
1. 歌詞の概要
IHMは、フランスのマルチ・インストゥルメンタリスト/プロデューサーであるFKJが2022年に発表した楽曲である。2022年6月10日にリリースされたセカンド・アルバムV I N C E N Tに収録され、アルバムでは6曲目に置かれている。Apple Musicの楽曲ページでも、IHMはV I N C E N T収録曲として2022年6月10日リリース、作詞・作曲はVincent Fenton、パフォーミング・アーティストはFKJと記載されている。Apple Music – Web
この曲で歌われるのは、自分の直感を信じたいのに、何を望んでいるのか分からないという揺れである。
タイトルのIHMは、楽曲の中で明確に長い意味が説明されるタイプのタイトルではない。
だからこそ、少し謎めいている。
FKJの楽曲タイトルには、情景や状態を短い言葉で置くものが多い。
Better Give U Up、Skyline、Lying Together、Ylang Ylang、Us、The Mission、Different Masks For Different Days。
タイトルは曲の内容を説明しきるというより、音の入口として機能することが多い。
IHMも同じだ。
短く、記号のようで、どこか内側に閉じている。
口に出すというより、頭の中で点滅する略号のようなタイトルである。
歌詞では、自分の道を見つけるという言葉が出てくる。
けれど同時に、全部めちゃくちゃにしてしまうかもしれないという不安もある。
直感を信じるべきなのか。
そもそも自分が何を欲しているのか分からない。
この迷いは、非常に現代的である。
選択肢はたくさんある。
情報も多い。
誰もが、自分らしく生きるべきだと言う。
だが、自分らしさとは何なのか。
本当に望んでいるものは何なのか。
直感と衝動は同じなのか。
自由と迷子は、どこで分かれるのか。
IHMは、そうした問いを声高に叫ぶのではなく、FKJらしい滑らかなサウンドの中で静かに浮かび上がらせる。
サウンドはメロウで、透明で、どこか孤独だ。
V I N C E N T全体に共通するのは、デビュー作French Kiwi Juiceよりも、もう少し内省的で、広い風景を持った音である。
Abbey Roadの記事では、V I N C E N TはFKJのセカンド・アルバムであり、彼がプロデューサーやリミキサーとしてだけでなく、ひとりのアーティストとして新しい段階に入る作品として紹介されている。Abbey Road
IHMは、そのアルバムの中でも、迷いと自己対話の色が濃い曲である。
踊れるようで、完全には踊りきれない。
気持ちいいのに、少し不安が残る。
音は柔らかいのに、歌詞は自分の内側の混乱を見つめている。
FKJの音楽は、しばしばチルで心地よいと表現される。
しかしIHMを聴くと、その心地よさの奥に、かなり繊細な不確かさがあることが分かる。
この曲は、夜に一人で考えごとをしているような音楽である。
答えはまだ出ていない。
でも、何かを選ばなければならない。
自分の直感を信じたい。
でも、その直感が正しいのか分からない。
IHMは、その曖昧な時間を、柔らかなグルーヴと薄い光で包んだ楽曲なのだ。
2. 歌詞のバックグラウンド
IHMが収録されたV I N C E N Tは、FKJにとって大きな意味を持つアルバムである。
FKJは、Vincent Fentonによるプロジェクトであり、French Kiwi Juiceの略称として知られている。彼はフランス出身のマルチ・インストゥルメンタリスト、シンガー、ミュージシャンで、シンセサイザー、ドラムマシン、ギター、ベース、ピアノ、サックス、ドラム、ボーカルなどを扱うアーティストとして紹介されている。ウィキペディア
FKJの音楽は、ネオソウル、R&B、ジャズ、ファンク、フレンチ・ハウス、エレクトロニックを滑らかに接続する。
楽器を自在に重ね、ループを組み、声をトラックの一部として溶かし込む。
彼の初期作品French Kiwi Juiceは、Roche Musique周辺の洗練されたチル/ネオソウル文脈の中で大きく支持された。
