forever Ago』のような分かりやすい孤独なフォークでもなく、『Bon Iver, Bon Iver』のような美しい風景的アルバムでもなく、『22, A Million』のように尖った実験作としても単純には説明できない。しかし、繰り返し聴くことで、それぞれの曲が異なる光を持ちながら、一つの大きな共同体的な呼吸を作っていることが見えてくる。
評価として、『i,i』はBon Iverの成熟を示す傑作である。最も衝撃的な作品は『For Emma, Forever Ago』や『22, A Million』かもしれない。しかし、Bon Iverがこれまでに探ってきた孤独、声、電子音、フォーク、共同体、信仰、社会的不安を、最も柔らかく、最も包括的に結びつけた作品が『i,i』である。これは、孤独な冬から始まったBon Iverが、長い旅の末にたどり着いた秋のアルバムである。収穫と喪失、温かさと影、個人と共同体。そのすべてが、穏やかに、しかし複雑に響いている。
おすすめアルバム
1. Bon Iver – 22, A Million(2016)
『i,i』の前作であり、Bon Iverがフォークの形式を大胆に解体した実験作。電子処理されたヴォーカル、断片的な構成、記号的なタイトル、宗教的・数学的なイメージが前面に出ている。『i,i』の複雑な音響やヴォーカル加工の出発点を理解するうえで重要な作品である。
2. Bon Iver – Bon Iver, Bon Iver(2011)
Bon Iverが孤独なフォークから広大なアンサンブルへ展開した2作目。ホーン、シンセサイザー、ギター、重層的なコーラスによって、地名や記憶の風景を描いている。『i,i』の共同体的な音響や広い空間性は、この作品の延長線上にある。
3. James Blake – Assume Form(2019)
電子音、声の加工、R&B的なリズム、内省的なソングライティングを結びつけた作品。Bon IverとJames Blakeは音楽的な接点も深く、声を電子的に変化させながら感情の核心を保つ手法に共通点がある。『i,i』のエレクトロニックで温かい側面に関心があるリスナーに適している。
4. Big Red Machine – Big Red Machine(2018)
Justin VernonとThe NationalのAaron Dessnerによるプロジェクトのアルバム。Bon Iverの声と、Dessnerの反復的で陰影あるプロダクションが結びつき、共同制作的なインディー・ロック/実験ポップが展開される。『i,i』のコレクティヴ的な制作感覚を理解するうえで関連性が高い。
5. Sufjan Stevens – The Age of Adz(2010)
フォークを出発点にしながら、電子音、オーケストレーション、断片的な構成、精神的な混乱を大胆に取り込んだ作品。Bon Iverとは異なる美学を持つが、シンガーソングライター的な親密さを実験的な音響へ拡張する点で『i,i』と響き合う。

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