
発売日:2022年6月10日
ジャンル:ネオソウル、エレクトロニック、ジャズ、R&B、チルアウト、インストゥルメンタル・ポップ
概要
FKJのV I N C E N Tは、2022年に発表されたセカンド・スタジオ・アルバムであり、フランス出身のマルチ・インストゥルメンタリスト/プロデューサーであるVincent Fentonが、自身の内面をより直接的に音へ変換した作品である。FKJという名義は「French Kiwi Juice」の略称として知られ、2010年代以降のチルアウト、ネオソウル、エレクトロニック、ジャズ・フュージョンの交差点で独自の存在感を築いてきた。滑らかなグルーヴ、即興的な演奏、柔らかなシンセサイザー、温度感のあるサックスやギター、そしてループを基盤にした構築力が、彼の音楽の大きな特徴である。
2017年のデビュー・アルバムFrench Kiwi Juiceでは、FKJは自身のサウンドを明確に提示した。そこには、クラブ・ミュージックの反復性、ジャズの即興性、R&Bの官能性、ローファイ・ヒップホップ以降のくつろいだ質感が自然に結びついていた。特にTom Misch、Masego、Jordan Rakei、FKJ周辺のシーンが共有していた、演奏とビートメイクの中間にある音楽性は、2010年代後半の「生演奏できるビートメイカー」像を象徴するものだった。
V I N C E N Tは、その路線を継承しつつ、より個人的で、内省的で、アルバム全体の物語性を意識した作品になっている。タイトルがアーティスト名ではなく本名の「Vincent」を分解するように表記されていることも重要である。これは、FKJというブランド化された名義の奥にいる一人の人間へ近づこうとする作品であることを示している。音楽的にも、単に心地よいチル・ミュージックを並べるのではなく、不安、創作への葛藤、孤独、再生、生命への賛歌といったテーマがアルバム全体に散りばめられている。
本作の特徴は、音の美しさと内面の揺れが同居している点にある。FKJの音楽はしばしば、カフェ、夜、自然、リラックス、穏やかな時間と結びつけて受け取られやすい。しかしV I N C E N Tでは、その心地よさの背後にある不安定さがより明確に表れている。ビートは柔らかく、和音は温かいが、曲の中には迷いや問いが潜む。穏やかな海面の下で、感情がゆっくり動いているようなアルバムである。
また、本作はコラボレーションの扱いも重要である。Carlos Santana、Little Dragon、Toro y Moi、((( O )))など、ジャンルや世代の異なるアーティストが参加しているが、彼らは単なる客演として目立つのではなく、FKJの世界に溶け込みながら、それぞれ異なる色を与えている。特にSantanaのギターが加わる「Greener」は、FKJの柔らかなグルーヴとクラシック・ロック/ラテン・ロックの精神性を接続する象徴的な楽曲である。一方、Little DragonやToro y Moiとの楽曲では、エレクトロニック・ポップやインディーR&Bの感覚が前面に出る。
FKJのキャリアにおいて、V I N C E N Tは単なるセカンド・アルバム以上の意味を持つ。デビュー作で確立したサウンドを再確認するだけでなく、彼自身が何を感じ、何を疑い、何を守ろうとしているのかを、より深く表現した作品だからである。演奏家としての技巧は相変わらず高いが、本作では技巧そのものよりも、音によって感情の状態をどう描くかが重視されている。ループ、即興、ビート、声、環境音、空間処理が、有機的に結びついている。
日本のリスナーにとって本作は、ネオソウルやジャズ、チルアウト系の音楽に親しむ入口として非常に聴きやすいアルバムである。派手な展開や強い歌詞の主張よりも、音色、空気感、グルーヴの微細な変化を味わう作品であり、夜のリスニング、作業中、移動中などにも自然に溶け込む。しかし、単なるBGMとして流すだけでは見落とされる深さもある。曲ごとのテーマを追うと、FKJが自分自身の存在、創作、他者とのつながり、生命の意味を静かに問い続けていることが分かる。
全曲レビュー
1. Way Out
「Way Out」は、アルバムの導入として非常に象徴的な楽曲である。タイトルは「出口」や「抜け道」を意味し、本作全体のテーマである内面からの脱出、あるいは自己の閉塞から外へ向かう感覚を示している。FKJの音楽はしばしば流れるように始まるが、この曲もまた、明確な宣言よりも、徐々に空間が開かれていくような印象を持つ。
