発売日: 1986年（録音：1968–1974年）
ジャンル: フォーク、バロック・ポップ、アコースティック
沈黙の余白に響く声——Nick Drake、過ぎ去りし時の彼方から届く“返事のない手紙”
『Time of No Reply』は、Nick Drakeの死後1986年にコンピレーションとして発表されたアルバムであり、彼が1970年代初頭に残した未発表曲やデモ、アウトテイクを中心に構成された、ある意味で“失われたもうひとつのアルバム”である。
公式スタジオ作はわずか3枚、ツアーやメディア露出もほぼなく、26歳で世を去ったNick Drakeというアーティストの“静けさ”は、その死後の年月を経てようやく評価されることとなった。
本作には、その沈黙の背後にあった葛藤や純粋さ、そして語られなかった内面の声が、ひそやかに、しかし鮮烈に刻まれている。
アコースティック・ギターの爪弾きとささやくような声、その最小限の音響のなかに、Nick Drakeという存在の本質——時間、喪失、祈り——が凝縮されている。
全曲レビュー
1. Time of No Reply
アルバムの象徴的タイトル曲。返事のない時間、つまり孤独と沈黙を淡々と描く、Nick Drake的世界の核心。 リズムのない語りが、時間の流れを止めてしまうような余韻を残す。
2. I Was Made to Love Magic
幻想と純粋性を讃えるフォーク・バラード。弦楽アレンジが追加された後のヴァージョンもあるが、本作のバージョンはより素朴で、魔法のように透明である。
3. Joey
愛と喪失をめぐる短くも深い小品。語りかけるような歌詞と、風に乗るようなギターが、まるで昔話のような印象を与える。
4. Clothes of Sand
時を超えた幻想世界を描いた、Nick Drakeの隠れた傑作。詩的なイメージとメロディの交差が美しく、夢と現実の境界線に立つような不思議な静けさがある。
5. Man in a Shed
『Five Leaves Left』にも収録された曲の別テイク。孤独な男とその部屋を巡る寓話的構成。 本ヴァージョンは生々しい感情がより強く出ている。
6. Mayfair
ロンドンの地名を冠した軽やかなフォーク・ナンバー。都市と個人の距離感をユーモラスに描きつつも、どこか儚い。
7. Fly
『Bryter Layter』収録曲の初期テイク。やや不安定だが、それが逆にNick Drakeの感受性の繊細さを際立たせている。
8. The Thoughts of Mary Jane
幻想的女性像“メアリー・ジェーン”を巡る思索的な曲。フルートとギターの絡みがより素朴に聞こえ、静かに語りかけてくる。
9. Been Smoking Too Long
Nick Drake自身の曲ではなく、Robin Frederickによる楽曲のカバー。内省的な歌詞と囁くような声が絶妙に溶け合い、“吸いすぎた煙草”が象徴する虚無感が心を打つ。
10. Strange Meeting II
不可思議な出会いを描いた寓話のような小品。メロディは優しくとも、どこか不穏な余韻が残る。
11. Rider on the Wheel
失われた旅人のような存在を描く、Nick Drakeの晩年に通じる陰影を感じさせる一曲。
12. Black Eyed Dog
本作の核心とも言える“死”と向き合った曲。「黒い目の犬」はウィンストン・チャーチルが鬱を語る際に用いた比喩であり、Nick Drakeにとっても“影”そのものだったのだろう。
13. Hanging on a Star
空を漂うような不安定さと、名声の虚しさをにじませた晩年の曲。演奏の隙間に生々しい感情が滲む。
14. Voice from the Mountain
山の彼方から響く“声”を探すような、Nick Drakeのラスト・ソングとも呼ばれる静かな祈り。 それは誰かに届いたのか、それとも届かなかったのか。
総評
『Time of No Reply』は、Nick Drakeという孤高のソングライターの“沈黙の背後にある物語”を補完する、もうひとつの肖像画である。
ここには完成形の洗練された音ではなく、その過程、ためらい、脆さ、そして深い感情のかけらがそのまま封じ込められている。
それはまるで、返信の来ない手紙の束を読み返すような体験であり、Nick Drakeが残した“言葉にならなかった声”を、時を越えて聴くことができる貴重な記録でもある。
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