Better Give U Up、Skyline、Vibin’ Out with ((( O )))、Lying Togetherなどには、都会的でメロウな空気があった。
一方、V I N C E N Tは、より個人的なアルバムとして響く。
タイトルがアーティスト名ではなく、本名のVincentを示していることも象徴的だ。
FKJというプロジェクト名の向こうにいる、Vincent Fentonという一人の人間へ近づいていく作品に聞こえる。
アルバムにはWay Out、Greener feat. Santana、Us、The Mission、Can’t Stop feat. Little Dragon、IHM、Brass Necklace feat. ((( O )))、Different Masks For Different Days、A Moment of Mystery feat. Toro y Moi、Let’s Live、Once Again I Close My Eyes、New Life、Does It Exist、Stay a Childが収録されている。Abbey Roadの発表記事でも、この曲順が紹介されている。Abbey Road
この曲順の中で、IHMはアルバム前半の終わりに近い場所に置かれている。
Way Outでは、外へ出ていくような開かれた感覚がある。
GreenerではCarlos Santanaを迎え、ギターの霊的な響きがアルバムに大きな色を加える。
Usでは親密な関係性が浮かび上がる。
The Missionでは目的や旅の感覚が出る。
Can’t StopではLittle Dragonとのコラボレーションによって、よりポップでしなやかな動きが生まれる。
そしてIHMが来る。
ここでアルバムは、一度内側へ沈む。
外へ向かっていたエネルギーが、自分自身の中へ戻ってくる。
何を求めているのか。
自分の直感は信じられるのか。
このまま進んでいいのか。
そういう問いが浮かび上がる。
V I N C E N Tというアルバムが、FKJという音楽的キャラクターから、Vincentという個人へ近づいていく作品だとすれば、IHMはその中心にある自己対話の曲として聴ける。
また、IHMのクレジットは比較的シンプルである。
Apple Musicでは、パフォーミング・アーティストとしてFKJ、作詞・作曲としてVincent Fenton、プロダクション&エンジニアリングにFKJやOli Morganの名前が確認できる。Apple Music – Web
つまり、これは外部ボーカリストを前面に出したコラボ曲ではなく、FKJ自身の声と音が中心にある曲である。
この内向きの性格が、歌詞のテーマともよく合っている。
IHMは、誰かに対して大きく語りかける曲というより、自分自身へ問いかける曲だ。
リスナーは、その独り言にそっと同席しているような感覚になる。
3. 歌詞の抜粋と和訳
歌詞全文は権利保護のため掲載しない。ここでは、楽曲の主題を示す短い部分のみ引用する。Spotifyの楽曲ページでは、IHMの冒頭歌詞として次の一節が確認できる。
I’ll find a way on my own
和訳:
自分の力で
道を見つけるよ
この一節は、前向きに見える。
自分で道を見つける。
誰かに決めてもらうのではない。
誰かの期待に従うのでもない。
自分の足で進む。
しかし、この曲の美しさは、その直後に不安が滲むところにある。
道を見つけると言いながら、すべてを台無しにしてしまうかもしれない。
直感を信じるべきか分からない。
自分が何を欲しているかさえ、はっきりしない。
つまり、この一節は完全な自信の表明ではない。
むしろ、自信を持とうとしている人の言葉である。
自分の力でやるしかない。
でも、本当にできるのか分からない。
その揺れが、この曲の心臓になっている。
引用部分の著作権は作詞・作曲者および権利者に帰属する。ここでの引用は批評・解説を目的とした最小限の使用である。
4. 歌詞の考察
IHMの歌詞は、自立と不安のあいだを行き来している。
自分の道を見つける。
この言葉は強い。