音楽的には、柔らかなシンセサイザー、丸みのあるビート、温度感のあるコードが中心となる。リズムは強く押し出すというより、身体をゆっくり揺らすように配置されている。FKJらしい特徴として、電子音でありながら無機質にならず、演奏者の手触りが残っている点が挙げられる。鍵盤やギター、ベースのフレーズは過度に技巧を見せるのではなく、空間を呼吸させるように機能する。
タイトルの「Way Out」は、単に問題から逃げることではなく、出口を探す行為そのものを示している。創作、生活、自己認識の中で行き詰まりを感じた時、人はすぐに答えを見つけられるわけではない。この曲は、その答えに到達する前の、静かに歩き出す瞬間を描いているように聴こえる。アルバムの幕開けとして、聴き手をFKJの内面的な旅へ誘う役割を果たしている。
2. Greener feat. Carlos Santana
「Greener」は、Carlos Santanaをフィーチャーした楽曲であり、本作の中でも特に象徴性の強い曲である。Santanaのギターは、ラテン・ロック、ブルース、スピリチュアルなロックの歴史を背負った音として響く。その独特の伸びやかなトーンが、FKJの滑らかなネオソウル/エレクトロニックなサウンドと結びつくことで、世代やジャンルを越えた対話が生まれている。
タイトルの「Greener」は、「隣の芝生は青い」という表現にも通じる言葉であり、より良い場所、より満たされた状態、あるいは理想化された別の人生への憧れを示している。歌詞や楽曲のムードには、どこかへ向かいたい、今いる場所よりも豊かな場所があるのではないかという感覚が漂う。しかし、その「より青い場所」が本当に存在するのか、それとも心の投影にすぎないのかは曖昧である。
音楽的には、FKJのしなやかなグルーヴとSantanaのギターが自然に溶け合う。Santanaの演奏は前面に出すぎず、曲の精神的な広がりを支える役割を果たしている。ギターのフレーズには、単なる装飾ではなく、問いに対する感情的な応答のような響きがある。FKJのプロダクションは、Santanaの存在感を尊重しながらも、自身の音響世界の中に丁寧に取り込んでいる。
この曲は、本作のテーマである「外へ向かうこと」と「内側を見つめること」の両方を示している。より良い場所を求める旅は、実際には自分自身の心の状態を見つめ直す旅でもある。「Greener」は、アルバム序盤でその二重性を美しく表現している。
3. Us
「Us」は、タイトルが示す通り、「私たち」という関係性を中心にした楽曲である。FKJの音楽には、しばしば孤独と親密さが同時に存在する。この曲では、個人ではなく「二人」あるいは「共同体」としての感覚がテーマになっている。アルバムが本名を冠した個人的な作品である一方で、自己は他者との関係の中でしか完全には見えてこない。そのことを示す曲である。
サウンドは非常に柔らかく、内向的でありながら温かい。ビートは強く主張せず、コードの響きとメロディの流れが中心になる。FKJの楽曲では、音の余白が重要な意味を持つ。ここでも、音を詰め込みすぎず、二人の間にある沈黙や距離を感じさせるような空間が作られている。
歌詞のテーマは、関係性の中で生まれる安心感、あるいは不確かさである。「Us」という言葉は肯定的に響くが、同時に関係を維持する難しさも含んでいる。一人ではなく二人であることは、救いであると同時に、互いの違いや距離を意識することでもある。FKJの音楽は、その複雑さを直接的なドラマとしてではなく、音色とグルーヴの微妙な揺れで表現している。
この曲は、アルバムの中で親密な休息のような役割を担う。外の世界へ向かう旅の中で、誰かと一緒にいることの意味を静かに問いかける楽曲である。
4. The Mission
「The Mission」は、タイトルからして目的、使命、進むべき道を連想させる曲である。V I N C E N Tというアルバムが自己探求の性格を持つことを考えると、この曲はFKJがなぜ音楽を作るのか、自分にとって創作とは何かを問い直す場として機能している。
音楽的には、比較的リズムの輪郭がはっきりしており、前へ進む感覚がある。ベースラインやドラムのパターンは、静かな推進力を作り出している。派手な高揚ではなく、内側にある確信が少しずつ形を持っていくような曲調である。FKJのマルチ・インストゥルメンタリストとしての能力も、こうした曲では自然に現れる。複数の楽器が複雑に絡みながらも、全体は滑らかに保たれている。
タイトルの「Mission」は、単なる仕事や目標ではなく、人生における役割のような響きを持つ。アーティストにとっての使命は、成功することだけではなく、音を通じて自分と世界の関係を探ることでもある。この曲には、そのような静かな決意が感じられる。大きな言葉で宣言するのではなく、グルーヴの持続によって進むべき方向を示している。
アルバム全体の中では、内省から行動へ少し視点を移す曲である。迷いや不安を抱えながらも、何かを果たそうとする意志がここにある。
5. Can’t Stop feat. Little Dragon
「Can’t Stop」は、Little Dragonをフィーチャーした楽曲であり、本作の中でもエレクトロニック・ポップ/R&B色が強い曲である。Little DragonのYukimi Naganoの声は、透明感と独特の湿度を併せ持ち、FKJの滑らかなサウンドと非常に相性が良い。彼女のボーカルが加わることで、曲にはより明確な歌ものとしての輪郭が生まれている。
タイトルの「Can’t Stop」は、止められない感情、欲望、思考、あるいは関係の循環を示している。ポップな響きのある言葉だが、その中には制御不能な状態への不安も含まれる。愛や衝動が止まらないことは幸福であると同時に、自己を失う危うさでもある。
音楽的には、ビートが洗練され、ベースとシンセの動きが曲に浮遊感を与えている。Little Dragonの持つスウェーデンのエレクトロニック・ソウル的な感覚と、FKJのフランス的なチル・グルーヴが交差し、国籍やジャンルを越えた音像が生まれている。曲は過度に盛り上がらず、一定の温度を保ちながら進む。この抑制が、止められない感情をより内面的に響かせている。
「Can’t Stop」は、アルバムの中で外部アーティストとの化学反応が最も分かりやすく表れた曲のひとつである。FKJの音楽が、ゲストを飲み込むのではなく、相手の個性を柔らかく包み込む性質を持っていることがよく分かる。
6. IHM
「IHM」は、アルバムの中でも抽象性の高い楽曲である。タイトルは短く、明確な意味を簡単には示さないため、聴き手は音そのものに集中することになる。FKJの作品において、こうした曲は言葉よりも感覚を優先する場として重要である。
音楽的には、アンビエント、ジャズ、エレクトロニックの要素が溶け合う。ビートは控えめで、音の質感や空間処理が中心となる。FKJは多くの楽器を演奏できるが、この曲では演奏の技巧よりも、音がどのように響き、消え、残響するかが重要になっている。曲全体は、はっきりした物語というより、内面の状態を音にしたような印象を与える。
この曲の役割は、アルバムの流れに余白を作ることである。歌ものやゲスト参加曲が続く中で、「IHM」は聴き手をいったん言葉の外へ連れ出す。明確なメッセージを受け取るのではなく、音の中で呼吸するような時間が与えられる。
タイトルの曖昧さは、自己を言葉で固定しすぎないための装置とも考えられる。V I N C E N Tは個人的なアルバムだが、人間の内面はすべて言語化できるわけではない。「IHM」は、その言葉にならない部分を担っている。
7. Brass Necklace feat. ((( O )))
「Brass Necklace」は、((( O )))をフィーチャーした楽曲であり、アルバムの中でも特に繊細で親密な空気を持つ。((( O )))の声は柔らかく、少し霧がかったような質感を持ち、FKJの音響と自然に溶け合う。タイトルの「真鍮のネックレス」は、身につけるもの、記憶、贈り物、身体に触れる装飾品を連想させる。
音楽的には、穏やかなコード、軽やかなリズム、温かな音色が中心である。派手な展開はなく、曲は小さな光をたどるように進む。FKJのサウンドはここで非常に有機的で、楽器と声の境界が曖昧になる。ボーカルは主役でありながら、ひとつの音色として曲全体に溶け込んでいる。
歌詞のテーマは、親密な記憶や、物に宿る感情として読める。ネックレスのような身近なものは、単なる装飾ではなく、誰かとの関係や過去の時間を保持する媒体になる。真鍮という素材には、金や銀ほどの豪華さではなく、手触りのある温かさがある。その質感は、曲全体のムードとも合っている。
「Brass Necklace」は、本作の中で最も静かな美しさを持つ曲のひとつである。大きなメッセージを掲げるのではなく、小さな物に宿る感情を丁寧にすくい取る。FKJの音楽が持つ親密さが、よく表れた楽曲である。
8. Different Masks for Different Days
「Different Masks for Different Days」は、本作の中でもテーマ性が非常に明確な楽曲である。タイトルは「日によって異なる仮面」を意味し、人が状況や感情に応じて異なる自分を演じることを示している。これは現代的な自己認識の問題であり、アーティストとしてのFKJにも深く関わるテーマである。