だが、この曲ではその強さがすぐに揺らぐ。
自分で決めることは、自由である。
同時に、とても怖い。
誰かに決めてもらえば、失敗したときに責任を外へ置くことができる。
流れに乗っていれば、自分で選んだという痛みを少し避けられる。
でも、自分の道を選ぶなら、失敗も自分のものになる。
IHMの主人公は、その重さを知っている。
だから、道を見つけると言いながら、mess it all、すべてをめちゃくちゃにしてしまう可能性を感じている。
この感覚は、人生の転換期にとても近い。
仕事を変える。
関係を変える。
住む場所を変える。
音楽の方向性を変える。
自分の名前で、自分の作品を出す。
これまでの自分を脱ぎ、新しい自分へ向かう。
そういうとき、人は直感を頼りにしたくなる。
しかし、直感はいつも明瞭ではない。
gut、つまり腹の感覚は、理屈より先に反応する。
でも、それが本当に正しいのかは分からない。
恐怖もまた、腹の感覚として現れる。
欲望も、逃避も、直感のふりをする。
IHMの歌詞にある、Should I trust what tells my gutという問いは、非常に鋭い。
自分の内側から来る声を信じるべきなのか。
それとも、その声も疑うべきなのか。
これは、創作者にとっても重要な問いである。
FKJのようなマルチ・インストゥルメンタリストは、音を一人で積み上げることができる。
ギターも弾ける。
ベースも弾ける。
鍵盤も弾ける。
サックスも吹ける。
声も入れられる。
ループも組める。
つまり、自由度がとても高い。
しかし自由度が高いほど、どの方向へ行くべきか分からなくなることもある。
音を足すのか。
引くのか。
歌うのか。
インストゥルメンタルにするのか。
ダンス寄りにするのか。
内省的にするのか。
ポップに開くのか。
より個人的に閉じるのか。
IHMは、その選択の迷いを感じさせる。
サウンド面でも、この曲ははっきりした爆発へ向かわない。
FKJらしいコードの滑らかさがある。
ビートは心地よく、低音は柔らかい。
しかし、曲全体に少し霧がある。
Better Give U Upのような明快なメロウ・グルーヴとも少し違う。
Tadowのような即興的な高揚とも違う。
Greenerのようなギターの大きな存在感とも違う。
IHMは、もっと内側で揺れている。
歌も、強く前へ出るというより、トラックの中で自分に言い聞かせるように響く。
この声の置き方が素晴らしい。
自分の道を見つけるという歌詞なのに、声は堂々と宣言しない。
むしろ、少し迷いながら口に出している。
だからこそ、リアルなのだ。
人は本当に迷っているとき、力強い宣言をしながらも、その奥で震えている。
IHMの声には、その震えがある。
また、この曲はV I N C E N Tというアルバムの中で、成熟のための迷いとして聴こえる。
FKJの音楽は、聴き手にとって心地よい空間を作ることに長けている。
だが、アーティスト自身にとって、心地よい音を作り続けることは、ときに難しい問題にもなる。
リスナーが求めるFKJらしさ。
自分が更新したい音。
コラボレーションによって広がる世界。
一人で作る内省的な世界。
その間で、自分の本当の声を探す。
V I N C E N Tというアルバム・タイトルが示すように、この作品ではFKJというブランド化された名前の向こうに、Vincentという個人がいる。
IHMは、その個人が迷いながら自分の道を探す曲なのかもしれない。
5. この曲が好きな人におすすめの曲 5曲
- The Mission by FKJ
V I N C E N T収録曲で、IHMの直前に近い流れの中にある楽曲である。目的地へ向かうような感覚と、FKJらしい滑らかなグルーヴが合わさっている。IHMが自分の道を見つけようとする内省なら、The Missionはその道へ一歩踏み出すような曲として聴ける。
- Different Masks For Different Days by FKJ
同じくV I N C E N T収録曲。タイトル通り、日々によって違う顔を使い分けるような感覚があり、IHMの自己探求と深くつながる。自分は何者なのか、どの顔が本当なのかという問いを、FKJらしい柔らかな音像で味わえる。