音楽的には、静かなグルーヴと内省的な音色が中心である。曲は派手に展開するのではなく、少しずつ色を変えながら進む。複数の仮面をつけ替えるというタイトルに対応するように、音の表情も微妙に変化していく。シンセ、ギター、鍵盤、ビートが重なり合いながらも、全体はあくまで滑らかに保たれている。
歌詞のテーマは、自己の多面性である。人は一貫した存在でありたいと願うが、実際には家族、友人、恋人、仕事、創作、社会の中で異なる顔を持つ。仮面をつけることは偽りであると同時に、生きるための方法でもある。この曲は、その複雑さを責めるのではなく、静かに観察している。
アルバムタイトルが本名を冠していることを考えると、この曲は特に重要である。FKJというアーティスト像、Vincentという個人、ステージ上の自分、日常の自分。それらは完全には一致しない。「Different Masks for Different Days」は、そのズレを音楽的に表した楽曲である。
9. A Moment of Mystery feat. Toro y Moi
「A Moment of Mystery」は、Toro y Moiをフィーチャーした楽曲であり、チルウェイヴ、インディーR&B、ネオソウルの要素が交差する一曲である。Toro y MoiことChaz Bearは、2010年代以降のインディー・ポップ/チルウェイヴを代表する存在であり、FKJとは異なるルートから、柔らかな電子音とソウルフルな感覚を発展させてきた。両者の共演は、本作の中でも自然な親和性を持っている。
タイトルが示す「謎の瞬間」は、はっきりと言語化できない感情や出来事を指している。恋愛、出会い、創作、記憶の中には、説明できないまま強く残る瞬間がある。この曲は、その一瞬の不可解さを、明るくもどこか曖昧な音像で表現している。
音楽的には、軽やかなビート、滑らかなベース、浮遊するシンセが中心である。Toro y Moiの声は、曲にインディー・ポップ的な軽さを加えつつ、FKJのグルーヴと自然に溶け合う。サウンドは心地よいが、タイトル通り、どこか掴みきれない感覚が残る。明るい昼下がりのようでもあり、記憶の中の曖昧な場面のようでもある。
この曲は、アルバムの中でリラックスした開放感を与える一方、単なる軽快なポップにはならない。謎を謎のまま保つこと、説明しすぎないことが、楽曲の魅力になっている。
10. Let’s Live
「Let’s Live」は、アルバムの中でも最も直接的に生命への肯定を示すタイトルを持つ楽曲である。「生きよう」という言葉はシンプルだが、本作の流れの中では重みがある。ここまでの楽曲で描かれてきた迷い、仮面、関係性、出口探しを踏まえると、この曲はひとつの小さな決意として響く。
音楽的には、温かく、比較的開かれたサウンドを持つ。ビートは穏やかに身体を前へ押し、コードの響きには希望がある。FKJは過剰にドラマティックな盛り上げ方をしないが、その分、音の変化が自然な生命感を持つ。楽曲全体が、静かに呼吸しているように感じられる。
歌詞のテーマは、過去や不安に囚われすぎず、現在を生きることにある。これは安易なポジティブ思考ではない。むしろ、迷いや苦しみを通過したうえで、それでも生きることを選ぶ姿勢である。FKJの音楽は、このような肯定を大声で叫ばず、穏やかなグルーヴとして提示する。
「Let’s Live」は、アルバムの中盤から後半へ向けて、空気を明るく変える役割を持つ。生きることを祝う曲でありながら、静けさと内省を失わない。本作の成熟した肯定感を象徴する楽曲である。
11. Once Again I Close My Eyes
「Once Again I Close My Eyes」は、非常に内省的なタイトルを持つ楽曲である。目を閉じるという行為は、外界を遮断し、内側へ向かうことを意味する。タイトルに「Once Again」とあるため、それは一度きりではなく、何度も繰り返される内面への回帰であることが分かる。
音楽的には、瞑想的で、ゆっくりとした時間の流れを持つ。音の輪郭は柔らかく、ビートは控えめで、メロディは夢の中を漂うように進む。FKJの音楽における重要な要素である浮遊感が、ここでは特に強く表れている。目を閉じた時に見える内的な風景を、音で描いているような曲である。
歌詞や曲の雰囲気からは、休息、祈り、回想、自己との対話が感じられる。外の世界が騒がしい時、人は目を閉じることで一時的に自分を守る。しかし同時に、目を閉じると、避けていた感情がより鮮明に現れることもある。この曲は、その両方の感覚を持っている。
アルバムの中では、再び内面へ深く潜る曲である。前曲「Let’s Live」が外へ向かう肯定だとすれば、「Once Again I Close My Eyes」は、その肯定を支えるために必要な静かな自己確認の時間である。
12. New Life
「New Life」は、タイトル通り、新しい生命、新しい始まり、再生をテーマにした楽曲である。V I N C E N T全体が自己探求の旅であるとすれば、この曲はその中でひとつの転換点を示している。過去の不安や仮面を経て、新しい状態へ向かう感覚がある。
音楽的には、明るさと静けさがバランスよく共存している。ビートは穏やかだが、曲には前向きな推進力がある。コードの響きは柔らかく、シンセや楽器の重なりは、何かが少しずつ芽吹いていくような印象を与える。FKJのサウンドはここで、再生を大げさな爆発としてではなく、自然な変化として描いている。
「New Life」という言葉は、人生の劇的な再出発だけでなく、日々の中で少しずつ生まれ変わる感覚にも通じる。人は一度に完全に変わるのではなく、小さな選択や気づきの積み重ねによって、新しい自分へ向かう。この曲の穏やかな進行は、その現実的な再生の感覚に合っている。
アルバム後半に置かれることで、「New Life」は本作に希望の軸を与えている。内省的なアルバムでありながら、最後には閉塞ではなく再生へ向かう。その方向性を示す重要曲である。
13. Does It Exist
「Does It Exist」は、本作の中でも哲学的な問いを含むタイトルである。「それは存在するのか」という問いは、愛、意味、幸福、自己、神秘、理想など、さまざまな対象へ向けられる。FKJはこの曲で、明確な答えを提示するのではなく、問いそのものを音楽化している。
音楽的には、静かで広がりのあるサウンドが中心である。コードの響きには浮遊感があり、ビートは必要最小限に抑えられている。曲全体が、何かを探している途中のように聴こえる。音が現れては消え、確かな形を取りそうで取りきらない。その不確かさが、タイトルの問いと結びついている。
歌詞のテーマは、目に見えないものの存在を信じられるかという問題である。愛や希望は物質として存在するわけではない。しかし、人はそれらに動かされる。音楽もまた、形のないものだが、確かに感情を変える。この曲は、そうした不可視のものへの問いを含んでいる。
「Does It Exist」は、アルバム終盤で聴き手を再び深い内省へ導く曲である。再生や肯定の後にも、問いは残る。人生の意味や愛の存在は、一度答えを出せば終わるものではない。この曲は、その問い続ける姿勢を静かに表している。
14. Stay a Child
「Stay a Child」は、アルバムの締めくくりとして非常に重要な楽曲である。タイトルは「子どものままでいて」という意味を持ち、純粋さ、好奇心、柔らかな感受性を守ることを示している。大人になることは経験を重ねることであり、同時に多くの仮面や責任を引き受けることでもある。本作で繰り返し描かれてきた仮面、使命、問い、再生の先に、この曲が置かれていることには大きな意味がある。
音楽的には、穏やかで、温かく、終曲にふさわしい余韻を持つ。派手なクライマックスではなく、静かな光の中でアルバムを閉じるような曲である。音色は柔らかく、メロディには優しさがある。FKJの演奏はここでも控えめだが、必要な音だけが丁寧に置かれている。
歌詞のテーマは、子どもらしさを失わないことにある。これは未熟でいることではなく、世界に驚く力、自分の感情に正直でいる力、創造性を保つことを意味する。アーティストにとって、子どもの感覚は非常に重要である。技術や経験を積んでも、最初に音に触れた時の喜びや不思議さを失えば、創作は硬くなる。この曲は、その感覚を守ろうとする祈りのように響く。
「Stay a Child」は、V I N C E N Tを穏やかに締めくくる。アルバム全体が本名を通じた自己探求であるなら、最後に見つかるものは、成功や成熟ではなく、内側に残る子どもの感覚である。その結論は静かだが、非常に深い。
総評
V I N C E N Tは、FKJが自身の音楽的美学をさらに深め、個人的な内面へ踏み込んだアルバムである。ネオソウル、ジャズ、R&B、エレクトロニック、チルアウト、インディー・ポップが自然に溶け合い、全体として非常に滑らかで美しい音像を作っている。しかし、その美しさは単なる快適さではない。アルバムの奥には、自己探求、不安、仮面、使命、関係性、再生、子どもらしさへの回帰といったテーマが流れている。