- Does It Exist by FKJ
V I N C E N T後半に収録された楽曲。存在するのか、というタイトルからして、IHMの迷いと響き合う。FKJの内省的な側面をより深く聴きたい人に合う曲である。
- Better Give U Up by FKJ
2015年のシングルで、のちにFrench Kiwi Juiceにも収録された代表曲。IHMよりもグルーヴは明快だが、迷い、依存、手放すべきものへの葛藤という点で通じるものがある。FKJのメロウな歌ものを知るには欠かせない。
- Ylang Ylang by FKJ
2019年のEPタイトル曲。IHMのような内省的なFKJが好きなら、この曲の自然、静けさ、穏やかな浮遊感も深く響く。言葉よりも音の呼吸で感情を伝えるFKJの魅力がよく出ている。
6. 自分の道を探す夜に鳴る、FKJの静かな自己対話
IHMは、FKJの中でも大きな派手さで聴かせる曲ではない。
Tadowのような即興的な華やかさはない。
Better Give U Upのような分かりやすいメロウ・フックでもない。
GreenerのようにCarlos Santanaのギターが強烈な色を加える曲でもない。
しかし、この控えめさがIHMの魅力である。
この曲は、夜の内側で鳴る。
誰かと話しているようで、自分に話している。
進むべき道を探している。
でも、まだ足元は完全には見えていない。
自分の道を見つける。
この言葉は希望である。
同時に、孤独でもある。
誰かが地図をくれるわけではない。
自分で選ぶしかない。
そして、その選択が間違っていたとしても、自分で引き受けなければならない。
IHMは、その孤独を静かに受け止める。
FKJの音楽の美しさは、こうした重い感情を、硬くしすぎないところにある。
不安を歌っても、音は柔らかい。
迷いを歌っても、グルーヴは消えない。
内省していても、身体はわずかに揺れる。
このバランスがとてもFKJらしい。
現代のリスナーにとって、IHMのような曲は特別な居場所になる。
強い言葉が多すぎる時代。
正解をすぐに求められる時代。
自分らしさを証明しなければならない時代。
その中で、IHMはまだ分からないと歌う。
これは、弱さではない。
分からないことを認めることは、とても誠実な態度である。
自分が何を望んでいるのか分からない。
でも、考えている。
感じている。
探している。
その途中の状態を、IHMは音にしている。
V I N C E N Tというアルバムの中で、この曲が持つ意味も大きい。
アルバムには、外へ開かれたコラボレーションや、強いグルーヴを持つ曲が並ぶ。
その中でIHMは、ひとりのVincent Fentonが自分に戻る瞬間のように聞こえる。
FKJという名前の洗練されたサウンド。
世界中で聴かれるチルでメロウなイメージ。
その奥にいる人間が、まだ迷っている。
その迷いが、曲に奥行きを与える。
完璧に整った音楽の中に、少し不確かな声がある。
だから、聴き手はそこに入り込める。
IHM by FKJは、自分の道を見つけようとしながら、直感も欲望もまだ信じきれない夜の自己対話を、メロウなエレクトロニック/ネオソウルの質感で包んだ楽曲である。
答えは出ない。
でも、曲は進む。
それがいい。
人生でも、いつも答えが出てから進めるわけではない。
むしろ、多くの場合、分からないまま歩き始める。
道は、歩いたあとに少しずつ見えてくる。
IHMは、その歩き始める前の静けさを鳴らしている。
自分の力で道を見つける。
でも、失敗するかもしれない。
直感を信じたい。
でも、自分の望みが分からない。
その揺れの中に、人間らしい美しさがある。
FKJはそれを、大げさなドラマではなく、柔らかなビートと声で描いた。
だからこの曲は、強い決意の歌ではなく、決意が生まれる前の歌として響く。
まだ迷っている。
でも、耳を澄ませている。
IHMは、その耳を澄ませる時間のための音楽である。



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