本作の大きな魅力は、演奏とプロダクションの境界が曖昧である点にある。FKJは楽器を演奏するミュージシャンであり、同時に音を組み立てるプロデューサーでもある。そのため、彼の音楽では、ジャズ的な即興性と電子音楽的な構築性が自然に共存する。生演奏の温度と、ループやエフェクトによる反復が、互いを邪魔せずに混ざっている。これは、2010年代以降のネオソウル/チルアウト系の重要な特徴でもある。
また、本作はゲストの使い方も巧みである。Carlos Santana、Little Dragon、Toro y Moi、((( O )))といった個性の強いアーティストが参加しているにもかかわらず、アルバム全体の統一感は崩れない。FKJはゲストを自分の世界へ強引に閉じ込めるのではなく、相手の音色や声が最も自然に響く場所を用意している。そのため、コラボレーション曲もアルバムの流れに溶け込みながら、それぞれ異なる光を放っている。
歌詞やテーマ面では、本名をタイトルに掲げたことが作品全体の解釈に大きく関わる。FKJという名義は、洗練されたチル・ミュージックの象徴として広く認識されている。しかしV I N C E N Tでは、その表面の奥にいる人間が見えてくる。「Different Masks for Different Days」では複数の自分を演じることが語られ、「Does It Exist」では見えないものへの問いが示され、「Stay a Child」では創造性の源としての子どもらしさが守られる。これは、アーティストとしての自己像を解体し、人間としての感覚へ戻るアルバムでもある。
日本のリスナーにとって、本作は非常に受け取りやすい一方で、聴き方によって印象が大きく変わる作品である。BGMとして聴けば、洗練されたチルアウト/ネオソウル作品として心地よく機能する。しかし、曲の配置やタイトル、音の変化を追って聴けば、自己探求のアルバムとしての深みが見えてくる。静かな音楽でありながら、内側では多くの問いが動いている。
V I N C E N Tは、派手なポップ・アルバムではない。強烈なフックで一気に聴き手を掴むよりも、ゆっくりと空間に入り込み、気づけば聴き手の感情を包み込むタイプの作品である。FKJの音楽は、音楽的な技術の高さを見せつけるのではなく、技術を透明化し、感情や空気として届ける。その点で、本作は非常に成熟している。
総じてV I N C E N Tは、FKJのキャリアにおける重要な到達点である。デビュー作で確立した洗練されたグルーヴを保ちながら、より個人的で、より内面的な領域へ進んだ。美しい音の表面の下に、人間としてのVincent Fentonの問いがある。チルアウト、ネオソウル、ジャズ、エレクトロニックを横断する現代的な音楽を求めるリスナーにとって、本作は深く味わう価値のあるアルバムである。
おすすめアルバム
1. FKJ – French Kiwi Juice
FKJのデビュー・アルバムであり、彼の基本的な音楽性を理解するうえで最も重要な作品。ネオソウル、ジャズ、エレクトロニック、R&Bが滑らかに融合しており、V I N C E N Tよりも軽やかで、初期の魅力が分かりやすい。FKJの音作りの原点を知るために欠かせない。
2. Tom Misch – Geography
ギター、ジャズ、ソウル、ビートメイクを結びつけた現代UK系の重要作。FKJと同じく、演奏家とプロデューサーの感覚を併せ持ち、柔らかなグルーヴとメロディの親しみやすさがある。チルでありながら演奏の魅力を楽しめる作品である。
3. Jordan Rakei – Wallflower
ネオソウル、ジャズ、エレクトロニックを内省的な歌詞と結びつけた作品。FKJよりも歌ものとしての重心が強いが、繊細なコード感、落ち着いたグルーヴ、内面を掘り下げる姿勢に共通点がある。夜にじっくり聴くタイプのアルバムとして関連性が高い。
4. Toro y Moi – Outer Peace
インディーR&B、チルウェイヴ、エレクトロニック・ポップを軽やかに横断する作品。V I N C E N Tに参加したToro y Moiの感覚を知るうえでも有効であり、踊れる要素と浮遊感のあるポップ感覚が共存している。FKJの柔らかな電子音楽性と比較しやすい。
5. Masego – Lady Lady
ジャズ、R&B、ソウル、ヒップホップを滑らかに融合した作品。サックスや即興的な演奏の魅力が強く、FKJのジャズ寄りの側面と相性が良い。現代ネオソウルの中でも、洗練されたムードと演奏の楽しさを同時に味わえるアルバムである。

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